「ルカの福音書」 連続講解説教

キリストの血の力

ルカの福音書 23章18~38節
岩本遠億牧師
2021年3月28日

“ピラトは、祭司長たちと議員たち、そして民衆を呼び集め、こう言った。「おまえたちはこの人を、民衆を惑わす者として私のところに連れて来た。私がおまえたちの前で取り調べたところ、おまえたちが訴えているような罪は何も見つからなかった。ヘロデも同様だった。私たちにこの人を送り返して来たのだから。見なさい。この人は死に値することを何もしていない。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」”ルカの福音書 23章13~16節”しかし彼らは一斉に叫んだ。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」バラバは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入れられていた者であった。ピラトはイエスを釈放しようと思って、再び彼らに呼びかけた。しかし彼らは、「十字架だ。十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは彼らに三度目に言った。「この人がどんな悪いことをしたというのか。彼には、死に値する罪が何も見つからなかった。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」けれども、彼らはイエスを十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けた。そして、その声がいよいよ強くなっていった。それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男を願いどおりに釈放し、他方イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして、イエスの後について行った。イエスは彼女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来るのですから。そのとき、人々は山々に向かって『私たちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かって『私たちをおおえ』と言い始めます。生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。」ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。”ルカの福音書 23章18~38節

×十字架は敗北、復活は勝利か?
○十字架も勝利、復活も勝利か?

主イエスは十字架において悪魔に勝利した
         ↑
      聖書の主張

なぜ十字架が勝利なのか?
聖書全体から理解することが必要。

大前提 悪魔(サタン)は神の敵ではない。
神がサタンを創造した。初めから相手にはならない。

悪魔の敵は人
人=神の姿に造られた存在。神の愛の対象。

悪魔は人を誘惑して罪を犯させ、神の姿を人からはぎ取ることによって、神の愛を人から奪おうとした。

人類救済の方法
=人が悪魔に勝利することによってのみ実現
それによってのみ悪魔の力が打ち砕かれる

→神が人となって悪魔と一騎討ちをし、勝利する
その一騎討ちの有り様が福音書に記述

悪魔による人の誘惑
=「私は正しい」と言わせる
=愛の否定

善悪の知識の木の実を食べた人と妻、神との会話
(善悪の知識の木の実を食べる
=善悪の決定権を自分のものとする)

神:あなたはわたしが食べるなと禁じた善悪の知識の木の実を食べたのか?
人:あなたが私のそばに置いたこの女が、私にくれたので私は食べました(=私は悪くない。女が悪い。そもそも、神様、あなたが悪い。)
妻:蛇が騙したのです(=私は悪くない)

悪魔のささやき、誘惑
=「私は悪くない」と言いなさい。あなたは悪くないんだから、自分は正しいと主張すれば良い。
    ↓
神との関係の断絶→滅び
人と人の関係の断絶→争いと憎しみ

神が悪魔を打ち倒し、滅ぼしても壊れてしまった神と人との関係は回復しない。人と人との間の争いと憎しみもなくならない。
     ↓
人が悪魔に勝利し、勝利した人の血を全人類に注ぐことによってのみ、神と人との関係は回復し、人と人との関係も回復する。

福音書は、悪魔に勝利した人としてイエスを記録する。
何も悪事、罪を犯していないのに、裁判の席で一言も自己弁護しないイエス。
十字架の苦しみの中でご自分を釘付けする者たちのために祈り続けたイエス。

悪魔のありとあらゆる誘惑、攻撃を受けても、なお溢れる愛は止まることを知らず、愛し続け、祈り続けたイエス。一言も自分の正しさを主張しなかったイエス。
→イエスの完全勝利
=人の悪魔に対する完全勝利
=神と人との関係の完全な回復

このイエスの血が私たちに注がれることによって、私たちは新しい存在へと造り変えられる。
=キリストの血(いのちと本質)が私たちの血となる

14 まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。

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