「マタイの福音書」連続講解説教

まことの王

マタイの福音書21章1節から11節
岩本遠億牧師
2008年5月25日

21:1 それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、 21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。 21:3 もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」

21:4 これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。 21:5 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」

21:6 そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。 21:7 そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。 21:8 すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。 21:9 そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」

21:10 こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。 21:11 群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。

+++

マタイの福音書を学んできましたが、いよいよイエス様がエルサレムに入城なさる箇所になりました。イエス様たちは、ユダヤ人にとって最大の宗教的行事である過越しの祭りに合わせてエルサレムに行こうとしておられました。当時過越しの祭りには200万人ともいう人々がエルサレムに集っていたと言われますが、ガリラヤからも非常に多くの人々がエルサレムを目指して旅をしていました。

イエス様は、ガリラヤではスター的な存在でありました。ガリラヤの人たちは、この方こそイスラエルを外国人の支配から解放して、神殿礼拝を中心とする神権国家を作ってくださる救い主なのだ、イスラエルの王となる方だという期待を持って、イエス様の周りを取り囲むようにしてエルサレムに向かっていたのです。決して人目につかないように、とか、こっそりといかれたのではなかったのです。「群集」と言われるような多くの人々がイエス様に従っていたという状況を思い浮かべて頂くと、理解しやすいかもしれません。

イエス様一行は、オリーブ山からエルサレムに入られるのですが、エルサレムの写真やテレビなどで映し出されるのがオリーブ山からの今のエルサレムの様子です。その間には深い谷があり、ギデロン川という川が流れています。

イエス様は、ここからロバの子に乗って、エルサレムに入られるわけですが、ガリラヤから一緒に来た群衆たちを巻き込んだ一大デモンストレーションをなさるわけです。イエス様がロバの子に乗ったら、たまたま、周りの人たちが王を迎える歓呼の声を上げたということではないのです。ご自分でそのような演出をなさいました。

彼らは、「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に」と叫びましたが、「ホサナ」というのは、ヘブル語で「今救いたまえ」という意味の言葉です。それが、神様を賛美する言葉、王なる主を迎えるための言葉として熟語になったものです。「ダビデの子にホサナ。」「この方こそ、ダビデ大王の子孫、イスラエルの王となる方である。あなたこそ、私たちを救う方。あなたに栄光あれ」という意味です。イエス様の前に行く者たちも後に従う者たちも王を迎える叫び声をあげ、自分の上着や棕櫚の葉をカーペットのように道に敷いてイエス様の通られる道を作っていきます。

因みに、上着を満ちに敷いた男たちは下着だけになったわけですが、そのような熱狂的な群集と共にエルサレムに入られたのです。

今、熱狂的な群集と言いましたが、熱狂的な群集は、この数日後にまた現れます。ユダヤ人の指導者たちの憎しみを買って捕らえられて拷問を受け、ローマ総督の前に引き出されたイエス様に向かって、「その男を十字架につけろ。殺せ」と叫んだ群衆です。数日前には「ダビデの子にホサナ」と叫んでいた群集が、今度は「十字架につけろ。殺せ」と叫ぶ。まさに理性を失い狂乱して叫ぶ群集の中にイエス様は身を置いておられたのです。イエス様は、このことを予測できなかったのか。あるいは知らなかったのか。勿論、ご存知だったのです。

それを知った上で、エルサレム入城の大デモンストレーションを行われた。どのようなお気持ちだったのでしょうか。何故だろうか。ある説教者は言っています。全てに裏切られ、捨てられ、殺されることが分かっていたのなら、普通はこんな形で自分を現したりしないだろう。イエス様は、悪い言葉で言えば、「猿芝居を打った」とも言える。それは何故だったのだろうか。それには重大な意味があったのだと。

それは、ご自分が王であるということを明らかに示すためです。いや、もっと明確に言うなら、「真の王とは何か」を明らかにするためであり、「自分こそ、その真の王である」ことを示すためです。

イスラエルの民が、最初に王を求めた時のことが第一サムエル記に書いてあります。Iサムエル記8章です。イスラエルの民が他の国々と同じように自分たちにも王が必要だと主張した時、主は、言われました。「彼らは、王であるわたしを退けたのだ」と。そして、預言者サムエルをとおして、この地上の王がすることを次のように明言なさいました。

「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。 8:12 自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。 8:13 あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。 8:14 あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。 8:15 あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。 8:16 あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。 8:17 あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。 8:18 その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」

王は、その権力によって、あなたたちを搾取するということです。人類の歴史に王が現れて依頼、彼らはその軍事力によって、絶対的な権力をふるい、人民を支配し搾取してきました。王の権利を制限しなければならないということが歴史の上で最初に認識されたのは、1215年にイギリスでマグナカルタが制定された時です。しかしイギリスでも絶対君主制はその後も登場しますし、王を名乗らなくても、軍事力によって民を支配し、搾取する人々は今も世界の至るところにいるのです。また、列王記を読むと、人間の王がどれほどイスラエルを偶像礼拝に引き込み、道を誤らせ、滅亡に導いたかということが記録してあります。

そのような意味で、人間の王を求めてはならないというサムエルの忠告に、私たちも耳を傾けなければなりません。しかし、私たちに王が必要でないかと言うと、そうではないと聖書は言います。この天と地にはただ一人の王がいらっしゃるのです。王なる神です。聖書は語りかけます。この方がどのような方かを知りなさい。真の王とは何なのかを知りなさい。この方が誰なのかを知りなさいと。そして、この方を自分の王として仰ぎなさい。この方に従いなさいと。

イエス様は、王としてエルサレムにご入城になった時、ロバの子に乗られたと聖書は記します。

21:1 それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、 21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。 21:3 もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」 21:4 これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。 21:5 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」

群集に取り囲まれてエルサレム近くのオリーブ山の麓まで来られたとき、二人の弟子を遣わして、ロバの子を借りて来させます。そして、その上に乗られました。イエス様がまたがったら、足が地面についてしまうようなロバの子です。何故ロバの子なのか。

それは、ゼカリヤ書という預言者の書に次のような預言があるからです。

「9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。 9:10 わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。」

馬は戦いに用いられる動物でした。馬によって敵を蹴散らすのです。また馬が戦車を引きます。王が町や城に入るときは、戦いに勝利した者として馬に乗っていたのです。しかし、神様は預言者ゼカリヤを通して語られました。この真の王は、戦車を絶やす。軍馬を絶やす、平和を造る方だと。この方こそ、全世界に平和を造る方なのだと。

さあ、エルサレムの娘たち。敵に踏みにじられ、辱めを受け、絶望する者たちよ。さあ、喜び叫べ。お前たちの王がやってくるのだ。馬ではなく、ロバの子に乗ってこられる柔和な方、謙遜な方、この方こそ、平和の王、主の主だと預言されました。

イエス様は、この平和の王こそ自分なのだということを明らかになさっているのです。そして、数日後には自分を十字架につけろと叫ぶであろう群衆の歓呼に迎えられながら、「いや、十字架につけられて血を流し、殺されることによって平和を造る者こそ、真の王なのだ。わたしがそれだ」ということをこの行為によって宣言しておられるのです。

エルサレムの娘たちとは一体誰でしょう。人生に踏みにじられ、絶望する者とは一体誰でしょうか。あなたのために真の王がやって来られる。この方は、あなたを踏みにじることはない。馬で蹴散らすこともない。荷を背負わせられても黙ってついて来るロバのように、あなたの人生の重い荷物を背負ってくださる方なのです。あなたの罪の重荷を背負ってくださる。あなたを赦すために、あなたを生かすために黙って死んでくださったのです。この方が黙って十字架にかかって死んでくださったから、あなたに、そして私に平和が与えられたのです。

私たちは、イエス様をどのように信じているでしょうか。また、信じたいと思っているでしょうか。私たちの救い主、罪を赦して下さる方、天国に招き入れてくださる方として信じておられると思います。また、そのように信じていただきたいし、その信じ方は正しいです。

しかし、イエス様を信じるとは、それだけではないのです。イエス様ご自身が、自分は王だということを明らかにしておられるからです。私たちは、王としてのイエス様との関係を持っているでしょうか。私たちが自分の存在の全てを捧げ、従うべき方。すべてのものの主であり、王である方として、イエス様を誉め讃えているでしょうか。

今、ディズニーの映画で「ナルニア国物語:カスピアン王子の角笛」という映画が上映されています。今日、私も見に行こうとおもっています。ディズニーよりも前に、BBCが優れたテレビドラマを作っていたのを何度も見ていますし、本でも読んだことがあります。その中にアスランというライオンが出てきますが、これは、イエス様のことを表しています。

ナルニアの第一巻「ライオンと魔女」では、罪人であり裏切り者である人間に代わって殺され、さらに悪魔を打ち砕く、救い主としてのイエス様の姿がアスランをとおして表されますが、「カスピアン王子の角笛」では、「王であるアスランに従う」ということが重要なポイントとして提示されています。一番年下のルーシーは、アスランに、どんなことがあってもアスランの姿が見えるほうに行かなければならないと命じられますが、成り行きに流されて、アスランの姿を見ても、それについていかずに、結局、グループ全体が窮地に陥るという場面があります。

「他の誰が従わなくても、お前は私に従え。」そのようなメッセージをルーシーは与えられます。それまで、ルーシーにとって、アスランは大好きな友達でした。しかし、ここで、ルーシーは従うべき王としてアスランを認識するようになるのです。このことは、私たちにとっても重要なポイントです。

「慈しみ深き友なるイエスは」という賛美にあるような、「友」としてのイエス様を知ることは大切です。しかし、友となってくださる方が、私たちの王であり、従うべき方であることを知ることは更に重要なのです。従わなければならない理由は必要ないでしょう。この方が王だからです。私たちは、この方が自分の王であることを知らなければならないのです。

勿論、従わなければならないことが分かっていても、従えないことがあります。この地上の王は、自分に従わないものを縛り上げ、さらには殺したりします。しかし、私たちの王は、言うことを聞かない私たち、王を王とも思わず、無視して生き続けてきた私たちのために、ご自分の命を捨てられたのです。地上の王は、自分を守るために、家来に命を差し出させます。しかし、私たちの王は、私たちを守るために、ご自分の命を差し出されたのです。

群集に歓呼を持って迎えられエルサレムに入城なさったイエス様、そして、同じ群集に「十字架につけろ」との罵声を浴びせかけられながら、黙って十字架の道を進まれたイエス様、このイエス様の二つのお姿は、ともに全世界の王、王の王、主の主としてのお姿なのです。

私たちは、この方に何と申し上げるでしょうか。この方が、私たちの心の扉をノックして、「私だ。そのドアを開けてくれ」と仰っている今、私たちは、この方に何と申し上げるのでしょうか。

祈りましょう。

関連記事