「ヨハネの福音書」 連続講解説教

い の ち の 光

ヨハネの福音書1章1節から5節
岩本遠億牧師
2009年1月11日

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

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2年半かけてマタイの福音書を学びましたが、昨年の年末に完了しました。王なるイエス様を指し示すこの福音書を丁寧に学ぶことができたことを感謝します。今日からは、世の光としてのイエス様、神の独り子としてのイエス様を指し示すヨハネの福音書をご一緒に学びたいと思います。イエス様を多角的に理解するためには、3つの福音書とは違った観点で書かれているヨハネの福音書を通してイエス様を見る必要があるからです。

この福音書の証言は、神であったイエス様が人となってこの地を歩んだということです。日本人がキリスト教に対して抱く違和感は、まさに神が人となられたということに尽きるかもしれません。日本人は、人が神となるという下から上への変化が大変好きです。悪い人間だったけれども、心を入れ替えて修行を積み、人ができないような難行苦行を経て、聖人になる。生き神となる。また、最終解脱者になることができる。だから、あなたも修行しなさい。修行によってあなたの今の苦しみを克服することができる。そして、あなたも解脱者、一人の神となる。他の人を導くことができるようになる。このように言われることが日本人は好きなのです。

これは、日本人だけではありません。宗教改革者ルターは、奉仕、献金、伝道、あるいは瞑想や祈りの実践によって救いを得よう、神様に近づこうとすることを梯子の神学と言って、多くの人たちがこのような間違った理解をしていると述べています。

一方、聖書は、このような救済観や宗教観を完全に否定します。罪による人の堕落は、罪の海に溺れている状態を意味します。誰でも、溺れている人は、その状態から泳ぎを覚えて岸に泳いでいくことはできません。誰かに助けてもらわなければ、絶対に救われることはないのです。罪の海に落ちた私たち人間を救う者は、時間が始まる前から神と共におら人としてこの地を歩かれたのだ。この方だけが私たちを救うことができるのだと。

ヨハネの福音書は、この方を「ことば」と言いました。「ことば」とは何でしょう。言語学的な観点から見ると、このことは理解しやすいと思います。「ことば」とは、常に「内容」と「表現形」がペアとなっているもので、我々が耳にする音声は、この表現形です。表現形態を聞いて内容を理解することができる。父なる神様と子なるキリストとの関係は、この「内容」と「表現形」のような関係であると理解することができます。両者は、常にペアとして一体であり、神がおられるところキリストがおられる。時間が始まる前からキリストは神と共におられた。

このキリストを見ることによって神様を理解することができ、イエス様を知ること、イエス様を見ることそのものが神様を知ること、見ることであるのです。この方の創造の業を、命、光をとおして、私たちは神様を知ることができるのです。

ヨハネは、「全てのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」と言いました。「神は「光あれ」と言われた。すると光があった」と創世記が語るように、神様の言葉そのものが創造の業であるのです。

私たちは、このことを自分に当てはめてみて、どう思うでしょうか。全てのものは、この方によって造られたと言っています。全てのものに、私の存在、あなたの存在はふくまれないでしょうか。

私は何のために存在しているのでしょう。あなたは何のために存在しているのでしょうか。私はたまたま存在しているのでしょうか。あなたはたまたま存在しているのでしょうか。もし、たまたま存在しているのであれば、私たちにはたまたまの価値しかないでしょう。

多くの人が自分の価値に確信が持てず、自分にはたまたまの価値しかないと不安を感じています。自分の存在が偶然の産物だと思うからです。しかし、聖書は言うのです。「すべてのものは、この方によって造られた。この方によらず存在するものは一つもない。」「あなたは、この方によって造られた。あなたは、この方によって存在しているのだ」と。

しかし、私たちは、自分の中に、これが神様が創造なさったものだろうかと思うような欠点や不完全さ、そして罪があることに気がついています。神様が私を創造して下さったのなら、どうして私はこんな私なんですか。どうして病気になるのですか。輝いていたいのに輝くことができないのですか。なぜ、罪の中で苦しむのですか。もし、神様が全てのものをイエス様によって無から完全なものとして創造されたのなら、なぜ、この世は不完全なのですか。悪意と敵意があるのですか。聖書は言います。それは神様がこの世と人を不完全に造ったのではなく、人の罪によるものだと。

皆さん、イエス様は、その苦しみを誰よりもよく知っておられるのです。そして、私たちを、この罪の状態から救い出し、もう一度完全なものとして再創造するために、人となり、この世に来て下さった。ヨハネはそのことを告白しているのです。

ヨハネは言います。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」ここで言う「いのち」とは、「永遠の命」のことです。私たちの肉の命ではない。この方だけが持っておられた永遠の命、これを私たちに与えるためにこの方は人となられたのだと。永遠とは、いつまでも続くという意味ではありません。量的な長さを問題にしているのではなく、質的な違いを問題にしている。つまり、この時間というものに限定され、この肉の体に限定された世界ではない、量によって限定されない永遠という世界に生きる者とされるのだというのです。

私たちにとっての救いとは、量や長さという物差しによって限定され、人を失望させる世界に永遠という世界から切り込んできて下さったイエス様に握られることを言うのです。これが先週もお話した「キリストという土台」です。

そして、この方が私たちの命の光なのであります。この光が照らされるところ(1)無秩序に秩序が与えられます。(2)真理と虚偽を明らかにします。知性が筋道だった判断をするようになる。(3)存在が明るく光り輝くようになります。(4)罪というバイ菌を殺し、その源である闇を打ち破ります。

私たちがこれからヨハネの福音書を読んで理解し、イエス様を更によく知っていくために必要なことは、この世を無秩序とし、物事を虚偽で覆い隠して人の存在の意味を分からなくする、暗闇という実在の力が存在するということです。この暗闇の力が人に罪を犯させる。イエス様は、この暗闇という力、悪魔の力と戦い、これを打ち破るために来られたのだということを私たちは知る必要があります。

ただ単に、人に優しくなること、親切であることを説くために来られたのではありません。良し悪しを相対的な観点から論じて、より良くなるために私たちがどうならなければならないかと教えに来られたのではないのです。ここにイエス様とは一体誰であるのかという秘密があります。イエス様は、単に道徳や倫理の教師や実践者ではなかったのです。人間に罪を犯させ、これを縛りつける闇の力、悪魔を打ち砕き、これを滅ぼすためにやって来られた実在者なる神様その方であったのです。

「闇は光に打ち勝たなかった」と聖書が言うとき、「打ち勝たないだろう」と言っているのでも、「これから打ち勝つ」と言っているのでもありません。闇は、イエス様をその全ての力で潰そうとした。十字架にかけてイエス様の存在を抹消し、光を消し去ろうとした。しかし、闇は光に打ち勝たなかった。光は闇の中に輝き続けたのです。このいのちの光であるイエス様を消すことはできなかった。

ヨハネは、実在者であるイエス様、時間が始まる前から神様と共におられ、神であるお方、全てのものを創造し、永遠の命であり永遠の光であるかたを告白しています。そして、私たちに語りかけるのです。この方を知りなさいと。光の中を歩む者であれと。

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