ヤコブ物語

わたしが共にいる

創世記28章
岩本遠億牧師
2009年4月26日

28:1 イサクはヤコブを呼び寄せ、彼を祝福し、そして彼に命じて言った。「カナンの娘たちの中から妻をめとってはならない。 28:2 さあ、立って、パダン・アラムの、おまえの母の父ベトエルの家に行き、そこで母の兄ラバンの娘たちの中から妻をめとりなさい。 28:3 全能の神がおまえを祝福し、多くの子どもを与え、おまえをふえさせてくださるように。そして、おまえが多くの民のつどいとなるように。 28:4 神はアブラハムの祝福を、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫とに授け、神がアブラハムに下さった地、おまえがいま寄留しているこの地を継がせてくださるように。」 28:5 こうしてイサクはヤコブを送り出した。彼はパダン・アラムへ行って、ヤコブとエサウの母リベカの兄、アラム人ベトエルの子ラバンのところに行った。

28:6 エサウは、イサクがヤコブを祝福し、彼をパダン・アラムに送り出して、そこから妻をめとるように、彼を祝福して彼に命じ、カナンの娘たちから妻をめとってはならないと言ったこと、 28:7 またヤコブが、父と母の言うことに聞き従ってパダン・アラムへ行ったことに気づいた。 28:8 エサウはまた、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないのに気づいた。 28:9 それでエサウはイシュマエルのところに行き、今ある妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻としてめとった。

28:10 ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。 28:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。 28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。 28:13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。 28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。 28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

28:16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。 28:17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。 28:19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。 28:20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守り、私に食べるパンと着る着物を賜わり、 28:21 私が無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、 28:22 私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」

1.不思議な夢
ヤコブは、父を騙し、祝福を奪いましたが、兄に殺されそうになり、メソポタミアにいる叔父のラバンを頼って出て行きました。しかし、その途中で不思議な夢を見ました。28章12-16節

普通梯子は下から上にかけます。下から上に昇るためです。しかし、ヤコブは天から地にかけられた梯子を見た。そして神の御使いたちがそれを行き来していたというのです。人間は天に向かって努力しなければならないと思う。ヤコブは神の祝福を受けるために、人を出し抜き、騙し、自分で奪い取らなければならないと思いました。自分で昇らなければならないと思っていたのです。しかし、神の祝福は天から地に向かって降りてくるものだということを知りました。天と地が梯子によって繋がっていること、神様と自分との間には神様のほうから差し伸べられた手があるのだということを知ったのです。そして、神の御使いが上り下りしていた。(歩いてです。)何のためでしょうか。天から神が自分を助けるために御使いを遣わし、自分を具体的に助けてくださる。具体的な使命を帯びた御使いを遣わしてくださるということを知ったのです。抽象的に祝福を約束したり、抽象的な救いを約束する神様ではない。具体的な助け、具体的な救いを与えるために御使いを遣わす神様がいるのです。私達の周りにも、苦しいとき、困ったときに神様が遣わしてくださる地上の御使い(兄弟姉妹)が備えられているではないですか。

このような祝福は、私たちが努力して得られる成功とは質的に異なったものであることを意味しています。私たちが得たいと願うのは、神ご自身でなければ与えることができない祝福です。勿論、努力して成功することは必要です。しかし、神がお与えになる祝福は、天の星を手に入れるようなものです。落語の小話に「息子の星取り」というのがあります。皆さんよくご存知ですが、

むかし、あるところに息子と親父さんが住んでいました。ある晩、親父さんが帰ってくると、息子が庭に出て、物干し竿でしきりに空をつついています。
「おい、今ごろ何やっているんだ」
「あっ、おとっつあん。見たら分かるだろう。あんまり星がきれいだから、二つ三つ叩き落そうとしてるんだよ。でも、物干し竿が短くて届かないんだよ。」
すると親父さんが言いました。
「なあ、せがれ。頭を使わんか。星は空の高いところにあるんだぞ。そんなところでいくら物干し竿を振り回したって取れるはずがない。屋根に上がって取れ。」

神様しか与えることができない祝福を人間が努力して取ろうとしても、屋根に登って取ろうとするのと同じです。

どうですか、皆さん。私たちは神の祝福を求めて祈ります。しかし、それには前提があります。それは、天から私たちにかけられた梯子があるということです。天から私たちに向けられた祝福があることを知るところからすべてが始まるのであります。自分達が神に向かって昇っていきたいと言う気持ちも大切でしょうが、何よりも、神様のほうが天から私達のところに下ってきてくださることを知ることのほうがはるかに大切なのです。

2.神様の約束

ヤコブのそばに神様ご自身が自分の傍らに立ち、自分を祝福する言葉を語ってくださった。

神の祝福の言葉、それは「わたしがあなたと共にいる」という言葉に尽きるのです。ヤコブとヤコブの子孫に対する豊穣の約束。土地と勢力の約束。保護と帰還の約束が与えられますが、その基礎の基礎、その本質の本質は「わたしがあなたと共にいる」ということです。「見よ。わたしはあなたとともにいる。あなたがどこへ行ってもあなたを守る。」神様が守るとおっしゃるならば、守られるのです。神様の約束には限定がありません。「どこへ行っても」です。神様はあなたとともにおられます。これをインマヌエルの神と言います。

神が私たち人間に与える祝福は、すぐに金持ちになって、生活も豊かに、四仕事も順調、子どもや家庭に問題もないというようなものではありません。アブラハムは神から祝福の約束を得た後すぐに飢饉に見舞われています。約束の跡取もなかなか生まれない。しかし、アブラハムは生涯神の友として神に伴われ、危ないところを救われて、晩年になり、神の約束が確かなものであることを知りました。

ヤコブも、神の祝福の約束を受けて、まず経験するのが叔父に騙され、奴隷のようにこき使われるということでした。しかし、神はヤコブとともにいて、そのような中でヤコブの人格を練り、生きる勇気と智恵をお与えになるのです。神様が共にいて下さったから、ヤコブはそこを潜り抜けることができた。これが神の祝福です。何もしなくて楽できるようになることではない。勿論物質的な祝福も含まれますが、人格を鍛え上げて、周りの人から「神の人」と呼ばれるようになること。神がどんな時にも伴にいてくださるとこを経験すること。これが神の祝福なのであります。

だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」イザヤ43:1-2

自分さえ良ければよいと思い行った卑怯な行為、人を騙し、出し抜いたことが原因で命を狙われ、逃げている。人に誇れるようなことではありません。しかし、神様はそんなヤコブに祝福と保護を約束されたのです。悪いことをして逃げているヤコブを救ったのは神様の特別な恵みだったのです。ヤコブの行いではありませんでした。

人は神と共に歩むものとして創造されました。しかし、人は神様と共にあることを望まず、罪を犯しました。そんな人を探して神様は言われたのです。「人よ、あなたはどこにいるのか。」神様のところから出て行った者を探し出し、共に歩もうとされる。共にいようとされるのが私たちの神様です。

弱く、ずるく、悪いヤコブに対して、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語りかけ、祝福を約束なさる神様がいたのです。この方が私たちの神です。この方が私たちの神だから、私たちは救われたのです。永遠に救われ続けて行くのです。

3.夢の現実化
ヤコブは、朝目覚めて、言います。
「28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。 28:19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。 28:20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守り、私に食べるパンと着る着物を賜わり、 28:21 私が無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、 28:22 私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」

彼は、夢で与えられた神様の約束を現実のものとして受け取りました。この時から彼の祝福の人生が始まったのです。しかし、彼は無条件で神様に従おうとしたのでも、無条件で主を自分の神としようとしたのでもなかった。「もし」と言っています。それで良いのです。

神様の約束が成就した時には、十分の一を捧げると言っています。「十分の一を捧げる」とは自分の全てを捧げるという意味です。献金するから守って下さいというのではない。そこのところの理解はとても大切です。賽銭と献金の違いはここにあります。主が与えて下さった。恵んで下さった。わたしの神となって下さった。だから捧げるのです。自分自身を捧げるのです。

まだ先の見えない人生。何かが始まる前に、彼は神様と取引するようなことはしなかった。神様が共にいて守り、祝福すると一方的に約束して下さった。ヤコブはその実現を見た時に捧げますと約束したのです。それで良い。神様もそれで良いと仰っている。何故なら、神様は私たちが神様に何かを捧げるから祝福なさるのではないからです。私たちが何もできない時、まず一方的な恵みを注いで下さるのです。それに対して、私たちは捧げる者となって行く。それで良いのです。

「あなたがどこに行っても、わたしはあなたと共にいる。」主が私たち一人一人に約束して下さっています。新しい年度が始まったばかりですが、この一年、そして生涯にわたって、永遠に約束して下さる方がいる。「あなたがどこに行っても、わたしはあなたと共にいてあなたを守る。わたしは決してあなたを見捨てない。あなたを見放さない」と。

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