「マタイの福音書」連続講解説教

主は生きておられる

マタイの福音書28章
岩本遠億牧師
2008年11月30日

28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。 28:2 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。 28:3 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。 28:4 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 28:5 すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。 28:6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。 28:7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」

28:8 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。 28:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。 28:10 すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」

28:11 女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。 28:12 そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、 28:13 こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。』と言うのだ。 28:14 もし、このことが総督の耳にはいっても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」 28:15 そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。

28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。 28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。 28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。 28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

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今日、私が皆さんに申し上げたい、唯一つのことは、「イエス様は生きておられる」ということです。私たちの信仰生活、あるいは私たちクリスチャンの日常生活の鍵となるのは、この「イエス様は生きておられる」という事実であります。このことなしにイエス様を信じることは虚しいとパウロも述べています。

昨日、私はこの教会の教会員の方のお母様の納骨式を執り行いました。お母様を天に送って約4か月、お母様を失った悲しみと嘆きの中にあるご家族の皆様が、「イエス様は生きておられる。天に帰った母も、私も、イエス様にあって永遠に生きる」という信仰を与えられるように、イエス様にある深い慰めと励まし、希望が与えられるようにと心から祈らずにおられませんでした。

私には息子が二人おります。上の息子は、今年大学4年で間もなく卒業となりますが、今年の夏、母校の高校で教育実習をしました。彼は、中学校から大学までずっと陸上をやっておりまして、勉強ということをしっかりやったことがありません。中高一貫の進学校に入ってしまったということも不幸だったのですが、高校は学年末で赤点をとらないということを勉強面での目標とし、大学に入ってもまともに本を読んで勉強したことはあまりなかったようです。実習の科目は倫理社会ですが、本人の希望によって実習の授業の範囲をユダヤ教・キリスト教にしてもらったそうです。いざとなれば父親に教えてもらってやれば良いという甘い考えで選んだようです。案の定、彼は進学校の倫理社会の授業で教えられるようなユダヤ教・キリスト教の知識は持ち合わせておらず、事前指導の前日、あるいは二日前には下宿から戻ってきて、「教えてくれ、参考資料となるものをコピーしてくれ」という訳です。私も、彼がこれで聖書についての理解を少しでも深めてくれればという思いがあるものですから、夜遅く、ある時は3時、4時ぐらいまで付き合いました。

いよいよ、イエス様の十字架のところが終わって、授業で復活のところを取り扱うところに来た時に、彼が言うのです。「ユダヤ教は分かりやすいし、教えやすい。イエス・キリストも十字架までは分かるし教えられる。でも、復活は教えられない。大体自分も復活についてのイメージを持つことができない。分からないものは教えられない。」その通りだと思います。罪のないイエス様が全人類の罪の贖いのために十字架にかかって死んだ。それによって私たちは罪が赦されたという福音の言葉は、信じるかどうかは別として、論理的には理解するのは難しくありません。しかし、いざ復活となると、それをどのように受け止めたら良いのか、戸惑う人は多いと思います。

実は、先ほどお読みしたマタイの福音書28章を丁寧に読むと、イエス様の11人の弟子たちの中にも分からない者、疑う者がいたと書いてあります。分からない者は私たちだけではなかったのです。復活のイエス様に出会った11人の弟子たちの中にも分からない者がいた、疑う者がいたと聖書が言うことは重要です。

信じる者だけにイエス様はご自身を現わしたのではなかった。疑う者、信じることができない者たちに復活のイエス様はご自身を現わされたからです。しかも、こう言っておられます。「行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」「わたしの兄弟たち」と弟子たちのことを呼んでおられる。

弟子たちというのは、イエス様が伝道の最初の時から呼び、ご自身のそばに置いて、親しく教え、愛し、共に生活なさった者たちです。しかし、彼らはいよいよイエス様が捕らえられたとき、イエス様を見捨てて逃げてしまった者たちです。ペテロはイエス様を3度、徹底的に知らないと否認しました。そのような者たちをイエス様は「わたしの兄弟たち」と呼んでおられるのです。

それまでは、あくまでも従う者、ついて来る者という意味での弟子だった者たちを、「兄弟」と呼んでおられる。それは、弟子たちが、そして私たちが、イエス様と同じ命、イエス様の命、復活の命に生かされる者、復活の命を与えられた者となったということを意味しているのです。兄弟とは同じ親の血が流れている者のことです。同じ命が流れている者を兄弟と呼ぶ。

信じることができずに疑う者たち、しかし、イエス様は、そのような者たちを兄弟と呼んでおられる。同じ命に生きる者にされたのだというのです。それは、彼らが理解できたからではありません。イエス様が握っておられたからです。私たちも、分からないことはあります。全てが分かって信じているわけではないでしょう。信じたと思ったことがふらつくことがある。揺れることがある。しかし、分からない者、ふらつく者、揺れる者を、イエス様が握って下さっている。握って下さっていることが分かるようになっていく。それが弟子たちにとってはガリラヤでの主イエスとの再会の経験だったのです。

このマタイの福音書の中だけで3回も「蘇ってから、あなたがたより先にガリラヤに行く」という言葉が記されています。最初は、最後の晩餐の後、弟子たちの躓きを予告なさる時に言われました。「あなたがたは、今夜、わたしの故に躓きます。しかし、わたしは蘇ってから、あなたがたより先にガリラヤに行きます。」2回目は、イエス様の復活を告げた御使いたちによって、墓にやってきた女たちに言われた言葉です。「28:7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。」そして、最後にイエス様ご自身が墓を見に来た女たちに言っておられます。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」

実に3度も「あなたがたより先にガリラヤに行く。そこで待っている」と言われるということは、余程の意味があったのだと思います。

ガリラヤとは、イエス様の弟子たちにとっては、自分の故郷です。自分の家があるところです。生まれ育ったところであり、生活の場でした。そこで彼らはイエス様と出会ったのです。大きくて力強く、愛に溢れる偉大なイエス様に出会ったのは、まさに彼らの土地であったガリラヤだったのです。ガリラヤは、律法の解釈など信仰的にもエルサレムに比べて自由な気風があり、また方言もあったので、エルサレムに住むユダヤ人たちからは見下げられていました。そんな田舎者の彼らが、イエス様と一緒に勇んでエルサレムに上って行ったのでした。

この力強い愛にあふれる方は、いざとなったら奇跡をも起こしてローマの占領軍を打ち破って下さるに違いない。またエルサレムの宗教家たちも歯が立たないほど知恵に満ち、言葉にも力があるこのかたこそ、イスラエルの王となる方だ。もう一度イスラエルに栄光の時がやってくる。そのように信じてイエス様に従ってエルサレムに行ったのが弟子たちだったのです。

しかし、エルサレムで経験したのはあの力強かったイエス様が戦いもせずに簡単に捕えられ、鞭うたれ、侮辱され、卑しめられ、十字架に架けられて殺されるという衝撃の出来事でした。イエス様は、全人類の罪の贖いのために自ら十字架に殺される道を選ばれました。しかし、弟子たちにはそのようなことは分かりません。弟子たちは、イエス様に躓き、自身もイエス様との関係を否定し、恐れ、全てを失い、神様も、人も、イエス様も、自分も、何も信じることができなくなり絶望しました。

そんな弟子たちに、イエス様は十字架にかけられる前に「あなたがたより先にガリラヤに行く。そこであなたがたを待つ」と言われ、御使いも、蘇ったイエス様ご自身も、そのことを墓を見にきた女たちに言われたのです。あの出会いの場所であるガリラヤ、彼らの生活の場で、生きているご自分を現わし、絶望し、何も信じられなくなった弟子たちに希望を与え、立ち上がらせようとなさったのです。「イエス様は生きている」という言葉を彼ら自身の口から告白することができるようになさったのです。

ヨハネの福音書には、イエス様と弟子たちとの再会の場面が記されています。ペテロをはじめとする弟子たちは、イエス様に従った3年間をなかったものとして、元の漁師の生活に戻っていました。そんな彼らのところにイエス様がお姿を現わされたのです。

21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。 21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。 21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。 21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」 21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。 21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。 21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

この奇跡は、ペテロがイエス様に従っていこうとの思いを与えられた時にイエス様がペテロに顕わされた奇跡と同じものでした。ペテロは、イエスという若い聖書の教師が現れ、ガリラヤ地方で伝道活動を始めたのを知っていました。それだけでなく、知り合いでもあり、自分の姑が熱病だった時に癒していただいたこともあったのです。しかし、彼は、この若いイエスという教師と距離を置いて、関わらないようにしていたのです。自分とは関係ないという思いがあったのかもしれません。

そんなとき、イエス様の話を聞こうとして多くの人々がガリラヤ湖の湖畔に集まって来ました。するとイエス様は、ペテロの舟にずかずか乗り込み、話がしやすい距離に出してくれと言われるのです。ペテロは、その夜は、一晩中働いたのに魚は一匹も獲れず、疲れ、がっかりしながら網を洗っていました。さすがにむかっと来たと思いますが、多くの人々の手前、断るわけにもいかず、不承不承、舟を出しました。

話が終わると、イエス様は、沖にこぎ出して漁をしなさいと言われる。ペテロは思ったに違いありません。「あなたは、聖書の先生かもしれない。多くの人があなたの話を聞きに来ているかもしれない。しかし、魚獲りに関しては、俺はプロ、あなたは素人だ。それを一体何だ。」しかし、ペテロは、そう言いたい気持ちを抑えて、「あなたがそういうのでしたら」と言われるとおりにするのです。すると、舟が沈みそうになるほど、魚が獲れた。彼は、自分が魚を思いのままに操ることができる方、神の子の前にいることを知るのです。

ペテロは、恐れ、ひれ伏して言いました。「主よ。私のような者から離れて下さい。私は罪深い人間ですから。」しかし、イエス様は言われるのです。「恐がらなくてよい。これから後、あなたは人間を獲る漁師になるのだ」と。

自分の心の中の怒りや苛々、イエス様に対する反発の心、そんなものを全て知った上で、信頼関係を求めてこられ、そして、全てを赦し、全てを受け入れ、愛して下さった。魚が獲れない時にも、溢れるように満たして下さった。ペテロは、この時、イエス様の中に行ける神の子の姿を見、イエス様に全てを捧げて生きていく決心をしたのでした。

今、復活なさったイエス様が、同じ奇跡を起こして、ペテロの中で死んだようになっていたイエス様との出会いの感激、その時の初めの愛、大きなイエス様、自分の全てを赦して下さっているイエス様を蘇らされた。ペテロの中では死んでいたイエス様が蘇ったのです。

彼は、上着を着て、すぐには動けない舟から湖に飛び込み、泳いでイエス様のおられる岸に泳いで行きました。すると、イエス様が火をおこして待って下さっていた。その上には魚とパンが用意されていました。「今獲れた魚を幾匹か持って来なさい。さあ、朝ごはんを食べよう」とイエス様はおっしゃる。生活の只中で一緒に食べ、一緒に楽しんで下さるイエス様がここにいるのです。

食事の後でイエス様はペテロにお尋ねになりました。

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」 21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」 21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。 21:19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

3度イエス様を知らない、関係ないと言って、自分の全存在を賭けてイエス様を否定したペテロに、イエス様は3度、お尋ねになりました。徹底的にお尋ねになりました。「わたしを愛しているか。わたしを愛してくれるか」と。ペテロは答えます。「主よ、あなたがご存じです。あなたは全てをご存じです」と。もう自分の決心、自分の愛で愛することができないことを知っているペテロは、「わたしがあなたを愛していることを、あなたがご存じです。あなたが全てのことを知り、全てのことを握っておられるのです」と3度、徹底的に告白するのです。

イエス様は、このようにしてペテロの中で死んでしまったイエス様を復活させられました。イエス様が蘇ったので、ペテロも生きたのです。福音書にはペテロのことしか書いてありません。しかし、イエス様が蘇ったと聞いても信じることができなかった弟子たち一人一人に、イエス様はその生活の場でご自身を現わされたのではないでしょうか。一人一人に「わたしを愛してくれるか」と語りかけられたのではないでしょうか。

この方は、今も生きて、私たちの生活の場に来て下さる。魚が一匹も獲れないというような生活の困難の中、落胆の中、問題の只中でイエス様は待って下さっていて、私たちに生きているご自身を現わされるのです。そして、私たちの中で死んだようになっているイエス様を蘇らせ、私たちを生かして下さるのです。イエス様は、私たちに語りかけておられます。「わたしを愛してくれるか」と。

この方が今生きているのです。「主イエスは、生きておられる。」私も声高らかに告白したいと思います。「主は、今も生きておられます。」

祈りましょう。

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