「マタイの福音書」連続講解説教

主の祈り(1)

マタイによる福音書6章9節から13節
岩本遠億牧師
2007年1月28日

『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。 6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。 6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。 6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』

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今日から2回に分けてイエス様が教えて下さった「主の祈り」を学んで行きたいと思います。この祈りは大きく前半と後半に分けられます。9節と10節が前半、11節から13節までが後半です。そして、この二つの部分からなるこの祈りは、私たちがどのような存在であるかということに対応しています。前半は、天に属する者としての祈り、後半は地に生きる者としての祈りです。

聖書は、言います。人間の存在は天に属するものという部分と、土に属する部分からできていると。創世記に次のようにあります。「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(2:6)

土に属する部分が祈る祈りと、天に属する部分が祈る祈りがある。主の祈りは、まさにこのことを教えておられるのです。私たちの祈りは、これの二つによって完全なものとなるのです。

イエス様は、まず、天に属する存在としての祈りから教えておられます。

「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけます。土に属する私たちに肉の父がいるように、天に属する私たちに天の父がおられるというのです。私たちの最善を願い、私たちに全てのものを備え、私たちを生かす、私たちを愛しておられる天の父がおられる。イエス様は、私たちに、「君たちは天に属する尊い存在なのだ。霊的な存在なのだ。君たちは一人ではない。君たちの霊の父が天におられるのだ。この方に繋がって生きるところに、君たちの実存の輝きがあるのだ。この方に語りかけながら生きなさい。この方が、あなた方の祈りに耳を傾けておられる」と教えておられるのです。

そして、この天に属する存在としての人の祈りが続きます。「御名が崇められますように。」この「崇める」という言葉は、「聖なるものとする」という意味ですが、他のものとは絶対的に異なったものという意味です。「天のお父様、あなたの御名が聖とされますように。」罪のはびこるこの世では、何と神様の御名が辱められていることでしょう。ある者は、神は存在しないと言い、ある者は、人間が引き起こしたあらゆる問題について、「もし神が愛ならば、何故このようなことが起こることを許すのか」と言います。また神様を信じる私たち自身の中にも、神様の名誉を守りきれない弱さがあります。そのような現実を見るとき、天に属する者としての私たちの存在が疼くのです。「あなたの御名が聖とされますように」と。なぜなら、この天に属する存在は、天の父なる神様の絶対的な聖さ、絶対的な力、その威光と尊厳を知っているからです。

イエス様は、この尊い天の父の子供としての私たちの実存を呼び起こして言われます。「あなた方の天の父の聖なる御名が崇められるように祈れ。それこそ、あなた方の実存が真に求めていることであり、そのことによってあなた方自身の存在が輝くのだ」と。

「御国が来ますように。」「御国」とは、神様の支配という意味です。しかし、もし、神様が存在し、この世を支配しているのなら、何故この世に争いや不幸、悲惨や不条理が存在するのか。多くの人がこの世の悲惨を神様のせいにします。人の世には、人の罪が引き起こした悲惨が蔓延しています。ある場合には人の罪が原因となっていないものもあるかもしれない。しかし、神様の光の届かない暗闇の中で喘ぐ多くの人がいるのです。

そんな状況にある私たちに「天の父の支配が現れますように」と祈りなさいとイエス様は教えておられます。現在の悲惨と問題に解決を与えるのが「神様の支配」です。別の言葉でいうなら、神様の祝福です。ここに私たちの希望があるのです。現在の絶望的状況は、神様がいないから起きているのではない。むしろ、今の状況を祝福に結びつけることができる神様がおられるということを教えておられるのです。

弟子たちがイエス様に、通りがかりで見つけた、生まれながら目の見えない人について、「この人が生まれながら目が見えないのは、この人が罪を犯したからですか。それともその両親が罪を犯したからですか」と質問しました。イエス様は答えられました。「この人が罪を犯したからでも、両親でもない。多くの神の業がこの人の上に実現するためだ。」このように仰って、この人の目を開き、この人を生かし、この人を支えられました。(ヨハネ9章)

イエス様は、イエス様と共に到来した神の国、神の支配について次のように説明しておられます。「マタイ11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」

ここに取り上げられている人々は、当時、神に呪われた者、礼拝を捧げることができない者、祝福から切り離された人々と言われ、軽蔑され、差別されていました。そういう人たちがイエス様のそばに集まってきたのです。そして、イエス様は彼らを癒し、清め、礼拝者としての実存、天に属する者としての実存を回復させ、神の子の尊厳を与えていかれたのです。イエス様が「神の国」「神の支配」と言われる時、このような現実的な神様の力を意味していたのです。「光あれ!」という言葉によって暗闇の中に光を生じさせた神様の力と祝福が、神の国の到来によって、あなたの心と生活の隅々に届くようになるとイエス様は言っておられるのです。

「天に蓄えられている祝福が溢れるように注がれる。そのような祝福を求めよ。これを与える方がいる。この世の人が君に与えるような、今日与えられても明日は消えてなくなるようなものではない。天の支配、これこそ、天に属する存在である君たちが願い求めているものではないか。神様の祝福がこの地に満たされることをわたしと共に祈りなさい」とイエス様は招いて下さっているのです。

「御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」「御心が天で行われるように、地でも行われますように」という祈りは、人間の方法ではなく、神様の方法が、私の方法ではなく、天のお父様の方法が行われますようにという祈りです。

私は、この祈りを祈るたびに、イエス様の母マリアの言葉を思い出します。それは、聖霊によってイエス様を懐妊することを告げられた時の言葉です。「あなたのお言葉のように、この身になりますように」とマリアは言いました。誰も「御心が天で行われるように、地にも行って下さい。でも私は自分のことを自分の方法でやっていきます」とは祈れませんね。この祈りの基本は、「あなたの御心のとおりに、この身になりますように」という祈りです。

自分のことであっても、健康のこと、家族のこと、仕事のことなど、自分の思い通りにできないことは、あまりにも多いのです。また、自分の思い通りにできたらそれが最善かというと、甚だ疑問です。私の心は、毎日揺れ動くからです。私たちが苦しい思いをしている時に、その時の願いがそのまま実現すると、かなり恐ろしいことになってしまいます。苦しいとき、大体私たちは怒っているからです。私たちの怒りが実現してしまうと、後になって私たちは酷く後悔することでしょう。天のお父様が、私のために、周囲の人のために、そして全ての人のために備えておられる最善があるに違いありません。それが行われていくことを求めるところに、神様に対する信頼があります。そこに平安があるのです。

この地には、私たちを落胆させ、卑しめ、汚すものが溢れているかもしれない。しかし、神様が私たちの中に吹き入れて下さった神様の命の息、天に属する実存は、そんな中で呻いているのです。神様の御名が尊く崇められることを。この方の恵みの支配がこの地にやってきて、この地を神様の祝福で満たすことを。そして、人の肉の思いではなく、神様の御心がこの地に行われることを。イエス様は、私たちの中に置かれている尊いものを見て、招いて下さっています。わたしと共に祈りなさいと。

この3つの祈りは、神様のお心を自分の心として祈る祈りです。この祈りを祈る時、私たちの中に隠れている神の子の実存が輝きだします。伝道者パウロは言いました。

2コリント4:6 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。 4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。 4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。 4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

・・・

4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。 4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。 4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

パウロは、私たちは土の器だと言いました。人が土の塵で造られているからです。粗末なものかもしれない。しかし、この中には、天に属する実存が隠されている。イエス様に出会う前までは、これが呻き苦しんでいた。しかし、イエス様に出会った時から、これが輝きだしたと言うのです。そして、このイエス様にある神の子の実存は、周りの状況がどんなであっても、苦しくても、苛められても、決して死んだりはしない。「4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。 4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」

そして、その内にある神の子としての実存は、日々新たにされて行く。今確かに苦しい状況が私たちを取り巻いているかもしれない。しかし、このことを突き抜けて、遥かに栄光ある、遥かに豊かな祝福に私たちは包まれると言うのです。私たちは状況の奴隷になるために創造されたのではありません。私たちを苦しめるものは、私たちの肉の心、肉の体に攻撃を仕掛けてくるでしょう。しかし、イエス様の十字架の血によって贖われたこの内なる人に指一本触れることはできないのです。

私たちは、霊的な、天に父を持つ存在です。イエス様は、天に属する者として私たちに呼びかけ、私たちを招いておられます。父なる神様の御名が崇められるように共に祈ろう。天の支配がこの地にやってくるように祈ろう。天の父の御心が天で行われるように、この地でも行われるように祈ろうと。イエス様の中に輝いていた神の子の輝きが私たちの中にも輝きだすでしょう。苦難と苦悩の十字架を突き抜けて喜びと勝利の復活を遂げられたイエス様の力と喜びが私たちを包むに違いありません。

祈りましょう。

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