「マタイの福音書」連続講解説教

ただ一人希望を語る方

マタイの福音書26章26節から35節
岩本遠億牧師
2008年10月19日

26:26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」26:27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。26:29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」26:30 そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。26:32 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」26:33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」26:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」26:35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。

+++

連続でマタイの福音書を学んできましたが、いよいよ最後の晩餐の時となりました。イエス様は、十字架にかけられる前夜、弟子たちと最後の過越しの食事をなさいました。過ぎ越しの食事とは、モーセの時から今に至るまで、ユダヤ人たちが守り続けている出エジプトを記念する儀式としての食事であり、単なる食事会ではなかったのです。

パンにも葡萄酒にも出エジプトの時から覚えられてきた意味がありました。通常は、種入れぬマッツァーというパンを裂く時には、出エジプトの慌ただしさと主からの命令を覚えるための言葉が食卓のマスターから述べられるわけですが、この時、イエス様は、それに替えて、「これはわたしの体である」と宣言なさいました。また、メインの小羊の料理の後で赤い葡萄酒が回し飲みされるのですが、それは出エジプトの時小羊の血を鴨居に塗った家が滅びから救われたことを記念するものでした。しかし、イエス様は、この時、「これはわたしの血です。罪を赦すために多くの人(すべての人)のために流されるものです」と宣言なさいました。過ぎ越しにまったく新しい意味が与えられたのです。これらは、弟子たちにとっては驚愕するような宣言であったに違いありません。

パンを裂きながら、「これはわたしの体である」と言われるということは、「わたしの体が裂かれ、それがあなた方の食物、命となる」ということであり、「これはわたしの血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」と言われる時に、イエス様は自分が殺され、血を流す、それが全人類の罪の贖いとなるということを仰っているのです。

通常の過越しの食事で宣言されるのとは違う言葉を聞き、弟子たちには印象深く記憶に残ったことでしょう。しかし、彼らのうち誰が、イエス様の言葉の意味を理解しただろうか。いや、誰も理解するどころか、弟子たちの間には言いようもない絶望感が広がっていたのです。

この過越しの食事のはじめに、イエス様は言われました。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切る」と。そして、不安になった弟子たちが次々に「主よ、まさか私ではないでしょう」と尋ねたということ先週私たちは見ました。誰もが「主を裏切るのは自分かもしれない」という不安を抱えていたのです。イエス様もそれをご存知でした。

自分はイエス様にどこまでもついていくことができるだろうか。イエス様を裏切ることはないのだろうか。そのような恐れを弟子たちの全てが抱いていました。その弟子たちに、イエス様は新しいパンと葡萄酒の契約をお与えになった。このことの意味は、非常に重要です。

言うならば、イエス様は、信仰がふらついている者、信仰喪失の危機に瀕している者、いや、信じているとは言えない者、そのような者たちに新しい契約であるパンと葡萄酒をお与えになったのです。後に、ペテロをはじめ弟子たちは「あなたのために命を捨てる覚悟はできている」と言いますが、その言葉はもろくも崩れ去りました。鎌倉の雪の下教会の牧師であった加藤常昭先生は、この言葉は絶望の裏返しでしかないと指摘しておられます。まさに、そのとおりです。彼らは絶望していたのです。

私たちは毎月第一日曜日に聖餐式をもっていますが、誰が聖餐に与るのにふさわしいのか。イエス様を一生の間信じ続ける決心をした者か。一生懸命信仰生活を送っている者か。どうなのでしょう。これからイエス様を全存在で否定し、信仰を失い、絶望していこうとしている者たち、そのような者たちにイエス様が最初の聖餐をお与えになったというとき、私たちは、もはや他の基準で人を分け隔てしてはならないと思うのです。誰一人、自分は相応しいとは言えない、絶望に向かう一人一人にイエス様は、「さあ食べなさい。これはわたしのからだ。わたしの命だ。わたし自身だ。さあ飲みなさい。あなたの罪のためにわたしが十字架で血を流した。あなたの罪は赦された。わたしにあってあなたは生きよ」と仰っているのではないでしょうか。

食事を終えて、彼らはオリーブ山に向かっていきます。これは、エルサレムを一望できる丘ですが、そこでイエス様は言われるのです。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。26:32 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」

しかし、ペテロは答えます。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」26:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」26:35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。

先ほども紹介しましたが、加藤常昭先生というすぐれた説教者がおられます。この方が、このペテロの告白は絶望の言葉だと仰っています。これは希望の言葉ではなく絶望の言葉だと。ここで真に希望を語ることができたのは、主イエス様だけだと。それを読んだとき、私は胸をえぐられるような思いがしました。

イエス様のために自分を捧げて生きようと小さい時から願い、その思いを持ち続けながら生きてきた。しかし、自分の中から出てきたイエス様に対する思いが絶望だと言われたとき、返す言葉がなかった。まさにそのとおりだったからです。

イエス様は言われました。「あなたがたはわたしのゆえにつまづく」と。怖くなって逃げると言われたのではありませんでした。あなたがたは、わたしに失望する。そしてわたしを見捨てるということです。何故か、彼らは弱く惨めなイエス様の姿を見るからです。戦わないイエス様、鞭うたれ、辱められ、殺されるイエス様を見るからです。自分の基準からしたらイエス様があまりにも惨めだからです。

自分の王、自分の主とするにはあまりにも弱く、低められたイエス様に弟子たちは絶望しました。そして、自分自身にも絶望するのです。あんなに愛されたのに、愛して下さった方に対する愛を貫くことのできない弱さ、愛と言っても、結局は自分を基準にした愛、自己愛の延長でしかないイエス様に対する、そんなねじれた自分の愛の実態を直視しなければならず、弟子たちは絶望するのです。

しかし、イエス様は語られました。「わたしはよみがえってから、あなたがたたより先に、ガリラヤへ行く」と。このイエス様の言葉に、私たちの全ての希望があるのです。私たちがイエス様のために何かをするということではない、どうするということではない。献身の思いを持つこともある。献身した者が絶望することもある。しかし、「わたしはよみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行く。あの出会いの場所。信頼関係を築いたあの場所。そこであなたがたを待っている。そこでもう一度会おう」と仰っているのです。

ヨハネの福音書によると、弟子たちはエルサレムで復活したイエス様に出会ったにもかかわらず、絶望から立ち上がることができず、ガリラヤに帰って元の漁師生活に戻ります。しかし、イエス様は、その漁の現場で彼らを待っておられました。

ペテロと出会った時に与えた大漁の奇跡と同じ奇跡を起こし、ペテロの中にイエス様に対する信頼の心をもう一度お与えになりました。そしてご質問になります。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。わたしを愛してくれるか」と。ペテロは答えます。「主よ、あなたがご存じです。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と。イエス様は3度お聞きになりました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と。ペテロは答えます。「主よ。あなたは全てをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と。

ペテロは、「わたしがあなたを愛していること」ではなく、「あなたがすべてをご存じである」ということに全てがあるということを知る者となったのです。ここにイエス様との真の関係があるのです。

先ほどみなさんとご一緒に、ダビデ契約と言われる、主のダビデに対するお約束を読みました。ここでも主ご自身が、「わたしが」「わたしが」と仰っている。私たちの「自分が」という思いではなく、主が「わたしが」とおっしゃる言葉が実現するのです。そして、そこにこそ、真の平和が満ち溢れる。

イエス様の十字架を前に、そして自分の命の危険がせまったとき、全ての者たちが信頼を失い、全ての者たちが絶望しました。もう「自分が」とは言えない者たちに、「わたしは、蘇ってから、あなたがたより先にガリラヤに行く。わたしが、そこでお前たちを待っている。わたしが、お前たちに新しい関係を与える。わたしがお前たちをもう一度生かす。わたしがお前たちにもう一度希望を注ぐのだ」とおっしゃる主がいるのです。

祈りましょう。

関連記事