「ルカの福音書」 連続講解説教

タイムサービスの恵み

ルカの福音書講解(68)第12章54節〜59節
岩本遠億牧師
2013年2月10日

12:54 群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ。』と言い、事実そのとおりになります。 12:55 また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ。』と言い、事実そのとおりになります。 12:56 偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。 12:57 また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。 12:58 あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。 12:59 あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。」

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皆さんは、スーパーなどでやっているタイムサービスで買い物をしますか。私は、大学の仕事が終わって車で家に帰る前、午後8時頃スーパーに立ち寄ることが多いのですが、スーパーの中のパン屋さんがタイムサービスをやっていれば、必ずパンを買って帰ります。タイムサービスで黒山の人だかりになっていると、気後れして、「ちょっと無理」と思って諦めるということもあるかと思いますが、割り引かれる金額が多かったりすると、諦める訳には行かないという気持ちにもなりますね。

タイムサービスの特徴は、期間限定であるということですが、この2月で終了するエコカー減税もそうです。車を買い替えようとする人たちは、2月末までの登録が可能かどうかが気になりますし、車を売ろうとする人たちも、それに間に合うようにと必死て売り込んできます。期間限定でいろいろな恩恵に与るということは、私たちの生活の中にも見られることで、決して分かりにくいことではないと思います。

聖書はギリシャ語で書かれていますが、ギリシャ語には時を表す言葉が2つあります。何時までも流れるように進む時をクロノス、期間が限定された時をカイロスと言います。私たちは、若い時は、何時までも時間は同じように流れて行くと感じる傾向があります。愚かなことに現を抜かしていることができるのは、何時までも時間があると思うからです。

しかし、命に関わるような病気になる、事故に巻き込まれる、大きな手術を受けなければならなくなる、あるいは、家族や親しい友人を亡くす、このようなことを経験すると、死ということが私たちの眼前に迫って来て、それまで変わらず同じように流れると思っていた時間が、全く違った意味を持っているということを知るようになります。いつまでも流れると思っていた時間に終わりが来るということを、自覚するようになるからです。

そして、この限られた時間の中で自分は何をすべきなのかを考えなければならない。時間がいつまでも与えられている訳ではないということを知って、人は絶望することがありますが、私たちは絶望している暇はないのです。いやむしろ、私たちは、この限られた時間の中で私たちを絶望から救う方と出会う必要があるのです。

今読んだ箇所に「12:56 偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか」というイエス様の言葉がありましたが、ここで「この時代」と訳されている言葉が、期間限定の時という意味の言葉カイロスであります。イエス様は、何をおっしゃっているかというと、神様が今、期間限定で行っておられることがある。それは、神の絶大な恵みの業だ。この絶大な恵みの時は、永遠に続く訳ではない。期間限定である。だから今、この時に、神様と仲直りしなさいというのです。

ここで、イエス様は譬え話をなさいます。その意味は次のようなものです。あなたを訴える人というのは、あなたの借金を肩代わりしてくれている人です。あなたが自分で支払わなければならないものを支払うことができず、誰かが貸してくれた。しかし、清算の日までに、借金はその人に返さなければならない。返せるほどの借金なら良いけれども、もし返せないほど多額の借金をしてしまったなら、何とか謝罪して、借金を帳消しにしてもらうしかないではないかというのです。借金を帳消しにしてもらわずに清算の日を迎えたなら、あなたは牢屋に入れられ、決してそこから出ることはできなくなってしまうではないかと。

皆さんには借金があるでしょうか。私にはあります。数年前に借金をして家を建てました。銀行が私が払わなければならない金額を肩代わりして、ハウスメーカーに支払ってくれたのです。ですから、私はその銀行に利子を加えて最後まで返して行かなければならない訳です。しかし、もし、期間限定でその銀行が私の借金を帳消しにしてくれるということがあれば、私はどうするでしょうか。例えば、今週中に手続きをすれば、借金を全部なかったことにしますと言ってくれたとしたら、私はどんなことをしても、その手続きをこの一週間で完了させると思います。そして、私は、その銀行に深い感謝と敬意を表して、この銀行は素晴らしい銀行だといろいろな人に紹介することでしょう。

ここでイエス様が「あなたを訴える人」とおっしゃっているのは、「あなたの借金を肩代わりしてくれている人」と理解したら分かりやすいと思います。聖書は、全ての人が罪を犯したと言っていますが、この罪こそが神様に対する借金なのであり、イエス様が私たちの借金を肩代わりしてくださっていると言うのです。

今日もご一緒に「主の祈り」をお祈りしましたが、その中で「我らの罪をお赦しください」というところがあります。この「罪」と訳されている言葉が元々は「借金、負債」という意味です。では、私たちが神様に対して負っている負債とは何か。

それは、私たちが真実の愛に生きることができないということです。神様は「心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの神、主を愛せよ」とお命じになりました。また「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とお命じになりました。しかし、私たちの内の誰が、このような真実の愛に生きることができたでしょうか。誰もできなかったのです。自分の都合に合わせて、愛の基準を次々に変えて来たのではないのか。また、愛さなくても良い理由を見つけようとして来たのではないのか。そのようにして、自分の都合に合わせて、良いことと悪いことを決めて来たのではないのか。聖書は、このように私たちが自分の都合に合わせて善悪を決め、また愛の基準を変えることを罪というのです。

しかし、神様は罪を犯した私たちをすぐに罰することはせず、その負債を肩代わりし、私たちと共に歩いてくださっている。しかし、いつか清算の時が来る。それまでにその全てを帳消しにしてもらえとイエス様はおっしゃっているのです。

実は、イエス様はこのようにおっしゃりながら、自分は人の罪という負債を帳消しにするために来たという思いを胸の内に秘めておられたのです。イエス様はそのために十字架におかかりになりました。イエス様の十字架とは、全人類の神様に対する負債の全てを帳消しにすることでありました。罪の負債があるままだと、天国に入ることができないからです。神様との関係がない、光が届くことがない地獄の中に閉じ込められてしまうからです。

しかし、ある人は言うでしょう。罪があるままでも天国に入れてくれたら良いではないか。それが愛と言うものではないのかと。神には何でもできるのであれば、罪のある人間を罪があるまま天国に入れることだってできるのではないのか。何故そのような制限を設けるのか。

このことについて、大学受験を例にとってご説明します。今まさに大学受験のシーズンで、私たちの教会の若者たちも頑張っています。できるだけ高い得点を取った受験生が大学に合格する訳ですが、最終的には誰を合格させるかということは、大学の教授会が決定します。仮に入学試験が0点であっても、教授会が入学を許可すると決定したら、その受験生は入学することができます。しかし、学生の身分に関する教授会の権限は絶対的なもので、主権的なものです。

しかし、入試で点を取れないものに入学許可を与えたらどのようなことになるでしょうか。その大学の権威と信頼は失墜し、その大学の卒業生はどこにも就職できず、優秀な高校生は誰もその大学を受験しなくなるでしょう。そして、その大学は潰れていくのです。今、少子化の時代、このような問題が現実のこととして起こっています。受験者全員に入学許可を出しても、なお定員を満たさない大学が出てきています。大学としての存在意義が問われる時代となっているのです。だから、どの大学も、生き残りを賭け、できるだけ多くの受験者を確保し、優秀な学生を確保する方策を打ち出すことに躍起になっています。

天国はどうでしょうか。神様が主権的に選ばれる人はどうでしょうか。神様が主権的に選ばれ、祝福すると決定されたら、その決定は絶対的なもので、何者もこれを覆すことはできません。しかし、罪の問題が解決されず、汚れた服のままで、罪の悪臭を放つものばかりが天国にいたら、天国の権威が疑われ、神の選びに対して不公正であるという非難が起こるのです。

天国に入るためには、罪が全部帳消しになっていなければならないのです。全く清められ、罪を一度も犯したことがない者と同じようになっていなければ、天の御国に入ることはできないのです。天国はそのような者がいる場所として造られたからです。イエス様は、天国の権威を保持確立し、しかも、私たちを天国に招き入れるため、私達の罪を帳消しにし、清めるために十字架にかかられたのです。

京都に同志社大学というキリスト教精神に基づいて設立された大学があります。今、NHKの大河ドラマで「八重の桜」をやっていますが、八重子の夫となったのが創立者の新島襄先生です。新島先生は日本人で最初のプロテスタントのキリスト者となりました。新島先生は幕末、まだ日本が鎖国をしていた時、聖書に触れ、国禁を犯してアメリカに渡り、10年間をかけて最高の大学教育を受け、神学校で聖書を学びました。

熱烈なキリスト者となった先生は、当時劣等国であった日本を帝国主義の荒波から救うために必要なことは、文明の力でも、軍備の近代化や増強でもない。ただ、キリストの愛と義に基づいた教育が日本に行われることが、何よりも必要である。キリストの愛と義によって日本人の精神性が変革することなしに日本が救われることはないと確信し、熱烈に訴え、アメリカから多額の献金を得て帰国しました。

多くの困難をへて明治8年に「同志社英学校」を設立しましたが、入学者も少なく、また経営上の問題もあり、明治13年に学生がストライキを起こしました。なかなか解決が難しい問題で、新島先生は心を痛めました。学長としてストライキを起こした学生を処分にしなければならない。しかし、処分された学生は、処分に対して退学も辞さないような構えです。退学すると彼らの将来は閉ざされてします。新島先生は祈り、4月13日の朝の礼拝のとき、太い桑のステッキを持って壇上に上りました。そしておもむろに

「吉野山 花咲くころは 朝な朝な 心にかかる 峰の白雲」

と歌い、学生に語り掛けました。「諸君が本校において学ばれる姿は、ちょうど満開の桜のようであって、こんな些細なことで退校してしまっでは、将来はどうなることだろうか――私は諸君の前途を案じて日も夜もこの古歌のように心を痛めている。今回の事件は、最初から学校側の手落ちであって、これは全く校長の私が至らなかったためである。生徒を罰すべきでもなく、教員の誰かを咎めることでもない。全責任は校長にあるのであって、罰すべきはこの私である」というや否や太い桑のステッキを振り上げたかと思うと、それでご自分の左腕を何度も打ちすえました。見る見るうちに左腕は腫れあがり、血が出で、ステッキは二つに折れました。

それを見た学生たちが2・3人壇上に駆け上がり、泣きながら先生を抱きとめ、「先生。やめてください。私たちが悪かったのです」と言いました。先生は傷ついた手には目もくれず、「諸君。これで校則の重んずべきことがお分かりでしょう。このことについては口外無用」と言って壇を降りられ、事件は解決しました。校則を破り処罰の対象とならなければならなかった学生の代わりに新島先生は自らを罰し、学生は罰を受けずにすんだのです。先生が罰を受けられたので、学生達は同志社の学生でいることができたのです。選ばれて同志社の学生となったものが犯した罪、新島先生は、それを自分の身に受けて、学生を守り、同志社の名誉を守ったのです。そして新島先生の愛に育てられた多くの学生達がやがて花咲き、大伝道者となり、日本中に散ってキリストの愛の福音を宣べ伝えていきました。

罪があるままでは、天国にいることはできないのです。しかし、罪を犯して失格者となってしまった私たちを天国にいさせるために、天国の王であるイエス・キリストご自身が十字架にかかり、私たちの代わりにご自分を罰せられたのです。イエス様の受けた苦しみによって、私たちの罪は帳消しにされ、私たちは赦されたのです。

イエス様は、言われました。「12:58 あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。」ここで「和解するように務める」とは、「お赦しください」とお願いするということです。

イエス様はすでに十字架にかかり、私たちの罪の負債を帳消しにしてくださいました。その恵みを自分のものとして受け取るためには、「イエス様、あなたの恵みをお受け取りします。ありがとうございます」と申し上げるしかないのです。私たちの罪の負債は、自分で取り消せるほど小さくはないからです。それどころか、罪の負債を日々積み上げているのが私たちなのではないでしょうか。

イエス様は、清算の日まで私たちと共に歩み、「さあ、受け取りなさい。何も返さなくて良いから、ただ受け取りなさい。私と共に歩きなさい」とおっしゃっておられるのです。あなたは、この絶大な恵みを受け取りましたか。もし、受け取っていないのなら、今日受け取って頂きたいと思います。今日、あなたがイエス様に出会うこと、私はそれを心から願います。何故なら、この恵みは期間限定だからです。

イエス様は、「なぜ、このカイロスを見分けることができないのか」とおっしゃいました。イエス様が宣教を始められた時に、この恵みのカイロスは始まりました。そして、いつか終わりが来るのです。その時は、誰にも知らされていない。今日かもしれない。明日かもしれない。また、その前に私たちの命そのものがこの地から取り去られるかもしれない。

イエス様はおっしゃっています。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。12:36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」ヨハネ12:35-36

しかし、何故この恵みは期間限定なのでしょうか。そんなに絶大な恵みであるのなら、永遠にこのサービスを続けてくれたら良いのにと思う人もいるでしょう。神様はこれを意地悪で期間限定にしているのではありません。気まぐれでそうしていらっしゃる訳でもない。このステージの次にもっと大きな、もっと絶大な恵みのステージを用意しておられるのです。罪が赦されるという恵みのステージから、復活という更に大きな恵みのステージに私たちを引き上げようとしておられるのです。

第一コリント15:42〜44に次のように書いてあります。「朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、 15:43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、 15:44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」

この罪深い、弱い体をもって私たちはこの地上を歩いています。自分の思いを実現しようとして人を傷つけ、あるいは、傷つけられ、失敗し、愛を失う愚かな者たちです。罪深い者たちです。しかし、イエス様はこんな私たちの罪状書きを私たちから取り去り、全部引き受け、それを十字架の上で葬り去ってくださった。そして、さらに、イエス様が地獄の底から甦られたように、私たちをも甦らせ、イエス様と同じ姿に作り替えようとしておられるのです。

罪の赦しというステージの次に復活というステージが待っているのです。だから、イエス様に出会い、イエス様を信頼している私たちにとって、肉体の死は滅びではありません。また絶望でもありません。不吉なものでも、恐れるものでもないのです。イエス様の栄光の姿と同じような復活の体を与えられる。

希望を告白したいですね。祈りましょう。

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