「マタイの福音書」連続講解説教

主の祈り(2)「日用の糧」

マタイによる福音書6章11節
岩本遠億牧師
2007年2月4日

6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。 6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。 6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。 6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』

+++

前回は、主の祈りの前半、天に属するものとしての祈りについて、共に学びました。11節からは、地に属するものとしての祈りですが、この短い祈りの中に、多くの思いと祈りが込められています。それを少しずつ見て行きたいと思います。

11節「私たちに必要な糧を今日与えて下さい」

これは、どのような祈りでしょうか。これは、誰の祈りでしょうか。言うまでもなく、これは「貧しい者」の祈りです。自分で自分を満たすことのできない者、施しを受けなければ生きていくことのできない者の祈り、これが「我らの日用の糧を今日も与え給え」という祈りです。自分の存在が神様の恵みに全面的に依存していることを認める者の祈りです。私たちは、パンという言葉によって表される日々の必要が、全面的に神様に依存していることをどれだけ意識しながら生きているでしょうか。

毎朝太陽が昇り、時に応じて雨が降る。大地を耕す人がいて、収穫してくれる人がいる。流通に従事する人々がいて、我々の手元に食料が届く。これら全てのことの中に調和があり平和があるからこそ、私たちは自分の目の前のものを食べることができるのです。これらの内、どれ一つに問題があっても、私たちは食べることができなくなる。私たちは、決して自分が持っている能力によって日用の糧を得ているのではありません。

いやむしろ、今、私たちの目の前に毎日パンがあること自体が奇跡なのです。神様の創造の業、絶えることのない天地運営の恵み、そして人々の間に与えられる調和と平和。私たちは、今日食するパンを見る時に、そこに神様の恵みがあり、自分の存在が全く神様に依存していることを知るのです。

宗教改革者マルチン・ルターは、「日用の糧」の意味を問われ、次のように答えました。

「私たちのからだを養い、必要を満たしてくれるすべてのもの。例えば、食べ物、飲み物、着る物、靴、家、庭、土地、家畜、金銭、所有物、献身的な配偶者、献身的な子供たち、献身的な雇い人、献身的で信仰深い施政者、よい政府、よい天気、平和、健康、学問、名誉、よい友人、信仰深い隣人、そしてこれに類する他の全てのもの。」

私たちは、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈る時に、キリスト信仰の最も重要で基本的な態度である「謙遜」ということを学ぶのです。「謙遜」とは、自らを卑下することではなく、自分の存在が神様に100%、全く依存していることを神様に告白しながら生きていくことです。ルターが言った全てのことを含め、自分に必要なものの全てが、神様から与えられるものだということを告白し、神様にこれを求めながら生きることです。

アブラハムの孫として創世記に登場するヤコブは、兄エサウから長子の権(家督の権)を欺き取り、父イサクを騙してエサウが受け継ぐべき祝福を騙し取りました。エサウに命を狙われるようになり、彼は杖一本だけで自分の生まれ育った家から逃げ出さなければならなくなりました。今のシリアにいた伯父のラバンを頼って、荒れ野を歩いていた時、夜になって石を枕にして眠りました。すると彼は、不思議な夢を見ました。主ご自身がそばに立って言われるのです。「28:15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」ヤコブは、目を覚まして神様に言います。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、 28:21 無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、 28:22 わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

人を欺いて命を狙われ、杖一本で家を出たヤコブを祝福する方がおられました。ヤコブは、神様に日用の糧を求めました。「あなたが私の神となって下さい。私と共にいてください。私に食べるものを与えてください。着る物を与え、私の旅路をお守りください」と。神様は、何も持たなかったヤコブに日用の糧をお与えになり、神様の恵みによって生きる礼拝者への道をヤコブにお与えになったのです。

私たちも同様です。「日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りなどしなくても自分の力で生きていけると思っていたのに、ある時、急に状況が変わり、自分の力で自分を支えられないということを経験することがあります。そんな時、「私があなたと共にいる。わたしがあなたを守る。わたしはあなたを決して見捨てず、あなたを見放さない」と約束して下さる方がおられることを知るようになる。そのようなことを通して、私たちは、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈る謙遜を学ぶようになるのです。自分の存在が神様に依存したものであるということを知るようになるのです。

イエス様は言われました。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)。私たちの肉の必要を満たす天の父がおられるからです。また「心(霊)の貧しい人々は、幸いである。/天の国はその人たちのものである」(マタイ5:3)とおっしゃいました。「心の貧しい者」とは「霊の貧しい者」という意味です。

自分で自分の霊的な必要を満たすことができない者とは、誰でしょう。自分で自分の心に光を灯すことができない者。自分の心の虚しさをどうしようもなく、罪に泣いている者は誰でしょうか。私たち一人一人ではないでしょうか。私たちの心の虚しさは、毎日霊的なパンを必要としています。イエス様は言われました。「わたしは天から降ってきた命のパンである。わたしを食べる者は永遠に生きる」と。パンとは、毎日食べるものを意味します。イエス様は、ご自身の中に満ちていた永遠の命を、毎日、私たちに注いで下さると言うのです。心が破綻し、自分で満たすことができない者に、わたしを信ぜよ。わたしがあなたを満たす。わたしがあなたの心を、あなたの霊を立て直すと仰るのです。

また、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りに含まれる、「私たちの」という言葉に注目したいと思います。「私の」ではなく、「私たちの」と言われています。私の兄弟に、私の友に日用の糧に事欠く人がいるならば、その必要を満たすことこそ、実践的な行動をもってこの祈りを祈ることなのだということです。ヤコブの手紙に次のような言葉があります。

2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、 2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。 2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

神様は、私たちが「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈りつつ、実際に困っている人々を自分の兄弟とし、自分の姉妹として支えていくことを願っておられるのです。

もう半世紀以上前のことですが、長崎の三菱製鋼所に久保田豊という所長がいました。久保田所長は、広島県宮島の貧しい酒屋の息子として生まれ、中学校に行く金もなかったといいます。ところが学校の先生に能力を見込まれて学資を出してもらい、岡山の六校を経て東大の工学部で金属の精錬を学びます。彼は高校生の時、クリスチャンになったということです。そして、東大を出た後、三菱重工に入りますが、昭和16年に長崎の三菱製鋼所の所長となりました。数年後の昭和20年8月9日午前11時、アメリカのB29が投下した原子爆弾の爆心地のすぐそばにあったのが、この三菱製鋼所でした。

久保田所長は、原子爆弾が投下された時、たまたま重要書類を取りに地下室に下りており、奇跡的に生き延びたのですが、地上に上がると、製鋼所の工場は壊滅、多くの工員が死に、また生きていても重傷に呻く生き地獄と化していました。彼は、その中で、亡くなった方を火葬や、負傷者の救出のために陣頭指揮し、幾晩も不眠不休の救出活動を続けますが、愛する妻の消息も分かりませんでした。学徒動員に出ていたため助かった娘たちが敗戦後戻ってきた時、部下たちのたっての願いで、初めて地下室に戻って休んだと言います。机の上に娘たちを寝かせ、蚊を追いながら、呆然としていた時、神様の声が大鐘の響きのように鳴り響いたと言います。「恐るな。進め。汝を助くる者、多し」と。

彼は、立ち上がりました。三菱製鋼は、会社の解散整理のために久保田所長を社長に任命しました。戦争も終わり、誰もが鉄の時代は終わったと言って笑いました。しかし、彼は、三菱製鋼所の再建のために、獅子奮迅の働きをするのです。廃墟と化した長崎の人々にパンを与えるために、神様がその使命を自分に託されたことを彼は知っていたからです。何万人という人々が原爆によって亡くなり、多くの人々が家族を失い、仕事を失い、食べることも、生きていくこともできない。

三菱製鋼所があった長崎の浦上には、多くのカトリックのクリスチャンが住んでいました。彼らは、原爆の前も、原爆の後も、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と主の祈りを祈っていました。神様はこの祈りに答え、若い時からクリスチャンとして生きてきた久保田社長をお選びになりました。多くの人々が絶望する中で、長崎の三菱製鋼所を再建し、彼らに職を与え、パンを与え、明日への希望を与えるのは、神様の御心だったのです。

決して生き方が上手な人ではありませんでした。愚直な田舎者です。しかし、「恐るな。進め。汝を助くる者、多し」という言葉によって久保田社長を立ち上がらせた神様は、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という多くの長崎のクリスチャンたちの祈りに現実的にお答えになったのです。

彼は力があったから、立ち上がったのでしょうか。そうではありませんでした。自分自身がどうやって生きて行ったらよいか分からない。愛する妻も失った。家も、住む場所も、全てを失い、絶望していたのです。本当は、彼自身助けを必要としていたのでした。しかし、「恐るな。進め。汝を助くる者、多し」という言葉によって彼を立ち上がらせた神様は、彼に必要な力と命を注ぎ、彼を助け、御心をこの地に行われたのでした。

マザー・テレサは、次のように祈りました。

〈自分より他人を〉

主よ、わたしが空腹を覚えるとき、パンを分ける相手に出会わせてください。喉が渇く時、飲み物を分ける相手に出会えますように。寒さを感じるとき、温めてあげる相手に出会わせてください。不愉快になるとき、喜ばせる相手に出会えますように。

わたしの十字架が重く感じられるとき、だれかの十字架を背負ってあげることができますように。乏しくなるとき、乏しい人に出会わせてください。暇がなくなるとき、時間を割いてあげる相手に出会えますように。

わたしが屈辱を味わうとき、だれかを褒めてあげられますように。気が滅入るとき、だれかを力づけてあげられますように。理解してもらいたいとき、理解してあげる相手に出会えますように。かまってもらいたいとき、かまってあげる相手に出会わせてください。

わたしが自分のことしか頭にないとき、わたしの関心が他の人にも向きますように。空腹と貧困の中に生き、そして死んでいく世の兄弟姉妹に奉仕するに値する者となれますように。主よ、わたしをお助け下さい。

主よ、わたしたちの手をとおして日ごとのパンを、今日彼らにお与え下さい。わたしたちの思いやりをとおして、主よ、彼らに平和と喜びをお与え下さい。

『こころの輝き―マザー・テレサの祈り』(ドン・ボスコ社)より。

私たちは、自分自身の存在が神様に100%依存していることを告白しながら「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈っていこうではありませんか。私たちの肉の必要、霊の必要を溢れるほどに満たそうとしておられる方がいるからです。

また、私たち自身の働きを通して、困っている方々を自分の兄弟姉妹として、支えていきましょう。その物質的な必要を、その霊的な必要を満たすために、一人一人に与えられている賜物があります。マザー・テレサは、痛みを感じるまで与えなさいと言いました。マザーの施設で砂糖が不足して困ったことがありました。その時、それを伝え聞いた一人の男の子が、3日間砂糖を我慢して、その3日分の砂糖をマザーのところに持って来たというのです。決して大量の砂糖ではありませんでした。しかし、この男の子が捧げた砂糖と心によって確かに大きく前進した神の国がありました。先ほど、ご一緒に読んだマザー・テレサの祈りのように、自分が欠乏や苦しみを感じる時に、助ける相手と出会うことができますように。その時、私たちの力ではなく、神様の力が働くのです。その方々を助ける力、私たちを助ける天来の力が働くのです。

「幸いなるかな。貧しき者たち。神の国はあなたがたのものだ。幸いなるかな。心の貧しき者たち。天の国はあなたがたのものだ」と言われたイエス様の祝福が私たちの上に現実のものとして現されて行くのです。

祈りましょう。

天のお父様。尊い御名を心から賛美いたします。私たちに祈りを教えて下さり、「わたしは、決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と約束して下さった主よ、あなたを心から誉め讃えます。

私たちに日ごとの糧を与えてくださる主よ、あなたに感謝します。私たちは、自分で自分の必要を全て満たせると思って生きてきました。しかし、実際は、私たちの存在は、全てあなたに依存しているのです。私たちが今日食べるパンも、ご飯も、あなたが太陽を毎日昇らせ、雨を降らせてくださるから、私たちは頂くことができます。大地を耕し、種を蒔き、収穫してくれる人がいます。流通に従事し、社会に調和と平和を保ってくれる人々がいます。これら全てによって、私たちは支えられているのです。そして、そこにあなたの御手の働きがあります。

主よ、どうぞ、今日も私たちに日用の糧をお与えください。私たちの必要を覚え、この地上を生きていくに十分なものを備えて、私たちの旅路をお守り下さいますよう、心からお願いいたします。

心虚しく、乾く時に、天からのパンを与えて、命を注いでください。天よりの水を与えて、渇きを潤して下さい。あなたの御霊を私たち一人一人の上に、溢れるように注いで下さいますよう、心からお願いいたします。

主よ、今、この飽食の日本においても、また世界の多くの地域で、今日のパンに困っている多くの人々、私たちの兄弟たち、姉妹たちがいます。主よ、どうぞ彼らを顧みて下さい。そして、私たちの目を彼らに向けさせ、彼らのために自分の持てる物を差し出し、彼らを支える者となることができるよう、私たちを作り変え、導いて下さい。

心渇ける者たち、心の虚しさに泣く者たちと共に、あなたの希望を分かち合うことができますよう、主よ、あなたがご臨在ください。あなたが、私たちの手、私たちの足、私たちの声、そして私たちの心、私たちの全てをお使いください。私たちを通して、あなたの神の国を前進させて下さい。

心から感謝して、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

関連記事