「ヘブル人への手紙」 連続講解説教

付け加えるもののない恵み

ヘブル人への手紙10章1節から18節
岩本遠億牧師
2011年4月17日

ヨハネの福音書を読み進めております。順序から言うと今日は20章に入る筈でしたが、ここはイエス様の復活の記事であり、来週が復活祭でありますので、今日はイエス様の十字架の意味を今一度学ぶために、ヘブル人への手紙を開きたいと思います。

10:1 律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。
10:2 もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。
10:3 ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。
10:4 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
10:5 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
10:6 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
10:7 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」
10:8 すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした。」と言い、
10:9 また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。
10:10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
10:11 また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。
10:12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
10:13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
10:14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

先週の水曜日、私の勤務する神田外語大学の大学院の研究科長を務められた大島一郎先生のご葬儀があり、私も参列しました。仏式ではあったのですが、式の真中で牧師が出て来て、10分ほどメッセージをし、祈りを捧げるという非常に不思議な告別式でありました。焼香台と献花の両方が準備されていて、誰も困らないようにという配慮が為されていました。

それは、大島先生の次女の方が若い時クリスチャンとなり、牧師と結婚なさって、伝道していらっしゃるからです。娘婿である井上牧師がメッセージとお祈りをなさいました。大島先生の奥様も、10年前にお亡くなりになりましたが、その前に洗礼を受けてクリスチャンとなっておられました。奥様のお葬儀の時は、前半仏式、後半キリスト教式という、これまた不思議なお葬儀でありました。大島家が熱心な檀家であったということと、キリスト者として信仰を全うした奥様に対する愛との間で、大島先生が両方の葬式をするとご決断なさったということでした。

水曜日の井上牧師のメッセージは、仏教徒もキリスト教徒も、誰が聞いても心に染みるメッセージで、「ああ、キリスト教の話、牧師の話というものは良いものだなあ」と思わせる、非常に良く考え抜かれた、愛に満ちたものでありました。

最後に親族ご挨拶の時、長女の方が大島先生の最後の御様子をお話でしたが、奥様がご自宅で始められた聖書研究会を、奥様亡き後も先生が主催して続け、讃美歌を大きな声で歌い、聖書のことばに耳を傾け、祈る日々であったということでした。

私が『元気の出る聖書のことば 神さまの宝もの』を出版した時には、その出版記念のオフ会に是非参加したいということで、お出かけになるご準備をしておられましたが、既に癌の治療をお受けになっておられ、体調が整わず、断念するというご連絡を頂きました。

ただ、先生は、拙著を聖書研究会のメンバーの皆様に是非読んでもらいたいから、8冊送ってくれとお電話くださり、私のほうからすぐにお送りしたりしました。

先生が公に信仰を告白して洗礼をお受けになったということは聞いていません。今回のお葬儀が仏式で行われたのも、喪主のご長女のご判断であったかと思います。しかし、聖書研究会を主催して牧師を呼び、そのメンバーの方々に聖書の言葉を届けようとした先生のお姿を思い起しつつあった時、主イエス様の言葉が胸に迫ってきました。

10:40 あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。 10:41 預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。 10:42 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」マタイの福音書10:40~42

そして、最後の出棺の直前に、次女の圭子さんに「元気の出る聖書のことばの岩本遠億です。先生と御国でお会いできることを信じております」と一言ご挨拶申し上げました。

圭子さんは、にっこり笑って「はい」と大きく頷き、「先生も伝道頑張ってください」と逆に励まして頂きました。永遠の命の希望が与えられている者の笑顔と平安がそこにありました。

式が進行していく中で、僧侶が浄土真宗のメッセージ当たる部分を古文で読み上げるのを聞いていて、また、不思議な思いに包まれました。用語や表現は違いますが、その中心的メッセージを私たちクリスチャンの聞きなれている言葉で言いかえると、次のようなものです。

「神は、人の行いや素性によらず、ただ一方的な恵みによって、罪の汚れを清めて天国に迎え入れてくださる。」

そのことを心から信じている人々は、決して私たちクリスチャンたちが対立すべき人々ではない、また彼らを排斥してはならない、むしろ、ここにイエス様の福音が受け入れられて行く精神的土壌があるとも感じました。

しかし、それと同時に、イエス様に出会い、イエス様の十字架の贖いによって救われたからこそ、ここで言われていることが分かるのかもしれないとも思いました。

なぜなら、イエス様の十字架の血、十字架の贖いこそが、この希望に実質を与えるからです。どのようにして罪に穢れたものに永遠の命を与えるのか、どのようにして天国に迎え入れるのか。罪そのものを打ち砕く実存の力がないところ、浄土への往生は保証を与えられないのです。

イエス様が十字架にかかって罪の力を打ち砕き、復活して死の力を打ち破ってくださったから、私たちは現実的に救われるのです。イエス様は、実存者としてこのことを行ってくださった。ここに現実的な救いの力があります。

ヘブル人への手紙はこのように述べています。

10:10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

10:14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

イエス様の十字架は、単なる事件ではなかった。イエス様は無理やり捕らえられて、殺されたのでもないと言っています。主の御心がなされたのだと。この御心という言葉ですが、アンドリュー・マーレーによるヘブル人への手紙の講解である『至聖所』という本を日本語に訳した大江邦治という先生は「御意」と訳しています。御意とは、変更されることのない君主の意志であります。

26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」・・・26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」

イエス様は、父なる神様の御意に従って、十字架にかかられたのです。

その父なる神様の御意とは何か。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。1テモテ2:4

この「望んでおられます」と訳してある言葉は、「御心」「御意」という言葉と同語源の言葉です。「全ての人が救われて、真理を知るようになることが神の御意である」という意味です。単に望んでいる、不可能かもしれないけれども望んでいるというのとは違う。神様は、このことの実現のために、御心を貫かれた。それがイエス様の十字架だったのです。全ての人が救われ真理を知るために、全ての人の罪を贖った、それがイエス様の十字架です。

しかも、イエス様の十字架は、私たちの罪を背負った身代わりの死という言葉では表しきれない重大な意味をもったものでした。イエス様の十字架は次の二つの点において、神様の御心を完全に満たすものでありました。

1.罪の完全な贖い→全人類の罪に対する呪いと罪に対する怒りの消滅
2.完全な捧げ物→神様は完全に満足。もう神様の思いを満足させるための捧げ物はない。

罪とは、人間が自分の思いを第一にすること、自分を基準に善悪を決めようとすることを言います。人間は神様と共に歩み、神様の御心をこの世に現わすために創造されました。しかし、人は神様と共に歩むことを望まず、自分を基準に善悪を決める道を選んだ。それを聖書は罪と言うのです。この根源的な罪から、対立、憎しみ、汚れ、放縦、裏切り、嘘などが生まれ、それが高じると殺人や盗み、姦淫、そして戦争などが怒るのです。律法は、このような罪に対しては死、滅びという呪いが与えられると言っています。

罪の完全な贖いとは、イエス様の十字架によって罪の効力がなくなったということです。罪に対する神様の怒りの全てと呪いの全てがイエス様の上に下された。もう、下すべき怒りも呪いも神様の中には永遠に存在しなくなったということです。

イエス様は単に人の代わりに死んだというだけではない。神様の罪に対する怒りと呪いの全てを真正面から受けて、呪われ、地獄の底に落とされた。それほどの死だったということです。

神様と一つだったイエス様が、十字架の上で「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と呻かずにはいられなかったほどの地獄の苦しみと極限的な絶望と滅びがイエス様に与えられた。

だから、もう神様はあなたを怒っていないのです。仮にあなたが今罪の中にあるとしても、神様は永遠にあなたに対して怒りを燃やされることはない。あなたは罪によって呪われることはないのです。イエス様が既に、すべて引き受けてくださったからです。

何度か申し上げましたが、今回の大震災に関して、ある有名人が「天罰だ」と言いました。また、ある人が「神様が怒っているからだ」と言ったということを聞きました。しかし、聖書ははっきりと言うのです。イエス様が十字架の死によって罪に対する神様の全ての罰と怒り、呪いを受けてくださった。だからもう人間に下されるべき罰はないのだと。

あなたは病気になることがあるでしょう。なかなか治らない病気に苦しむ時、それは罪に対する神様の罰ではありません。神様はあなたに対して喜びの笑顔を向けていらっしゃるのです。

この世に起こる事柄、また自分自身についても、私たちには理解できないことがたくさんあります。苦しいことがあると神様は怒っているのかと思うこともあるかもしれません。しかし、もう永遠に神様は私たちを怒っていない。その怒りの全ては、罪を犯すことのなかった神の子イエス様が全て永遠に引き受けてくださったからです。

私たちは神様の温かい御手の中にあります。神様が私たちのために立てて下さっている最善の計画があります。イエス様の愛が私たちに注がれる時に、苦しみという矛盾を乗り越え、「神は愛です。そうです。主よ、あなたは愛の方です」と告白する信仰が与えられて行く。

また、イエス様の十字架は、神様に対する永遠の完全な捧げものでした。これによって神様は完全に満足なさり、完全に喜んでいらっしゃる。だから、私たちは、神様を喜ばせるために何かをしなければならないということはないのです。

勿論、神様は私たちが御心に従って生きることを喜んでくださいます。神様を喜ばせなくても良いということではありません。しかし、今神様は人間の状態に不満だから、神様を満足させるために何かをしなければならないということはないと聖書は言うのです。

例えば、少ししか献金できない時は神様はあまり喜んでいなくて、たくさん献金したらすごく喜んでくださるということはないのです。また、たくさんの人に伝道したら神様がたくさん喜んでくださり、伝道できない人は神様に喜ばれないということも全くない。奉仕についても、全く同じです。

喜びに満ち満ちた方が、私たちが御顔を仰ぎ見ることを喜んでくださるのです。神様の満ち満ちた喜びを御顔を仰ぎ見る私たちに注いでくださる。ここに永遠の喜びがあります。私たちは弱いでしょう。まだ罪に傾く心を持っているでしょう。失敗もするし、罪を犯してしまうかもしれない。自分を赦すことができない状態に陥ることもある。しかし、そんな状態の中にあるとしても、神様は私たちに対して、完全な満ち満ちた喜びをもって御顔を向けてくださるのです。

10:10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。・・・10:14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

イエス様が十字架にかかって一度、永遠にご自分を捧げられたことにより、私たちは永遠に全うされたのです。

この「全うする」という言葉は、ヘブル人への手紙5章8-9節にある「完全な者」という言葉と同じです。

5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、5:9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり・・・。

イエス様が多くの苦しみと完全な従順によって完全な者とされたように、従順でなかった私たちが、イエス様に対する信仰によってイエス様と同じように、完全な者とされたのだというのです。

私たちは自分を見ると不完全です。もう少し何とかならないものかと私も思います。自分の思いを貫こうとすることを罪と言いますが、それが自分の中に深く根を張っているのを感じるのです。それでもなお、神様はこんな者を完全な者、イエス様と同じ完全さを持ったものとして下さっていると言います。

それは、十字架の死に至るまで従順であられたイエス様の完全さによって、あたかも私たちがこれまで一度も罪を犯したことがなく、永遠に罪を犯したことのない者として、また完全な捧げ物をした者として、完全に神様に従った者としてみなしてくださるということなのです。

皆さんは、完全な者と見做してくださるということに違和感を覚えますか。見做されるというのは誤魔化しだと感じますか。本当に完全な者となっていないのなら意味がないと。これは、立場を与えられると理解したら良いと思います。罪深い者なのに、完全な神の子、イエス様と同じ立場を与えてくださるということです。神の子として点の御国にはいる権限を持つということです。

そして、イエス様は、この弱い者を聖霊によって少しずつ造り変え、イエス様の姿に似たものにしてくださる。段々、立場にふさわしい者に造り変えて行ってくださるのです。

イエス様の十字架の恵みは、至れり尽くせり、これほどまでに絶大なものなのです。そのために人類の誰も味わったことのない無限大の罪の呪いを受けてくださった。ただの死ではない。ただの肉体の苦しみや裸の恥辱ではない。無限大の呪いを受け、まさに全人類に代わって滅んでくださった。このイエス様の十字架の故に、私たちは完全な者とされたのです。

祈りましょう。

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