「マタイの福音書」連続講解説教

人間存在の危機の只中に

マタイの福音書第9章18節〜26節
岩本遠億牧師
2020年3月29日

“イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。そこでイエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも従った。すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。イエスは会堂司の家に着き、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。群衆が外に出されると、イエスは中に入り、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。この話はその地方全体に広まった。”
                     マタイの福音書 9章18~26節

新しいぶどう酒は、新たしい皮袋に
=イエス・キリストの命は、人間の思考の壁、肉の壁を打ち破るもの
→一人ひとりにとっての思考の壁、肉の壁とは?

古代ユダヤの社会においては
=イエス・キリストの命は、古い皮袋(律法主義、律法そのもの)を打ち破るもの

律法による汚れの代表
死体
血の漏出

死:命との断絶=神との断絶
汚れ:神との接触の禁止
   =汚れたものが神に触れると滅びる
   →清められるまで礼拝に関われない
     清められるまで人と接触できない

汚れた状態の連続=神との断絶、社会との断絶

死も汚れも命との断絶
=神との関係の断絶
=人間存在の危機

“死人に触れる者は、それがどの人のものであれ、七日間汚れる。その者は三日目と七日目に、先の水で身の汚れを除いて、きよくなる。三日目と七日目に身の汚れを除かなければ、きよくならない。死人、すなわち死んだ人間のたましいに触れ、身の汚れを除かない者はみな、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。その者は汚れを除く水を振りかけられていないので汚れていて、その者の中になお汚れがあるからである。人が天幕の中で死んだ場合のおしえは次のとおりである。その天幕に入る者と、天幕の中にいる者はみな、七日間汚れる。”  民数記 19章11~14節

“女に漏出があり、漏出物がからだからの血であるなら、彼女は七日間、月のさわりの状態になる。だれでも彼女に触れる者は夕方まで汚れる。彼女の月のさわりの時に使った寝床は全体が汚れる。また、彼女が座った物もすべて汚れる。彼女の床に触れた者はだれでも自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。その人は夕方まで汚れる。また、何であれ、彼女が座った物に触れた人はだれでも自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。彼女の床であれ座った物であれ、それに触れたなら、その人は夕方まで汚れる。また、もしも男が彼女と寝るようなことがあるなら、彼女の月のさわりが移って、その人は七日間汚れる。彼が寝る床も全体が汚れる。女に、月のさわりの期間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出があるか、あるいは月のさわりの期間が過ぎても漏出があるなら、その汚れた漏出がある間中、彼女は月のさわりの期間と同じように汚れる。その漏出の間は、彼女の寝た床はすべて、月のさわりの時の床と同じようになる。彼女が座った物はすべて、月のさわりの間の汚れのように汚れる。だれでも、これらの物に触れた人は汚れる。その人は衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。”レビ記 15章19~27節

会堂司と長血の女性の信仰
=当時のユダヤという社会(律法が支配する社会)においては、常軌を逸した願い
=イエスは死や血の漏出によっては汚れず、むしろ死や血の漏出に勝利する
=人間存在の危機に神が介入してくださるという信仰

「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」

「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。

イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。

この女性の信仰とは?ご利益信仰?

なぜ主イエスはそっとして置いてくれなかったのか?

求める対象が決定的に重要
  ・動物を祀る神社か?
  ・偽りの霊能者か?
  ・存在の危機に瀕した人間を救うために、自ら存在の危機に飛び込み、これに介入なさったキリストか?

キリストはこの人に人格的な関係を与えた。
存在の危機に瀕した人を救うため。

病気が癒されただけでは、存在の危機からの救いはない。

イエスは会堂司の家に着き、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、
「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。
群衆が外に出されると、イエスは中に入り、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。
この話はその地方全体に広まった。

汚れを清め、死を打ち破る命がキリストの中に満ちていた
→これが私たちの古い皮袋を打ち破る

私たち一人一人の古い皮袋は何か?
何が私たち一人一人の心を縛り、不自由にしているのか?
なぜ、私たちは真実の愛に生きることができないのか?

・神に対する不信感、疑い(←悪魔の罠)
・自分の理解を超えた愛と回復の世界の存在を否定する
=存在の危機

人間存在の危機の只中に介入し、その危機に参与してくださる神との出会い
           ↓
目に見える世界を超える霊の祝福の世界に生きるようになる

否定の世界から肯定の世界へ

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