「マタイの福音書」連続講解説教

主は足を止められた

マタイの福音書20章29節から34節
岩本遠億牧師
2008年5月18日

20:29 彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。 20:30 すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」 20:31 そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。 20:32 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」 20:33 彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」 20:34 イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。
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いよいよイエス様はエルサレムに向かって、最後の道を歩いていこうとしておられました。エリコというのは死海の近くの町で、エルサレムから約22km、海抜マイナス250mです。そこから海抜790mのエルサレムに上っていこうとしておられました。
イエス様はどのようなお気持ちであったことでしょう。エルサレムに入城すると、そこでは祭司長、律法学者との戦いがある。今は歓呼をもって自分を受け入れて、自分を王として担ぎ上げようとしている群集や弟子たちが、自分を見捨て、裏切る。その祭司長や律法学者たちは死刑の宣告を下し、神を知らない異邦人に引渡し、彼らは、自分に鞭打ち、打ちのめし、十字架にかけて殺す。
イエス様にとってエルサレムに上るとは、死にに行くことです。苦しむために行くのです。喜びのたびではない。多くの群集や弟子たちが付いてきていました。しかし、イエス様は孤独だったと思います。多くの人たちがそれぞれの思いを持って付いてきていました。しかし、イエス様のことを理解している人は一人もいなかったのです。
そのような中で、エリコ近くの道端に座って物乞いをしていた二人の盲人が、イエス様が通られると聞いて、叫び声を上げました。「主よ。私たちを憐れんで下さい。ダビデの子よ」と。人々は、彼らを叱り付け、黙らせようとしますが、彼らはますます大声で、「主よ。憐れんで下さい。ダビデの子よ」と叫びたてました。
イエス様は足を止められました。「主よ。憐れんで下さい」という言葉にイエス様は足を止められたのです。物乞いをしていた人たちが「憐れんで下さい」というと、普通はお金を求める言葉だと思うでしょう。だから人々は彼らを黙らせようとしました。しかし、イエス様は、彼らの実存の叫びに耳を傾けられたのです。
「主よ。通り過ぎないで下さい。憐れんで下さい。あなたこそイスラエルの王、私の王です。憐れんで下さい。私に関わってください。私のほうを向いてください。」
私たちは、今日礼拝に集ってまいりました。しかし、このような思いでイエス様に向かって叫んでいるでしょうか。キリスト教会においては、初期の頃から礼拝は最初に「主よ。憐れんで下さい」という祈りをもって始めていました。偉大な作曲家たちが残しているミサ曲やレクイエムなどでも、最初に「キリエ、エレイソン」(主よ。憐れみたまえ)という曲で始まります。
私たちは、人生の破綻を経験して、この場にやってきました。主よ、憐れんで下さい。通り過ぎないで下さい。私に目を留めてください。私の王、私の神。私の実存に光を照らしてください。そのような思いでイエス様にむかって叫ばざるを得ないのが私たちではないでしょうか。
当時、盲目だった人たちは、単に人の施しを受けなければ生きていくことのできない苦しみの中にあっただけではありませんでした。目の見えない者、足の不自由な者は、礼拝を捧げることができないもの、神様から呪われたもの、存在している価値のない者として軽蔑されていたのです。
それは、その時から約1千年前のダビデが、エブス人との戦いで「目の見えない者、足の不自由なものでもお前を追い払うことができる」と言って侮辱されて激怒し、エブス人で目の見えない者、足の不自由な者を虐殺したということがありました。その時から、目の見えない者、足の不自由な者たちは、神殿にはいることを許されず、礼拝者として生きることができない呪いの中に置かれてしまったのです。
人々は、彼らを黙らせようとしました。彼らには価値がないと思ったからです。イエス様の憐れみを受けるにふさわしい人間だとは思わなかったからです。しかし、イエス様は足を止められました。そして、彼らを呼び、言われました。「わたしに何をしてほしいのか」と。
彼らは答えました。「主よ。この目を開けていただきたい」と。単に病気を癒してください、自分で食べていくことができるようにしてくださいという以上の思いがあった。この呪いから解放してください。礼拝者として生きることができるようにしてください。主よ、あなたの姿を見ることができるようにしてください。神様の光を見ることができるようにしてください。あなたの光で私の存在を照らしてくださいという祈りであったことでしょう。
イエス様は、山上の説教の中で、「目は体の光だ。あなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし目が悪ければあなたの全身が暗いだろう。もしあなたの光が暗ければ、その暗さはどんなものだろう」と言われました。まさに目が開かれることによって、存在の中に光が照らされるのだということです。
聖書が、目が開かれるという時、単に肉の目が治るということだけを意味しているのではありません。イエス様は、パリサイ主義者たちに言われました。「イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」ヨハネ9:41」
何故、あなたがたは自分の目が開かれていないことを認めないのか。何故見えると言い張るのか。自分の心の目、霊の目が開いていないことを認めるなら、「主よ、憐れんで下さい」と祈ることができる。主は、憐れんで目を開いてくださるでしょう。しかし、「見える」と言い張る時、主に憐れみを乞うことができなくなるのです。
数週間前から折に触れて「富める青年」を取り上げてきました。彼は、「何をしたら永遠の命を得ることができるか」とイエス様に質問しました。彼は、「自分はできる」と思っていたのです。彼は「主よ。憐れんで下さい」とは言いませんでした。「この見えない心の目を開いてください」とも言わなかったし、自分の目が見えないのだということに気づくことがなかったのです。そして、イエス様の元を去っていきました。
ゼベダイの子ヤコブとヨハネも、イエス様の御国でイエス様の右と左に座ることを願いました。しかし、彼らも「この霊の目を開いてください」と祈ることがなかった。イエス様に近づき、イエス様から何かを得ようとした、これらの人々は、自分の目が開いていないことに気付いていなかったのです。
しかし、エリコの道端に座って物乞いをするしかなかった二人の人は、その目が開かれ、礼拝者とされ、イエス様の姿を見ることを、神の子とされること、その実存がイエス様の光によって照らされることを求め、叫び声を静めることをしなかった。
ある説教者が、このように言っています。私たちにとって、憐れみを乞うことは恥ずかしいと感じることかもしれない。人に何と思われるかということもあるだろう。しかし、自分の行いで救いを得られると思うほうがずっと恥ずかしいことなのではないか。自分の富で何とかなると思うことは恥ずかしいことだ。富んでいることは恥ずかしいことだ。「主よ、憐れんで下さい」と叫ぶことができないことは恥ずかしいことだと。
イエス様は、彼らの叫びに足を止められました。十字架に向かうイエス様の足を止めるような叫び、実存の叫び、イエス様は彼らを憐れまれました。「憐れむ」という言葉は、腸がよじれるという意味です。腸がよじれるほど、彼らを憐れまれたのです。そして、彼らの目に触り、癒されました。
彼らは、イエス様についていくのです。イエス様の姿を追いかけるものとなるのです。礼拝者として生きることができるようになったのです。

目が見えない者とは一体誰でしょうか。道端に座っている者とは一体誰のことだったのでしょう。イエス様が私の前を通り過ぎて十字架の道を行こうとされる時、叫び声を上げなければならないのは一体誰なのでしょう。私たち、一人一人ではないでしょうか。「主よ、憐れんで下さい」と。私たちの叫びに足を止めてくださる方がいる。触れてくださる方がいるのです。私たちを招き、十字架への道を共に歩かせてくださる主がいるのです。

スコットランドに、ジョージ・メイズソン(1842-1906)という牧師がいました。彼は、宗教文学においても多くの著書を著した人です。グラスゴー大学で学んでいたとき、信仰を同じくする女性と愛し合い、婚約しました。しかし、結婚を間近にして、彼は病気が原因で視力を失いつつあることがわかりました。彼は悩み苦しんだ末、彼女に正直に告白した手紙を書きました。
「ぼくは近い将来、失明することになってしまいました。あなたを愛していることにはかわりありませんが、婚約の解消を申し出ます。」
この不幸を背負った自分を、なおも愛してくれることを心では願いつつも、結婚の決断を彼女にゆだねたのでした。すると彼女から返事が来ました。
「私はひじょうに驚き悲しみでいっぱいです。同情申し上げますが、盲目となる方と生涯を共にする自信をどうしても持てません。」
覚悟はしていたものの、婚約破棄が現実になると、メイズソンはひじょうに動揺しました。彼は彼女の立場を尊重し受け入れたものの、失恋の苦しみに長年苦しみました。自分の目から光が取り除かれるだけでない。自分が心から愛していた人が自分から去っていった。
しかし、「主よ、憐れんで下さい」と祈る彼の心の中に照りわたる光があったのです。それは、「わたしは世の光である。わたしを信じるものは暗い中を歩くことがなく、永遠の命を持つ」と言われたイエス様ご自身でありました。彼は1882年、つぎのような不滅の賛美歌を作ったのです。
O Love that wilt not let me go, 私を去らせることのない愛よ
I rest my weary soul in thee; この打ちひしがれた魂をあなたの中に横たえます
I give thee back the life I owe, 私は、この命をあなたにお返しします
That in thine ocean depths its flow あなたの海の深みの中にこそ
May richer, fuller be. この命の流れは、より豊かに、完全になるのですから
O light that followest all my way, 私の行くすべての道を照らしてくださる光よ
I yield my flickering torch to thee; 私のこの消えそうな松明をあなたに委ねます
My heart restores its borrowed ray,私の心は、あなたからお借りしてた光を回復します
That in thy sunshine’s blaze its dayあなたの太陽の光の中で、
May brighter, fairer be. その日はもっと輝き、もっと美しくなるのですから
O Joy that seekest me through pain,痛みの中で私を捜し求めてくださった喜びよ
I cannot close my heart to thee; あなたに向かってこの心を閉ざすことはできません
I trace the rainbow through the rain,雨の中で虹の光をたどり
And feel the promise is not vain, あなたのお約束が虚しくないことを感じます。
That morn shall tearless be. 嘆きから涙は拭い去られるのですから
O Cross that liftest up my head, 私の頭をもたげてくださる十字架よ
I dare not ask to fly from thee; 何故あなたから飛び去ることができましょう
I lay in dust life’s glory dead” 塵の中に人生の栄光を捨て去ります
And from the ground there blossoms red その大地から永遠に終わることのない
Life that shall endless be. 命の花が咲くでしょう

   疲れし心を なぐさむる愛よ 
   君よりいでにし このわが生命を
   たれにかえさん

   わが道をてらし 導く光よ
   君よりたまいし 心のともしび
   いざやかかげん

   わが世の望みと てりわたる幸よ
   みちかいの虹を あおぎ望みつつ
   みちをたどらん

   罪のこの身をも 贖う十字架よ    ちりなる我にも とこ世の花をば
   さかせたまえ
          (賛美歌360番)

自分の目から光が消え、愛するものが自分から去っていたったとき、自分が全く闇に覆われた、闇が自分を包んだと思ったとき、自分の心の暗黒に照りわたる光があったのです。彼を憐れんでくださる主がいた。それはイエス様でした。永遠の命の光。否定されても、なおも甦る永遠の命の光。聖霊の愛。この方がメイズソンを満たし、導いたのであります。
 これこそ、私たち人を照らすまことの光であります。調子が好いときだけ感じる光ではない、人に認められた時だけ、誉められた時だけ感じる光ではない。人生の絶望の中に照り輝く光りこそ、永遠の命の光なのであります。
 私たちも祈ろうではありませんか。主よ、憐れんで下さい。主よ、通り過ぎないで下さい。私たちの目を開いてください。永遠の光を照らしてくださいと。
 祈りましょう。

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