「マタイの福音書」連続講解説教

主の祈り(3)罪の赦し・ヨベルの年の実現

マタイによる福音書6章12節
岩本遠億牧師
2007年2月11日

6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』

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主の祈りを学んでいます。今日は、12節「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように」から学びたいと思います。

世界中にはいろいろな宗教がありますが、高等宗教と呼ばれるものの中には、共通点も見出されますし、高僧の生き方などには、私たちが学ぶべきものも多いように思います。しかし、聖書の福音が他の宗教と決定的に違うところがあります。それは、イエス様の十字架と復活です。「罪の赦し」と「永遠の命」です。死後の命や霊魂の不滅を説く宗教は多いですが、聖書は、罪の赦しのない永遠の命、罪の解決されていない天国はないと言います。

永遠の命から私たちを引き離しているのが罪だからです。聖書によると、罪とは、自分で良いことと悪いことを決めたいという思いと、そこから発生する全ての悪い思いや行為を言います。自分の都合に合わせて良いことと悪いことを決め、神様が定めたことを行わず、神様が禁止なさることを行うことです。事の良し悪し、人の良し悪しを自分で決めたいというのが、私たち全員が持っている問題であり、それによって、人と人との対立が生まれ、憎しみや争いが生じるのです。そして、自分の創造者である神様から離れてしまっているために、自分の存在理由が分からない。自分の存在の基盤が分からず、虚しさをどうすることもできないのです。これを罪と言います。

聖書は、私たちが永遠の命の希望を得、神様の永遠の祝福の中に生きるためには、私たちを神様から引き離している罪の解決が必要だと言うのです。そして、神様は人間の罪を赦して、その存在を回復してくださる方だと言います。

詩篇103篇に次のような言葉があります。

103:1 【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。 103:2 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 103:3 主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し103:4 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け 103:5 長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。

罪を赦し、病を癒し、祝福を満たして、存在を回復してくださるのが神様だと言うのです。罪の赦しによる、存在の回復、これこそが神様が私たちに与えようとしておられるものなのです。

イエス様は「私たちの負い目をお赦しください」と祈れとお教えになりましたが、「罪」とは、神様に対する「負債」だと仰っています。この「負い目」という言葉の意味を聖書に沿って考えると、「罪の赦し」と「永遠の祝福」がどのように結びついているのか良く分かるようになります。

旧約聖書のレビ記にヨベルの年(解放の年)についての規定があります。

25:8 あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は四十九年である。25:9 その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、 25:10 この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。25:13 ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける。

25:25 もし同胞の一人が貧しくなったため、自分の所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、売った土地を買い戻さねばならない。25: 26 もしその人のために買い戻す人がいなかった場合、その人自身が後に豊かになって、自分で買い戻すことができるようになったならば、25:27 その人は売ってからの年数を数え、次のヨベルの年までに残る年数に従って計算して、買った人に支払えば、自分の所有地の返却を受けることができる。25: 28 しかし、買い戻す力がないならば、それはヨベルの年まで、買った人の手にあるが、ヨベルの年には手放されるので、その人は自分の所有地の返却を受けることができる。

25:39 もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。25:40 雇い人か滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年まであなたのもとで働かせよ。25:41 その時が来れば、その人もその子供も、あなたのもとを離れて、家族のもとに帰り、先祖伝来の所有地の返却を受けることができる。

出エジプトしたイスラエルは、カナン定住時に、それぞれの居住地の分配を受け、その土地の産物によって生きるようにと定められました。しかし、生産や経済活動においては、格差が生じるのは避けがたく、貧しい人々は、借金をして種を蒔きます。しかし、返せない場合、土地を売ったり、身売りをしたりしなければなりませんでした。

神様が与えると定められた祝福と神の民である自由人としての立場を負債によって失った人々がいました。しかし、神様は、最初に定められた分配地と神の民としての身分を決して取り消されることなく、一族の者に買戻しの権利を保有させるとともに、50年ごとに解放(ヨベル)の年を定め、最初の分配地に自由人として戻ることをお命じになったのです。一切の負債を破棄し、束縛も負い目もない全く解放された者としての実存を回復させることが神様の計画の中に定められていたのです。

これを私たちに当てはめてみると、負債というのは、神様が定められた祝福や神の民としての自由を失わせるものであり、罪は、神様に対する負債だと言うことになります。今、私たちが陥っている様々な精神的な不自由、束縛感、虚しさ、また、具体的に経験する生きる苦しみやは、罪の負債によって私たちが本来ある場所、本来の立場から切り離されているからなのだと聖書は言うのです。

このような罪の状態、神様に対して罪の負債を負ってしまって神様の祝福と栄誉を受けられなくなっている私たちを救うものは一体何なのでしょうか。誰が、このような惨めな状態から私たちを救い、神の子としての自由と尊厳を回復してくれるのでしょうか。律法には50年ごとにヨベルの年を実施するように定められていますが、それは、私たちにどのような意味を持っているのでしょうか。

確かに、律法の中には50年毎にヨベル(角笛)の年、解放の年を実施するように定められていますが、これが実施されたという記録を聖書の中に見出すことはできません。また、ユダヤ文献の中にもないそうです。土地や身を売った者を買い取って自由にする親族はいましたが(ルツ記参照)、実際にヨベルの年が実施されたことはなく、イスラエル全体が祝福と自由の回復を共に喜ぶことはありませんでした。ヨベルの年は、イエス様によってこの地上にもたらされる、罪からの解放と人間の尊厳の回復を、律法という形で預言したものだったのです。

イエス様は、その伝道の公生涯をお始めになった時、ヨベルの年の到来を宣言なさいました。

ルカによる福音書「4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。 4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、 4:19 主の恵みの年を告げるためである。」 4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。」

神様は、レビ記の中で定められたように、私たちが本来受けるべき祝福と自由な神の民としての立場を取り消しにはなさらず、イエス様の十字架の血潮によって、この祝福と立場を私たちにもう一度与えて下さるのです。私たち個人個人に対しては、イエス様は、私たちの買い戻しの権利を有する親族としてやって来てくださり、十字架の血という代価によって、私たちを買い戻し、神の子としての存在の輝きと、その尊厳を回復させて下さったのです。また、全人類に対しては、全ての人を罪の負債から解放するヨベルの年を十字架によって宣言なさったのです。

コロサイ「2:13 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、2:14 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」とあるとおりです。

神様の前にある罪の債務証書を十字架の血潮という絶大な対価によって破棄する、これこそイエス様によって宣言されたヨベルの年であり、神の子としての私たちの実存の回復なのです。

このことのためにやって来られ、このことを実現なさったイエス様だからこそ、「私たちの負債、私たちの罪をお赦しください」と祈れとお教えになった言葉には力があります。謙遜になってその贖いの恵みを受けるようにと、招いておられるのです。

そして、それに続く、「私たちも、私たちに負い目のある者を赦しました」という言葉は、この偉大な解放の年を来たらせる働きへの参与への招きなのです。「わたしが十字架の血潮によってあなたの負債を帳消しにし、あなたにヨベルの年を来たらせたように、あなたも、あなたに負債のある者、あなたに悪を行った者の負い目を帳消しにしてやり、その人に個人レベルでのヨベルの年を来たらせて上げなさい」と言っておられるのです。これは、返せるものを帳消しにしてやりなさいと言っているのではありません。また、賠償できるものを許してやれと仰っているのでもなく、自分の力では返せない者、賠償するために身売りをしなければならないような者を許してあげなさいと仰っているのです。また、あなたの相手の人に対する怒りと憤りを捨てなさいと仰っているのです。

イエス様は、主の祈りのすぐあとに、「6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」と仰っていますが、これは脅しておられるのではありません。「全ての者の罪の負債を帳消しにする圧倒的な十字架の恵みがある。あなたも、わたしが赦すように、赦す者となれ。人間の実存と尊厳の回復に参与するものであれ。このヨベルの年の恵みにあずかるとは、あなた自身が、同じように赦す者となること、愛するものとなることなのだ」と仰っているのです。

私たちは、自分に損害を与えた人を赦すことは難しいです。そこに怒りがある場合、私たちは、心の中で相手の人を裁いています。自分を善悪の決定者としてしまっているのです。そんな時、私たちは「神様、私の罪と負い目をお赦しください」と祈るのは難しいですね。しかし、「私の罪、私の負い目をお赦しください」という祈りは、善悪の決定権をすべて神様にお返しするという告白でもあるのです。ですから、私たちは、なおさら、「私の罪、私の負い目を赦して下さい」と祈らなければならないのです。その時、全ての者を赦し、その存在を回復するイエス様の十字架の血潮が私たちに注がれ、私たちも、「イエス様、私も、赦すことができました。あなたの十字架の血を誉め讃えます」と告白することができるのです。

また、私たちは、自分を傷つけた人を赦すことも難しいと感じます。痛みが残っている場合、その痛みによって、思い出したくないことを思い出してしまうからです。しかし、ヨベルの年を宣言なさったイエス様の十字架の血は、私たちの痛みをも癒すものだということがイザヤ書に預言されています。先ほど読んだルカによる福音書が引用しているイザヤ書には、イエス様が遣わされたのは、「打ち砕かれた心を包むためだ。癒すためであり、解放の年を宣言するためだ」と預言されています。ヨベルの年を宣言なさる方は、痛んだ心を癒す方なのだと聖書は言っているのです。

痛みのために、心が縛られ、赦したくても赦すことができずに苦しい思いをしている者たちを、イエス様は、癒すとおっしゃっているのです。ご自分を十字架に磔にする者たちのために、「父よ。彼らをお赦しください。自分で何をしているのか分からないのです」と祈り続けられたイエス様の血潮が注がれる時、私たちは癒され、心の苦しみから解放されていくでしょう。そして、「イエス様、心が痛くて赦すことができずに苦しかったのに、あなたは私を癒して、赦せるようにして下さいました。感謝します」と告白する者と変えられて行くのです。

私たちは、何と幸いなことでしょう。この身にまとわりつく全ての罪と神様に対する負債の権利証書は、十字架の血によって無効とされたのです。私たちはもう、自分の罪に泣く必要はないのです。私たちを縛る罪の呪いは打ち砕かれたからです。イエス様が私たちのためにヨベルの年を宣言されたからです。私たちは、本当に私たちの罪を無効とし、これを処分し、罪の全てを背負って下さった方の前にひれ伏して祈ろうではありませんか。「主よ、私の負い目、私の罪をお赦しください」と。

イエス様は、私たちに十字架の血を注ぎ、私たちの心を解放し、自由にしてくださるでしょう。そして私たちも、「私たちに負い目のある人を赦しました」と告白しましょう。これまで赦せなかった人を「赦しました」と告白せずにおかないような溢れる命を注いで下さる方がおられるのです。

私たちのためにヨベルの年を宣言して下さった方は、私たちをもその働きの中に参画するようにと招いておられるのです。「わたしが、あなたの罪を赦し、その存在を回復し、神の子の尊厳と永遠の祝福を与えてくださったように、あなたも、個人レベルで、あなたの周囲の苦しめる者たちにヨベルの年をもたらす者であれ。彼らの人生と尊厳を回復するものであれ」と仰っている。これが、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」という祈りに込められたイエス様の招きなのです。

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