「マタイの福音書」連続講解説教

ヨセフに委ねられた救い主

マタイによる福音書1章18節~25節
岩本遠億牧師
2006年12月10日

1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

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クリスマスが近づいていますが、今日は待降節の第二週目の礼拝となります。先週は、受胎告知を受けたマリアに対する神様の憐れみと導きについてご一緒に学びましたが、今日は、養父となったヨセフに与えられた希望と導きについてご一緒に見ていきたいと思います。

ここに書かれている状況がどのようなものであったのか、当時のイスラエルの結婚の風習などについての説明を加えながら、一緒に考えて行きましょう。

18節に、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とありますが、当時婚約とは結婚と同じ法的な効力がありました。婚約した男女は、まだ結婚式を挙げておらず、男女の関係を持ってはいないけれども正式の夫婦とみなされていたのです。普通婚約期間は1年間ぐらいで、その間に人格的な信頼関係を深めて行き、結婚式の時に夫が妻を迎えに行くことになっていました。婚約者の男性が死んだ場合には、残された女性は未亡人とされました。ですから、婚約中のマリヤが妊娠したということは、もしこれが姦淫の罪の結果なのなら、石打による死刑に処せられなければならないものだったのです。当時のイスラエルは、ローマの支配下にあり、自分たちで罪を犯したものを死刑にする権限を持っていませんでしたから、姦淫の罪で死刑になることは多くなかったそうですが、その可能性は常にあったのです。

聖書は、イエス様の懐胎を聖霊によるものだと明言しています。アダムの罪を引き継ぐものは、罪からの解放者となることはできません。牢屋の中にいる者は牢屋の中にいる者を解放できません。アダムの罪、人類の罪を打ち砕くものは、罪のない者である。十字架による罪の赦しと復活による悪魔に対する勝利を聖霊によって掲示された者は、イエス様が神であったことを知りますから、聖霊による懐妊ということも、そのメカニズムは分からなくても、神様の全能の御手の中にあったことだということを頷いていくのです。

このことに対するヨセフの対応はどうだったでしょうか。「1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」とあります。さらし者にするとは、自分の妻を罪ある者として公衆の前に出すこと、すなわちマリヤが死刑に処せられるようなことになっても良いということを意味します。マリヤはまだ一緒になる前の夫のヨセフに自分の妊娠の経緯について話していなかったのです。分かってもらえないという思いもあったでしょう。まかり間違えば石打になってしまう。あるいは離縁される。マリヤは自分の苦しい思いを内に秘めたまま、神様に全てを委ねていたのです。

一方、ヨセフも苦しんだに違いありません。何も言わない婚約者マリヤのお腹が大きくなっていく。ヨセフは、怒りにまかせてマリヤを裁かないようにしました。と言っても、そのまま彼女を受け入れることもできません。しかし、彼は彼女を赦すことを決めたのです。彼女を愛していたからです。そこで、どうすれば彼女が助かるか熟考し、人に知れないように、離縁しようとしていました。つまり、婚約そのものがなかったようにしようとしたということです。彼も、自分のやるせない気持ちを神様に委ねようとしました。そして、彼女を生かそうとしたところに彼の正しさがありました。

ヨセフもマリヤも、自分の思いを内に秘めたまま、互いに自分の思いをぶつけようとせず、神様に委ねました。神様は、このような二人に人として生まれるイエス様をお委ねになったのです。

ところが、ヨセフがこのことについて思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言います。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

御使いが語った言葉、「この子は自分の民を罪から救うからである。」という言葉は、ヨセフの決断に非常に重要な意味をもっていました。何故かと言うと、ヨセフはこの時、罪の赦しということに正面から取り組んでいたからです。

ヨセフは、マリアの妊娠を姦淫の罪によるものだと思っていましたが、マリアが死刑にならずに助かる方法はないかと考えていたのです。愛する婚約者である妻の罪の赦しということが、彼にとっての重大事だったのです。そんな時、夢の中に現れて語った御使いの言葉は、ヨセフの認識をある意味で180度転換させるものでした。

それまでヨセフは、何とかマリアを赦そうと思っていたのです。赦してやろう、救ってやろう、そのためにはどうしたら良いか。しかし、「妻マリヤから生まれる方は、聖霊によって生まれる方であり、ご自分の民をその罪から救う方である」という言葉を聞いたとき、赦されるべきは、妻マリヤではなく、自分自身の罪だということを知ったのです。自分こそが罪から救われなければならない人間なのだということを知るのです。「自分を罪から救って下さる方が、自分の妻から生まれる。しかも、それが聖霊によるものである。」

赦してやろうという高慢が砕かれ、謙遜にさせられました。しかし、その時、自分自身の存在の最大の問題、すなわち、罪の問題に光が照らされる希望を経験したのです。その問題に解決を与える方が自分の手に委ねられるということを知ったのがヨセフだったです。ですから、彼はこのことのために、いえ、この方のために自分の全存在を捧げました。

ヨセフは、全てが分かったから従ったのでしょうか。何かが見えたから従ったのでしょうか。そうではありませんでした。イエス様が伝道の活動を始めたときには、すでに他界していたと考えられます。ヨセフが福音書に現れるのは、イエス様が12歳の頃までです。「この子は自分の民を罪から救うからである。」という言葉を聞きましたが、それを自分の目で確かめることも、イエス様の福音の言葉を聞くことも、その奇跡を目にすることもできなかったのがヨセフでした。しかし、「この子は自分の民を罪から救うからである」という言葉の実現のために生涯を捧げたヨセフがいたから、イエス様は守られたのです。

当時のイスラエルの人々にとって「民の救い」とは、ローマ帝国からの解放を意味していました。外的に圧迫するものからの救いです。そのような意味で、御使いの「自分の民を罪から救う」という言葉は、「救い」という概念に根本的な変更をもたらすものでした。それは、私たちにとっても同様です。

私たちは、「救い」という言葉にどのようなイメージを持っているでしょうか。私たちの人生には、いろいろな苦しみがあります。人間関係の苦しみ、経済的な苦しみ、健康上の苦しみ、社会的な苦しみ。私たちは、このような苦しみから救われることを望みますし、それらから救われることが必要です。また、神様もいろいろな方法で、また様々な人を用いて、これらの苦しみから私たちを救って下さいます。しかし、このような外的な苦しみからの救いのほかに、もっと根本的な救いを私たちは必要としていると聖書は言うのです。

聖書は、それを罪からの救いと言います。罪とは、的を外すことを原義とする言葉で、神様との関係が正しくないことを言います。

神様の御思いよりも自分の思いを第一にする。自分の存在が神様に依存していることを認めようとしないこと。神様の存在を認めたとしても、自分の思いをとげるために神様を自分の召使のように使いたいと思うこと。また、神様だけが決めることができる善悪の判断を自分勝手に自分の都合に合わせて変えようとする。すなわち、高慢が罪の源です。高慢は神様の前にへりくだることをしないため、神様との関係が壊れるのです。そして、存在の意味を失い、穢れと悪にそまり、人は絶望し、滅んでしまうのです。

私たちは、こんな罪の状態から救われなければなりません。誰一人絶望したり、滅んでしまってはならないのです。神様は、全ての人が神様のところに帰ってきて、救われることを願っておられます。

神様は、私たちが罪から救われるためにイエス様をこの地上に送って下さったのです。神様が、人の体と心をもってこの地にやってこられた。私たちと同じように、無力な赤ちゃんとしてやってこられました。ヨセフとマリアに育てられ、躾けられて大きくなりました。生きる悲しみや苦しみ、また喜びや楽しみを私たちと同じように経験し、そして何も罪を犯さなかったのに全人類の罪を背負って十字架にかけられ、殺され、地獄に落ちていかれたのです。これによって、罪そのものが罰せられ、罪がその力を失い、私たちは罪から救われたのです。このイエス様が三日目に蘇り、死を打ち破って永遠の王座にお付になりました。この方が、私たちを呼んでくださる。この方が私たちを握ってくださることが私たちの救いなのです。

ヨセフは、「この子は、自分の民をその罪から救う」という言葉を聞いたとき、それが意味することを全て知ることはできなかったでしょう。十字架と復活の意味をその時知ることはなかったでしょう。しかし、「この子は、自分の民をその罪から救う」という言葉を聞いたとき、人間の本質的問題に根本的な解決を与える方が、自分の手に委ねられたことを知りました。

ヨセフは、自分の弱さを知っていたでしょう。自分の罪深さも知っていたことでしょう。しかし、そんなヨセフを神様は信じ、イエス様を委ねてくださったのです。ヨセフは、妻マリヤを迎え、幼子にイエス(救い)という名をつけます。そして、命をかけてこの子を守り育てるのです。

イエス様は、この地にやってこられたとき、ヨセフとマリアの世話にならなければ生きていくことができないような弱い存在でした。ヘロデ王から子どもが命を狙われたとき、エジプトにつれて逃げ、ヘロデ王の死後、安全なガリラヤを成育のための場所として選び、躾け、教育し、立派な大人へと育て上げ、そして、その活躍の姿を見ずに、生涯を閉じました。ヨセフは神様を信じ、そして、神様もヨセフを信じてくださったのです。

私たちは、このクリスマスの時、新生児として、弱くこの地上に来られたイエス様を心に迎えます。イエス様を信じ始めたばかりの方々にとっては、そのイエス様は、自分の心の中では、まだまだ弱く、世話をされなければ生きていけないような存在のように思われるでしょう。誰かがフット吹き消せば消えてしまう蝋燭の火のように、小さく感じることがあるかもしれない。

しかし、「この子は、自分の民を罪から救う」という言葉を聞いてそれを受け入れた者を信じて、この心の中に生まれたイエス様を委ねて下さった神様は、私たちを守り、私たちの中でこの方を大きくし、強くし、逆にこのイエス様が私たちを内側から支えて下さるのです。

どうぞ、今日「この子は、自分の民を罪から救う」という言葉を今日、覚えて帰っていただけばと思います。この言葉が心に届いた日からイエス様が心の中に住み始めるからです。そして、私たちがイエス様を信じるとき、神様も私たちを信じてくださっていることを心に覚えて、このクリスマスの時を過ごしてまいりましょう。

祈りましょう。

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