「マタイの福音書」連続講解説教

今は外に立っていても

マタイの福音書第12章46節〜50節
岩本遠億牧師
2020年7月19日

 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。
 ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。
 それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」

安息日論争の中断
イエスの母と兄弟たちがイエスと話そうとしてやって来た。パリサイ人たちとの論争について聞き及び、やって来たのか。

非常に緊迫した状況
・イエスを殺そうと思っているパリサイ人たちがいる
・ベルゼブル論争
・預言者ヨナのしるし(十字架と復活)の予告
・イスラエルが再び滅ぼされるとの予告

恐らくイエスの家族を知る人
「ほら、お母様とご兄弟があなたと話そうとして来ていますよ。」

「わたしの母とは誰か!わたしの兄弟とは誰か!」

「あなたは多くのことに気を回しているが、大切なことはただ一つだ!」

「わたしの父の御心を行う」
→わたしの兄弟、姉妹、母

ヨハネの福音書 6章28~29節
すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」
イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」

イエスの母と兄弟たちが、イエスと話そうとして外に立っていた。

外→何の外か?
   家の外か?
   「イエスがまだ群衆に話しておられるとき」
   →家の外とは考えにくい
   →イエスの話を聞いている人々の外
   →福音の外、神の国の外

イエスは、家族はどうでも良いと考えていたのか?

ヨハネの福音書 19章25~27節

“イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。”

“彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。”
使徒の働き 1章13~14節

イエスの兄弟ヤコブ→後にエルサレム教会の指導者(ガラテヤ1:19)
イエスの兄弟たち→伝道者(Iコリント9:5)

その時内に座っていた者たち
→全ての者が十字架に掛かるイエスを捨てて逃げていく
→全ての者が外に立つ者へ

→イエスの復活
→聖霊降臨
→全てのものが内に座る者に

ローマ人への手紙 第8章14~17節
神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

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