「ルカの福音書」 連続講解説教

イエスが招いてくださるから

ルカの福音書講解(74)第14章25節から35節
岩本遠億牧師
2013年4月7日

14:25 さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。 14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。 14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

14:28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。 14:29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、 14:30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。 14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。 14:32 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。 14:33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。

14:34 ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。 14:35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」

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約20年前に社会を震撼させたオウム真理教事件や統一協会などの破壊的カルト教団をはじめとする狂信的宗教団体による反社会的活動を目の当たりにし、日本の中には「宗教は怖い。宗教には深入りしてはいけない」というムードが漂っています。家族との関係を断ち、教団や教祖に対する忠誠を誓うことを強要することがそのような破壊的カルト教団では行なわれるからです。マインドコントロールという言葉が社会に蔓延したとき、人々は宗教を悪いものであるというような目で見るようになりました。

しかし、カルト宗教の問題は、それに巻き込まれた人々とその家族の人生を破壊したに留まりませんでした。宗教は危ない、宗教には関わらないほうが良いという風潮は、天地の創造者であり、私たちの創造者である神様を無視して生きよう、この方を無視したほうが安全であるという考えを生み、人間を高慢と虚しさ、滅びに陥れるものだからです。カルト宗教は、社会全体に創造者なる神様を無視したほうが安全であると思わせることに成功したという点で、悪魔的な働きをしたのです。

今日私たちに与えられている聖書の箇所を読んで、皆さんはどのようにお感じになったでしょうか。不安を覚えた方もいるかもしれません。キリスト教も怖い宗教なのかと。しかし、聖書の言葉を正しく理解するためには、語られた言葉の意味、語られた状況、誰に向かって語られたのか、さらに他の聖書の箇所との関係などを、総合的に、また、多角的に見て考える必要があります。

まず、ここで言われている「憎む」という言葉ですが、これは日本人が憎むと言う場合とは違った用法なのです。聖書では、最優先に大切にすること、第一にすることを「愛する」と言い、最優先ではないもの、第一ではないものを「憎む」というのです。ですから、家族を嫌いになる、自分自身を嫌いになるとかという意味ではありません。

私たちは毎週ハイデルベルク信仰問答を読んでキリスト信仰の基本について学んでいますが、その中にモーセによって与えられた十戒の学びが含まれています。十戒の第5戒に「あなたの父と母を敬え」と命じられています。イエス様はこの戒めをことのほか大切にしておられたようです。親はどうでもよいなどという考えはイエス様にはありませんでした。マルコの福音書に次のように言われています。

マルコの福音書7:10 モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。7:11 それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、7:12 その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。7:13 こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」

これを今の私たちの状況に当てはめて言うと次のようになるでしょう。経済的に困窮している父と母を持つクリスチャンの子供がいたとします。その子供が親に向かって「教会に十分の一献金を捧げなければならないので、お父さんお母さんを経済的に支えることは出来ません」というようなことがあってはならないということです。神様に捧げるものを後回しにしてもあなたの父と母の経済的な必要を満たせとイエス様は仰っているのです。

また、イエス様は、十字架にかけられた時、弟子のヨハネに「母を頼む」と言って、母マリアの生活のことを気遣い、弟子に託しておられます。イエス様が親をはじめとする家族をどうでもよいとおっしゃる訳がないのです。

「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちさえ憎んで」と言われていますが、「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹」というのは、家族のことです。ここでは男性だけに向かって語られているので、結婚している女性にとっては「夫」もこれに含まれます。

家族とは何か。それは、自分のアイデンティティを構成する最も基本的なものです。自分を自分であらしめているものと言って良いでしょう。親がいなければ自分はいません。親は自分自身を構成する不可欠の存在です。しかし、自分を創造してくださった天のお父様に出会った時、私たちはこの方に向かって「お父様」と呼びかけるようになる。自分の存在が、自分の肉の親ではなく、天地を造られた神様に依存し、この方が自分のいのちの源であることを知るのです。

イエス様に出会う時、この方こそ、私の天のお父様であるということを知る。親や夫や妻や子供に依存し、執着していた心から自由にされ、イエス・キリストにある愛をもって親、夫、妻、子供を真に愛することが出来るようになるのです。

私は、よく「自分の心から離れる」というメッセージをします。自分自身が自分の心から離れてイエス様と一つになる。自分の思いを実現しようとしない。ただ、イエス様の御思いが実現されることを求める。このようなことを「自分を憎む」というのです。しかし、その時、本当に自分を大切にすることを知るようになる。

そして、このことが本当に分かって行くと、自分の魂が自分の体のいのちからさえ自由になり、イエス様のいのち、永遠のいのちと一つになるようになる。ここに永遠の救いと平安があるのです。誰でも必ず体の死を迎えます。その時、体のいのちに執着する人は惨めです。私たちは、自分の体のいのちからさえ自由になる永遠のいのちを与えられるのです。

イエス様は言われました。ルカの福音書9:23「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。9:24 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。9:25 人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」

これがイエス様と共に歩むものたちに与えられる祝福なのです。しかし、このいのちと祝福に生きる者たちは、自分の家族を本当に生かす者ともされて行く。あなたの中に生きているイエス様のいのちと光が、あなたの家族を照らすようになるからです。

次に、この言葉が誰に向かって語られたかということを見てみましょう。「14:25 さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。」とあります。新改訳聖書で「群衆」と訳されている言葉は、「民衆」と訳されている言葉と対照的な意味を持ちます。「民衆」と訳されている言葉は「神の民」という意味ですが、「群衆」と訳されている言葉は雑多な人の群れを表すのです。

多くの人たちがそれぞれの思惑を抱いてイエス様と一緒に歩いていた。その中には神様に呼び寄せられた神の民もいましたが、自分の思いを遂げようとする人たちもいたのです。当時のイスラエルにはいろいろな対立がありました。政治的には支配されているイスラエルと支配しているローマ、宗教的には保守的なユダヤ(エルサレム)と自由なガリラヤ、社会的には裕福な人々と抑圧された貧しい人々。そのような中でそれぞれの人がイエス様に対して、「自分にとっての王」というイメージを持ち、イエス様が「自分にとっての王」になってほしいと願い、ついて来ていたのです。その点については、既にイエス様の弟子となっていたペテロやヨハネ、ヤコブなどの12弟子も同じでした。

そのような群衆にイエス様は言われたのです。「わたしの弟子になるかどうかは、座って良く考えてからにしたほうが良い」と。これからイエス様はエルサレムに向かい、十字架にかけられて殺されるのです。悪魔との戦いに勝利するためです。しかし、そのことは群衆の誰にも分からない。群衆一人一人が持っていた「自分にとっての王」には、イエス様はならないのです。そこで人の目に表されるイエス様のお姿は、捕らえられ、死ぬほど鞭で打たれ、そして十字架にかけられて殺される悲惨なお姿なのです。

あなたがたが望むようにはならない。だから、わたしについて来るかどうかよく考えなさい。自分の思いを実現しようと思うなら、わたしについて来るなどと考えないほうがよい。それが「塔を建てる人」と「1万人で2万人を迎え撃たなければならない王」の譬えで言われていることです。

しかし、皆さん、じっくり座って考え、それでもなおイエス様について行くことができるという確信をもってイエス様の弟子となることができた人は、どれだけいたのでしょうか。私たちはどうでしょうか。

イエス様は、ここで「14:33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」とおっしゃっていますが、ペテロは「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて(何もかも捨てて)あなたに従ってまいりました」とイエス様に言っています(マタイ19:27マルコ10:28、ルカ18:28)。しかし、ペテロは、自分の意志で自分の十字架を背負ってイエス様に従い抜くことができたのでしょうか。

4つの福音書の全てが、イエス様が捕らえられ、裁判にかけられている時、ペテロはイエス様を知らないと言って否定し、逃げて行ったと記しています。ペテロは自分の十字架を背負うことはできたのでしょうか。できなかったのです。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。 14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」とイエス様は言われました。しかし、誰も自分の意志と自分の力では、あのペテロさえ、できなかったのです。

しかし、イエス様はペテロに言っておられました。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後でついて来ることになる」(ヨハネ13:38)。

人間が自分の力でついて行くことができないのがイエス様の十字架の道だったのです。しかし、甦ったイエス様に出会ったとき、ペテロも他の弟子たちもイエス様について行く者となった。

イエス様がわたしについて来いと命じてくださったからです。イエス様がわたしについて来いと命じてくださる時、私たちはイエス様について行く者となる。イエス様が握ってくださるからです。私たちのアイデンティティがイエス様と強く結びつくからです。

先ほども申したように、私たちは自分の心からも、自分のいのちからも自由になり、自分から離れ、イエス様と一つになる以外に救われる道はないのです。永遠のいのちが与えられることはない。しかし、私たちの内の誰も、これを自分の力でなし得ることができる者はいないのです。

イエス様が招いてくださる。イエス様が「わたしについて来い」と命じてくださる。そのことだけが私たちがイエス様について行くことができる鍵なのです。

去年のクリスマスに私が大学で教えている学生たちの何人かが初めてこの協会に来ました。その内の一人が大学で持っている聖書研究会に来るようになったのですが、その人が「教会に行って良いなあと思うんですが、自分はキリスト教にはなれないと思う。信じるということが分からない」と言いました。私はそれに対して次のように答えました。「それはそのとおりです。信じようと思って信じられるものではない。でもね、時が来るんだよ。イエス様の声が聞こえるようになる時が来る。そうしたら、信じようと思わなくても信じているんだよ。そういう時が来るから、続けて礼拝や聖書の勉強会にもおいで」と。すると、やはり私の大学の学生でこの教会で洗礼を受けた二人が、「そうだ。そうだ」と言うのです。「イエス様の声が聞こえる時が突然やって来た」と。

私は、その二人の言葉を聞いて、本当に嬉しかったです。イエス様の御名を誉め讃えました。イエス様が語りかけてくださる。招いてくださる。その時、私たちは自分から離れることができる。自分から離れてイエス様について行くことができる。自分の足でついて行けない時、私たちを握り、背負ってくださるイエス様を知ることができるのです。

この教会では何度もご紹介していますが、「いさおなき我を」という賛美歌の詩を書いたシャーロット・エリオットという人がいます。この人は1789年に牧師の家に生まれますが、30歳の時、重い病気にかかり身体障害者となります。体の苦しみから来る苛立ちのため、若い頃は持っていた筈の信仰もすっかり失ってしまいました。

そんな時、エリオット牧師の家にMalan博士という牧師がやって来ました。Malan牧師はシャーロットに聞きました。「あなたはキリスト者ですか?(あなたはイエス様を信じていますか?)」シャーロットは答えます。「宗教の話しなどしたくありません。」「気に障ることを話題にしてすみませんでした。しかし、私は、あなたがあなたの心を神様に委ねて、そして、神様があなたに与えておられる賜物によって神様のために働くことができるようにと祈ります。」Malan博士はこのように語り、シャーロットの前を出て行ったそうです。

しかし、シャーロットの心には博士の言葉が残り、高慢な自分に気が付いたと言います。3週間後にMalan博士がもう一度シャーロットのところに来た時に、シャーロットはMalan博士に言いました。「私は、救われたいです。私は神様のところに行きたいです。しかし、どのようにして神様のところに行ったら良いか分からないのです。」すると博士は答えました。「そのままのあなたのまま、神様のところに行けば良いのです。罪人のまま行けば良い。」

シャーロットは、この博士の言葉の中に、イエス様ご自身が「わたしのところに来なさい。そのまま来なさい」と語りかけてくださる言葉を聞いたのです。そして、その時からクリスチャンとしての生活を始めたと言います。しかし、身体の苦しみのために、苛立ちと惨めさに苛まれることも屡々だったと言います。

1834年、兄のエリオット牧師が、聖職者の娘たちのための高等教育学校設立ための計画を立てます。そして、教会を挙げて、資金作りのバザーを行いますが、シャーロットは何もできません。惨めで役立たずの自分。しかし、そこに聖霊が働きかけてくださった。感情によらず、救われているという事実、主イエスがこのままの私を招いてくださっているという事実に彼女は立ち、彼女と同じ境遇にある人々を思い、詩を書きました。

1. Just as I am, without one plea,
but that thy blood was shed for me,
and that thou bidst me come to thee,
O Lamb of God, I come, I come.

このままの私、何も申し開きすることもできません
ただ、あなたの血潮が私のために流されたから
あなたが私に来なさいと命じて下さっているから
神の小羊イエスよ、御許に参ります

5. Just as I am, thou wilt receive,
  wilt welcome, pardon, cleanse, relieve;
because thy promise I believe,
O Lamb of God, I come, I come.

このままの私を、あなたは受け入れ
歓迎し、赦し、清め/休ませて下さる
ただ、あなたの約束を信じているだけですのに
神の小羊イエスよ、御許に参ります

6. Just as I am, thy love unknown,
hath broken every barrier down;
now, to be thine, yea thine alone,
O Lamb of God, I come, I come.

このままの私、あなたの愛は知らぬ間に
全ての壁を打ち砕いてくださった
今、私はあなたのもの/そう、あなただけのもの
神の小羊イエスよ、御許に参ります。

彼女はこれを含んだ何編かの詩を『身体障害者の賛美歌』として匿名で出版しました。すると、このJust as I am「いさおなき我を」の歌詞がカードして売られるようになりました。すると熱心なクリスチャンであった彼女の主治医が、「あなたにとってとても良いものを見つけた」と言って、彼女を励ますために、そのカードを買って彼女に手渡したというのです。「私が知らないところで、私の痛みを通してさえ、神様は私を用い、ご自身の業を行なっておられる。」

私たちが自分から離れるとはどういうことでしょうか。それは修行を積んだり、荒行を行なって欲望や煩悩を捨てるということではないのです。「わたしのところに来なさい」と招いてくださるイエス様の声を聞くこと、このことによってのみ、私たちは自分を離れることができる。

イエス様は言われました。「6:44 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」

主が「来い」とおっしゃってくださる。「来い」と招いてくださった方は、決して私たちを見捨てることはない。見放すことはないのです。長い信仰生活の中で、私たちは躓くことがあります。自分を求めてイエス様の声が聞こえなくなるときがあるかもしれない。しかし、イエス様が「来い」と呼びかけてくださったものたちは、必ずイエス様のところに帰ることができる。イエス様が私たちを握っているからです。私たちはこの方の声を聞きながら信頼して生きて行けば良い。自分の心を求めず、この方の御心に自分の心の波長を合わせながら生きて行こうと願うだけでよい。この方の御名を呼びながら生きるだけでよい。この方は、私たちの中に、私たちの周囲に、ご自身の業を行なってくださいます。

祈りましょう。

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