「ルカの福音書」 連続講解説教

ルカの福音書講解(54) 先ず、ここに座りなさい

ルカの福音書第10章38節~42節
岩本遠億牧師
2012年10月21日

10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。 10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

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ここは、「マルタとマリヤ」として知られる有名な箇所です。「放蕩息子」の譬えや「良きサマリヤ人」の譬えもそうですが、有名な箇所というのは、特に説明を加えられなくても話しの内容を容易に理解することができるものです。この「マルタとマリヤ」も今聞いて容易に内容を理解できたと思います。

しかし、一方、誰にでもわかる話しの筋であるからこそ、誤解や曲解が行われやすいということにも私たちは気をつけなければなりません。

よく行われていることは、この箇所を根拠としてクリスチャンを2つのタイプに分類しようとするものです。マルタ型の人間とマリヤ型の人間の2つです。マルタ型は外交的で一生懸命奉仕をする人。マリヤ型は、内向的で聖書を読んだり、メッセージを聞いたり、祈ったりすることに没頭する人。

そして、次のように言われたりします。マリヤのようにメッセージを聞いたり祈ったりすることを第一にし霊的な人間にならなければなりません。しかし、教会はマリヤ型の人間だけがいたのでは回って行きません。マルタのような人がいるから教会はうまく運営されて行くのですと。特に、礼拝の後、毎週食事会をする教会では、マルタのように働いてくれる人がいることが必要になる。そこで、そのようなことが言われたりするのです。

また、「私はマルタでもなかった」と自己批判をする人を見たことがあります。そこには、「自分はマリヤにはなりきれないが、せめてマルタにはならなければならない」というような思いが込められているように思います。マリヤが上、マルタが下というような考えです。

さらに、多くの教会で、教会の指導者たちが信徒たちをマリヤのように熱心に礼拝に参加する者とし、かつ、マルタのように一生懸命教会奉仕をする者にしようと、あの手、この手を使って信徒に指導とか導きという名の圧力をかけている状況があります。私はそのようなことを見聞きする度に、本当に残念に思いますし、時には憤りを感じることもあります。

教会の指導者たちに都合の良いように信徒たちをコントロールする、そのためにこの箇所を利用することは許されません。また、ここはクリスチャンが2タイプに分けられるということを述べているわけでもありません。

このキリストの平和教会は、何かをしなければならないということが何もない教会ですから、全員がマリヤでいられる。良かったね。などと呑気なことを言って、それでこの箇所を通り過ごし、イエス様の恵みを受け損ねてしまうなら、それもまた残念なことです。

私たちは、注意深く、この箇所を見てイエス様のお心に近づきたいと思います。

マルタは、この家の女主人でした。イエス様の一行が村にやって来た時、マルタは自分の家にイエス様と弟子たちを迎え入れました。イエス様は多くの弟子たちと一緒に歩いておられたので、イエス様を迎え入れることができたということは、かなり裕福な家だったのではないかと思います。召使いもいたことでしょう。

皆さん、自分がマルタだったらどうすると思いますか。また、あなたがマルタなら、このような時、どういう心理状態になると思いますか。

イエス様の一行が自分の村のほうにやって来つつあるということは何日も前から情報として届いていたでしょう。当時は、行商の人たちや旅をする人たちをとおして情報が届いていました。マルタは、気立ての良い女性でした。自分のところでイエス様をもてなしたいと思いました。そして、もてなしの料理のことや、休んでもらう場所などについて、準備をし、計画を立て、役割分担も決めていた筈です。この女主人であるマルタは、自分が立てた計画通り物事が進むことを期待するでしょうし、召使いたちにそのような指示を出していた筈です。そして、マリヤも、マルタの補佐として、もてなしの役割分担を担うことになっていたに違いありません。

マルタは、自分の計画通りに進めば、イエス様にも弟子たちにも失礼にならないし、喜んでもらえる筈だと思っていました。それが最善だと思っていました。言うならば、それが神様の御心だと思っていました。また、そこには、そのように家を取り仕切り、完全なもてなしをする自分を評価してもらいたいという思いもあったことでしょう。

しかし、ここで思いもよらないことが起こりました。妹のマリヤが、自分の役割をすっかり忘れて、イエス様の足許に座り、イエス様の話しに聞き入ってしまったのです。大勢の客がいますから、もてなしは大変です。しかも、女主人の補佐をすべきマリヤが何の役にも立たなくなり、計画も壊れ、マルタは気が動転してしまったことでしょう。

「10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。』」

「気が落ち着かず」と訳されている言葉は、「心が逸れる」とか「心を失う」というような意味です。いろいろなことが全部自分の上にのしかかって来て、どうしたら良いか分からなくなってしまったのです。

先々週の「元気の出る聖書の言葉10周年のオフ会」の時、私たちはその前の週に役割と一応の段取りを決めて、会がスムーズに進むよう計画を立てていました。しかし、私がメルマガで「午前中の礼拝はない」ということを読者の皆さんにお知らせすることを忘れていたため、数名の方々が午前の礼拝の時間に来られました。そこで、その方々のために急遽礼拝をすることになりました。

それで、どの場所で何時どのような準備をするかという計画が全部壊れてしまいました。礼拝を終えたとき、私は自分が次に何をしなければならないか考えていましたが、それと同時に、皆さんから「これはどうしますか」と一度にたくさんのことを聞かれ、頭がフリーズ状態になりました。「すみません。ちょっと考える時間をください」と言って頭をリセットする時間を頂きました。すると皆さんのほうから、「これはこうしますね」と言ってくださり、私は、「はい、お願いします」と言うだけですみました。自分のミスが引き起こしたトラブルでしたし、皆さんも私が頭をリセットする間、私に代わって考えてくださったので、私は取り乱すことはありませんでしたが、もし自分の家族が分担を放り出し、その結果、計画が壊れるというようなことが起こった場合は、決して心穏やかではいられなかっただろうと思います。

マルタはそういう状態だったのではないでしょうか。彼女は自分の心を見失ってしまいました。イエス様とお弟子さんたちには楽しく、旅の疲れをとって頂く、心休まる時を持って頂きたかった。またイエス様のお話しを皆さんが心行くまで聞くことができるようにしたかった。そのために計画を立て、準備をしたのです。しかし、妹のマリヤのせいで自分の計画が壊れ、これこそが最善、神様の御心と思っていた自分の思いが実現できなくなったとき、彼女は自分の心を見失い、自分を抑えられなくなってしまいました。

イエス様は、そんなマルタの状態をご存知でした。弟子たちや集まった人々にみ言葉を語っておられましたが、マルタの様子を見、気遣っておられたのです。空回りしたマルタの心、イエス様はマルタにもみ言葉が届くようにと思いながら語っておられたに違いありません。しかし、それが不平であるにせよ、マルタの心がイエス様に向かうまで、イエス様はイライラしているマルタを見ても、それを叱ったり、指導したりなさらず、マルタがイエス様のほうを向くのを待っておられました。

「マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。』」

イエス様は、マルタの心の奥底に届くように、名前を呼ばれます。「マルタ、マルタ」と。二度名前を呼ばれましたが、神様がモーセやサムエルを預言者として召し出されたとき、また、ペテロがイエス様を否定することを予告なさるときも、二度名前を呼んでおられます。神様は、私たちを真実の自分に立ち帰らせるとき、愛をもって、このように二度名前を呼ばれるのです。「マルタ、マルタ。今自分の心を見失っているあなたは、本来のあなたではないよね。真実のあなたに立ち帰りなさい。」と。

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っていますね。 10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかだ。いや、一つだけだよ。
マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

ここで、「彼女からそれを取り上げてはいけません」と訳されていますが、私は、この訳は誤訳だと思います。この日本語訳には、マルタを非難するようなニュアンスが感じられますが、元々動作主のない受け身形で書かれているので、「それが彼女から取り上げられることはない」ということです。もう少し分かりやすい日本語にすると、「誰にも、彼女からそれを取り上げることはできないのだ」ということになります。何を取り上げることができないかというと、イエス様の言葉を聞くということです。

マルタがそれを取り上げることができないだけではない、他の誰でもできないのだとおっしゃる。何故かと言うと、イエス様の言葉がマリヤの心を捉えているからです。このことだけがただ一つ大切なことだと。

イエス様は、こういうふうにもおっしゃったのではないかと思います。「マルタ。マルタ。あなたもここに来て座りなさい。私の言葉に耳を傾けなさい。あなたは、自分の思い通りに人が動いてくれず、自分の心を失うほど取り乱してしまっているけれど、あなたがただ一つ必要としていること、ただ一つ大切なことは、私の言葉を聞くことだけだよ」と。

マルタはご馳走を用意してイエス様を待っていました。それは素晴らしいことです。しかし、イエス様はご馳走を食べたいとは思っていなかったのです。

先日のオフ会の時もそうです。第二部の交わりのとき、皆さんいろいろ美味しそうなものを用意してくださっていましたが、私は何も頂きませんでした。話し相手がいなくて一人になってしまっている人のところ、初めて来てくださった人のところに行って、お話しを伺い、その方々にイエス様の祝福が留まるようにと、祈りながら話していました。何かを食べるということに全く心が向かないのです。それよりももっと大切なことがある。大切なことはただ一つです。イエス様の言葉がその方々の中に留まること。ただそれだけです。イエス様は尚更そうお思いになったのではないでしょうか。

イエス様は、言われました。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物だ」と(ヨハネの福音書4:34)。

イエス様はマルタとマリヤの家に平安を祈るために入られました。イエス様がこの家に入られたのは、ここに神の国を来らすためです。ここで会ったら、もう二度と会うことができないだろう人々がいるのです。イエス様はマルタや人々に仕えてもらうために、この家に入ったのではありませんでした。マルタとマリヤ、そしてもう二度と会えないかもしれない人々に仕え、命を与えるためです。

マルコ10:45「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

イエス様は、ここでも言われたのではないでしょうか。

「11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

イエス様は、マルタにも語っておられる。あなたの疲れ、思い煩い、イライラを私に預けなさい。もてなしのことは忘れて、私のそばに座り、私のそばで休みなさい。休みながら私の言葉を聞きなさい。私があなたの重荷を背負うよ。あなたをそのまま背負うよ。もし、今日の宴会のことで誰かが文句を言うようなことがあったら、私があなたの味方になる。だから、あなたは私のそばにいなさい。安心して私の言葉を聞きなさい。私の平安があなたの中に満ちるようになるよ。

イエス様は、私たちをご自分に仕えさせようとなさる方ではなく、私たちに仕えるために来られた方です。私たちは、この方に私たちの重荷の全て、思い煩いの全て、恐れの全てを預けることができる。そのような重荷を背負った私たちをそのままイエス様は背負い、歩いてくださるのです。

大切なことはただ一つだけです。それは、イエス様がこの私のために仕えてくださっているということです。何か強迫観念に襲われながら聖書を頑張って読むことでも、頑張って一日に何時間も祈るということでもない。イエス様がこんな者に仕える僕となってくださった。それに尽きます。私たちはこの事実を知り、こんな者に仕えてくださっているイエス様との深い交わりを頂くうちに変えられて行く。私たちの僕となってくださったイエス様のお心に触れ、私たちも低い、謙遜な心が与えられ、やがて神様に仕え、人に仕えるに相応しい者と変えられて行くでしょう。

イエス様に仕えて頂く、イエス様のこの汚い足を洗って頂く、汚い心を洗って頂く、それがなければ、神様に仕えることも、人に仕えることもできないのです。これを深く経験することがなければ、神に仕え、人に仕えているつもりで、人に自分の思いを押し付け、酷い時には人をコントロールするようになってしまうのです。

私もそうだったのです。私は、以前から伝道する賜物は与えられていました。しかし、若い時、自分がイエス様を伝えた人たちが自分が最善と思うとおり、これが神様の御心と思うとおりに行動しないと怒りに満たされてしまう、私はそのような人間でした。神様は、私から伝道の場をお取り上げになりました。そして、聖書の言葉の中に身を沈めることを私に教え、導き、そして、そこで毎日出会ってくださいました。それが私のメルマガの10年だったのです。イエス様の深い深いお取り扱い、こんな者の最も汚れた、この真っ黒な心を洗ってくださるイエス様の温かい手に毎日触れることによって、私は、人に仕えるとはどのようなことか、ほんの少しずつ学ぶことができるようになってきました。

自分の思い通りに物事を進めようとして思い通りにならず、自分の心を失うほど苛々し、取り乱す私たちにイエス様は呼びかけておられます。「マルタ。マルタ」とマルタを呼びかけられたように、呼びかけておられます。

皆さん、イエス様の声に耳を傾けましょう。必ず、あなたに呼びかけておられるイエス様の声が聞こえて来るようになります。イエス様の足許に座りましょう。私たちは、深い深いイエス様とのお交わりを頂くことができるでしょう。この墨よりも黒い心を洗い、こんな者に仕え続けてくださるイエス様を知る。そしてやがてイエス様のお心を知り、それを行なう者となって行くのです。

今は、急いで自分の思いを行ってはなりません。この方のそばに座り、この方の中に隠れるところから全てが始まるのです。

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