「マタイの福音書」連続講解説教

バラバの道、キリストの道

マタイの福音書27章11節から26節
岩本遠億牧師
2008年11月16日

27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。 27:12 しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。 27:13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。」 27:14 それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。 27:15 ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。 27:16 そのころ、バラバという名の知れた囚人が捕えられていた。 27:17 それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」 27:18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。 27:19 また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」 27:20 しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。 27:21 しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」 27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」 27:23 だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。 27:24 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」 27:25 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」27:26 そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。

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ミッション・バラバと名乗るクリスチャンのグループがあります。元々やくざであったり、罪を犯した人たちがイエス様に出会って救われ、宣教のために集まったグループです。犯罪者であって死刑になるはずだったバラバの身代りにイエス様が十字架に架けられた、犯罪者バラバはイエス様によって救われたという理解から、彼らは自らをミッション・バラバと呼び、独特の宣教活動を展開しています。

このバラバについては、どの注解書を見ても共通に書いてあることがあります。それは、この人の本来の名前はイエスという名であったということです。古い写本にはその名が記されている者がある。イエスというのはヘブライ語ではヨシュアであり、「主は救い」という意味の長男の名前としてはごくありふれたものでありました。また、バラバというのは「父の子」あるいは「先生の子」という意味で、イスラエルのリーダーの息子であったとも考えられるということです。このバラバ・イエスは、反ローマ運動で暴動を起こして人を殺したということで捕えられており、ローマに対する反逆罪で死刑になる予定でありました。彼は、ローマ当局にとっては危険人物でありましたが、ユダヤ人たちにとってはヒーローであったのです。

ここで対比されているのは二人のイエス、一人は貧しい者たちの友となって彼らに福音を語り、病める者たちを癒し、人に仕え、弟子たちには剣を捨てさせた神の子キリスト・イエス、もう一人は、武力によってローマを駆逐しようとしたバラバ・イエスです。

ローマ総督ピラトは、この二人のイエスのどちらを放免してもらいたいのか群衆たちに問いかけるのですが、彼らはバラバを選択します。群衆は、祭司長や群衆に扇動されてバラバを選択しましたが、それは単に彼らに言いくるめられたということではなく、群衆自身が、剣を捨てさせ、民の罪を背負うため自ら十字架に架かっていこうとする真の救い主キリスト・イエスよりも、ローマ転覆のために剣を取って戦ったバラバ・イエスを選んだということです。

これは、まさに私たち自身が剣を取るのか、それとも剣を捨てるのかという選択でもあるのです。ユダヤ人たちは真の王、平和の王を捨てて、剣を取る道を選びました。イエス様は「剣を取る者は剣によって滅びる」と言われましたが、それがまさに紀元70年に実現します。エルサレムはローマのティトゥスによって滅ぼされます。イエス様を退け、十字架に付け、剣を取る道を選んだからです。

しかし、この世の支配者ローマ総督の前に引き出されたイエス様は、ローマの法廷に立ちながら、それを凌駕する尊厳をお持ちでした。それはイエス様の沈黙です。ローマ法はユダヤの律法と共に、近代国家の法の基礎を作ったと言われていますが、その中に、「自ら弁明する機会を与えられることなしに訴えられた者が裁かれてはならない」という規定がありました。訴えられた者は、3度弁明する機会を与えられたと言われます。

ですから、ピラトはイエス様が弁明なさるのを期待していた。ユダヤ人の指導者たちが妬みのためにイエス様を捕えてピラトに引き渡し、殺そうとしていたのをピラトは知っていたからです。ユダヤ人の指導者たちは、イエス様が自らをイスラエルの王として群衆を集め、ローマに対する反逆を企てたという訴えを起こしました。ですから、ピラトはイエス様に聞くのです。「あなたは、ユダヤ人の王であるか」と。

イエス様はお答えになります。「あなたがそう言っている」と。これは、ユダヤ的理解によるメシアの啓示の方法であります。メシアは自分から自分がメシアであるとは言わない。他の人の告白によってメシアであることが明らかにされるというのがユダヤの伝統的理解なのです。ですから、イエス様が「あなたがそう言っている」とお答えになったのは、まさに異邦人の口によってイエス様がメシアであることが明らかにされたということであります。

もし、イエス様が「そうではない。これは仕組まれた陰謀だ」とお答えになり、自ら弁明なされば、十字架を回避することができた。ところがイエス様は、それ以外はもう何もお語りにならない。ご自分がイスラエルの王として十字架にかけられる。その道をご自分で敷き、ただ、そのことのためだけに進まれるのです。

イエス様を十字架にかけたのは何か。それは、民の指導者たちの妬み、剣を愛する群衆の悪意、そして、自分が正しいと思うことを行うことができない総督ピラトです。それは、私たち自身が持っている罪です。しかし、イエス様ご自身は、イスラエルの王としてその罪と悪意の全てをその身に受け、黙って十字架の道を進まれるのです。父なる神様に対する絶対の愛、私たちに対する絶大な愛のためだけに十字架に向かって進まれるのです。

ピラトはイエス様に何の罪も見出すことができませんでした。また彼の妻も「あの義人に罰を与えないでほしい」と述べ、イエス様に罪がないことを告白しています。ピラトは何とかしてイエス様を放免しようとしますが、群衆の勢いに負け、イエス様をむち打ち、十字架刑に処する決定を下しました。罪のないイエス様が鞭打たれ、十字架に付けられ、殺され、私たち全人類の罪の贖いとなって下さったのです。これは、イエス様が父なる神様の御心に従って選び取って下さったことであったのです

ピラトは言いました。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」 27:25 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」

ギリシャ語には、「かかっても良い」という言葉はありません。「その人の血は、私たちと私たちの子孫の上に」という意味です。これは、イエス様の血の責任を負うという意味でありますが、それが紀元70年のエルサレム滅亡によって実現されたと理解されています。

しかし、私は、「その人の血は、私たちと私たちの子孫の上に」という言葉には、もう一つ深い意味があるように思います。それは、群衆たちが意図した意味ではありませんでしたが、旧約聖書、律法の時代から連綿と続く、「血を注ぎかける」という儀式によって与えられる契約と救いの業です。

モーセは、律法の言葉を民に読んで聞かせ、この契約に加わるとの意志を示した者たちに子牛とヤギの血をふりかけ、それを契約のしるしとしました。へブル人への手紙の中で著者は何度も血の注ぎかけということに言及しますが、その結論は、力強いイエス様の十字架の血を注ぎかけられ、聖められよ。私たちは、この主イエスの力強い十字架の血の注ぎかけに近づいているのだということを述べています。まさにイエス様を十字架に殺したイスラエルの民に、この地の注ぎかけがあるのだと言っているのです。

イスラエルの民は、「その血は、私たちと私たちの子孫の上に」と言ってうそぶき、その血の責任を自ら負ってやろうなどと不遜な思いを宣言しましたが、しかし、主の目から見るなら、「確かに、わたしは、この力強い十字架の血をお前たちとその子孫に注ぐぞ。確かに、その言葉のとおりに、お前たちとその子孫を聖めるぞ。聖なる民とするぞ」と仰っているのであります。

剣をとるバラバ・イエスを選ぶ道、神の子キリスト・イエスを十字架に付ける道とは何だったでしょうか。それは、自らの思いと自らの力で自分の思いを実現するために生きていこうとする私たちの道ではなかったでしょうか。少なくとも、私自身はそうでした。

小さい時から主に愛され、祈ることを教えられ、礼拝を愛し、高校生の時には献身までしました。しかし、育った教団のごたごた、自分自身の罪に振り回され、主を否定し、自分の思いの実現のために、自分の力、自分の剣であるこの言葉の刺で生きていこうとしたのが私でした。まさに主イエスを否定し十字架に付け、バラバを選んだのは私の生き方そのものだったのです。わたしは、その時思いました。思っただけでなく口に出して言いもしました。もし、自分がイエス様を否定することで滅びなければならないのなら、それでも良い。自分の責任でそれを負うのが一人の人間としての正しい生き方だと。「その責任は私たちとその子孫の上に」と叫んだのは、わたし自身だったのです。

しかし、バラバを選んだ私は倒れました。病の中、絶望の中に落ち込んでしまいました。

しかし、そんな私にも注ぎかける力強いイエス様の十字架の血があったのです。具合が悪く絶望している私をイエス様のところに引き戻してくれた人がいました。そして、私は1981年の7月水上温泉で行われた聖会に、病気で具合の悪いまま参加しました。しかし、その二日目の夜の集会で、イエス様は私にご自身の十字架の血を注いでくださった。わたしは救われ生かされたのです。私の全ての罪を聖め、全ての罪を赦し、私の存在の全てを主イエス様のものにする圧倒的な十字架の血潮が私を救ったのです。

「その血は私たちと私たちの子孫の上に」とうそぶく者たちに注がれる圧倒的な十字架の血潮、力強いイエス様の十字架の血があるのです。だから、私たちは救われたのではないでしょうか。これからも救われ続けていくのです。私たちの思いと口の言葉をはるかに超える、圧倒的な主の恵みがあるからです。

祈りましょう。

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