「マタイの福音書」連続講解説教

主が共におられる

マタイの福音書28章16節から20節
岩本遠億牧師
2008年12月8日

28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

+++

今日は、このマタイの福音書の学びの最後の日となります。キリストの平和教会でマタイの福音書の講解メッセージを始めたのは2006年の6月からですから、2年半にわたってこの福音書を学んできたことになります。今日皆さんと共にこの福音書の最後のところからイエス様の御声を聞くことができ、とても幸いに思います。

この福音書の結論は何か。それは、復活したイエス様が「見よ。わたしは世の終わりまであなた方と共にいるのだ」と仰った言葉であります。そして、この言葉は、マタイの福音書の1章にある「1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」という言葉と呼応するもので、まさに「主が共におられる」「主イエス様が私たちと永遠に共にいて下さる」というのがこの福音書の主題であり、結論であるのであります。

丁度このクリスマスの季節に「主が永遠に共にいて下さる」という言葉を聞くことができる私たちは幸いです。なぜなら、私たちの主は、この罪深い私たちと永遠に共にいるために、この世に来て下さったからです。

復活したイエス様は、11人の弟子たちにガリラヤで待っていると仰り、山に登るように命じられたとあります。恐らく、この山はイエス様が山上の説教をお語りになった山だろうと言われています。イエス様から福音の言葉を聞いたあの山、思い出の山、イエス様について行きたいと思ったあの山に登れとイエス様はおっしゃいました。弟子たちは、山で復活の主の姿を見て、ひれ伏しましたが、主のほうから彼らのすぐそばに近づいてこられ、このようにお命じになりました。

「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」

この言葉をどのようにお聞きになるでしょうか。イエス様は、「わたしは天においても地においてもいっさいの権威が与えられている。だから」と仰いました。いっさいの権威です。全ての権威です。限定つきの権威ではない。期限つきの権威でもない。この部分は私の権威が及ぶけれども、それに含まれない部分に関しては、自分で頑張って伝道しなさいと仰ったのではありません。私の権威が及ばない範囲はないと仰ったのです。ここに伝道する者に与えられる安心と平安があります。希望があるのです。

イエス様を伝えて、その方々がイエス様を知り、イエス様の恵みの中に生かされるのを見るのは大きな喜びです。しかし、伝道していると良いことばかりではありません。苦しいことがあります。傷付けられ、卑しめられることもある。悲しみと疲れの中に陥ることもあります。イエス様が一切の権威を与えられていると仰っているのに、何故、伝道が簡単に進まないのでしょうか。迫害が起こり、イエス様に反対する者の力が勝ち誇るような状況があるのか。イエス様の権威が届いていないと思われるようなことが起こるのか。私たちはそのことを深く考えなければならないと思います。

私たちは、伝道がうまくいかない時、どんなに語っても伝わらない時、卑しめられ、辱められる時、そこにイエス様の権威は及んでいないのではないか、イエス様の力は及んでいないのではないかと思ったりします。しかし、そうではないのです。

その中でこそ、「私にはいっさいの権威が与えられている」という主の御言葉の意味が私たちの中で明らかにされていく。悲しみと屈辱の中でなおイエス様が全てのものを握って下さっている。イエス様が共にいて下さるのです。

伝道とは、神様に仕えることでありますが、それは人に仕えることであり、人の前で低くなることです。低められることであるのです。ここに人の力ではなく、神の力が働くのです。人の目には一見失敗とも思えるこの出来事の中に主の御手が働いている。主の権威の中にそれは行われているのです。もし福音を語る者たちが誇らしげになって良い思いをし、語られた者たちが卑しめられ、辱められたら、彼らは二度とイエス様の福音を聞こうとはしないでしょう。イエス様は、自分の僕たちを低めることによって、ご自分の福音を全世界に伝えることをお決めになったのです。

私は中学校高校時代を長崎で過ごしました。長崎には、浜之町アーケードという長崎市で一番の商店街があるのですが、その前に橋が架かっています。そこにはいつも聖書を手に持って、一生懸命話をしている初老の小柄な男の人がいました。いつもほとんど誰も聞いていませんでした。私もその話を近くで聞いたことはありませんでした。しかし、その人が何故いつもあのように誰も聞いていなくても語り続けるのか不思議な思いで私は見ていました。

ある日、その人は大柄な男の人に酷く圧迫され、話をやめさせられていました。何と言われているのかよく分かりませんでしたが、その人は、ただ頭を下げて卑しめられるままになっていました。神様の福音の言葉は、そこで止められてしまったのでしょうか。イエス様の権威はそこには届かなかったのでしょうか。イエス様は彼と共にいなかったのでしょうか。

この低められた一人の名もない伝道者の姿は、私の中で決して消えない印象として残っています。私は、この伝道者の姿しか見ませんでした。しかし、中学生だった私は、その中に本当の伝道者の姿を見たのです。それは決して忘れることのできない姿でした。手を挙げて天を見上げながら語っていました。そして、私もあの伝道者のようにという思いが私の中に起こされたのです。確かに、イエス様はあの時あの伝道者と共におられ、イエス様の権威はあの場をもご支配になり、伝道の思いを次の世代に引き継がせてくださったのです。

イエス様は、言われました。

「5:3 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。 5:5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。 5:6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。 5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。 5:8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。5:9 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」

低められる者の幸い、悲しむ者の幸い、柔和な者の幸い、義に飢え渇く者の幸いがある。まさにここにイエス様の権威が現わされるのです。ここにイエス様の権威が祝福として満ち溢れるのであります。そして、そのように低められる者たちがイエス様に似た者として造り変えられていき、憐れみ深い人、心の清い人、平和を造る人、義のために迫害される者とされていく。神の国をこの地に作っていく者とされていくのです。

主に遣わされた預言者たちも迫害され卑しめられた。それは、彼らを主イエス様に近い者とするためです。主イエスこそ、最も低められることによって全ての人を義とし生かしたまことの神の子です。まさに謙遜の中にこそ、主のまったき権威が現わされるのです。そこにおいてこそ、主の権威が発動するのであります。神様の権威はここに届いているのだろうかと思われるような伝道の現場において、全ての権威を与えられたイエス様が、私たちをご自分に最も近い者として握って下さっているのです。

「28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」

原文により忠実に訳すと、「それゆえ、あなた方は行って、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けながら、わたしがあなたがたに命じた全てのことを守るように教えながら、あらゆる国の人々を弟子としなさい」ということになります。すなわち、イエス様の弟子となる。イエス様について行く者、従う者、イエス様の御声を聞く者となるということには、時間がかかるのです。その過程に洗礼があり、イエス様が命じられたことを学ぶという過程があるのです。そのようにして、少しずつ、イエス様について行く者となっていく。一朝一夕に神の国が作られていくわけではないのです。そのことを行わせるためにイエス様は弟子たちに謙遜であることを徹底的に求められました。

しかし、イエス様は全ての国民を弟子とせよとお命じになった。それは、どの国に行っても、地の果てにもイエス様の権威は及んでいるからです。イエス様は全ての人の王だからです。全ての人がイエス様の愛と命を必要としている。死を滅ぼしたイエス様の権威の中に守られることを必要としているのです。弟子とせよということは、この11名の弟子たちがイエス様と持っていた同じ関係の中に生きるようにせよ。イエス様の福音を伝えられた者たちが、この11人と同じようになるのだということをイエス様はお語りになっておられます。そして、それは、この11人がこの山でイエス様から聞いた言葉を聞くことによってです。

イエス様ご自身が、「わたしがあなたがたに命じた全てのことを守り行うように教えながら」と仰っておられます。マタイの福音書は、山上の説教を5章から7章に記録しています。この言葉を守り行うように教えなさいと仰っているのです。

5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。 5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。 5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

これらは私たちが自分の力でできるようなことではありません。だから、イエス様は言っておられるのです。「わたしは天においても地においても一切の権威を与えられている。このわたしがあなた方と永遠に共にいるのだ。」「わたしの権威の中にこれらのことが行われるのだ。わたしの権威がこれを行うのだ。わたしの権威の中にあなた方は救われ続けていくのだ。わたしは、あなたがたを握って離さない。どんな時にも共にいる。わたしは、あなたを決して見捨てたり、見放したりしない。わたしがあなたと共にいる。あなたは、わたしに似たものと変えられていくのだ」と。

祈りましょう。

関連記事