「ヨハネの福音書」 連続講解説教

何を求めているのか?

ヨハネの福音書1章35節から42節
岩本遠億牧師
2009年2月8日

1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。1:40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。1:41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。1:42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」

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時々この礼拝でもお伺いしますが、私たちは何故毎週礼拝に来るのでしょうか。クリスチャンは日曜日に礼拝に行くと決まっているからでしょうか。クリスチャンが日曜日に礼拝を捧げることは義務なのでしょうか。義務として礼拝が捧げられるところでは、信仰は律法となり、命と喜びのない礼拝が行われることになるでしょう。

このヨハネの福音書でイエス様が一番最初に語られた言葉は何だと思いますか。「あなたがたは、何を求めているのか。」「何を欲するのか」というのがこの福音書でのイエス様の最初の言葉なのです。

あなたは、イエス様に「何を欲するのか」と問われたら、何と答えるでしょうか。私は何と答えるでしょうか。「お金が欲しい」「社会的な地位が欲しい」「学歴」「知識」「知恵」「恋人」「家族」「健康」。中には「時間」と答える人もいるかもしれません。

私たちは、忙しい生活、またいろいろと圧迫の多い社会で生きていて、自分が本当は何を求めているのか分からなくなってしまうことがあるのではないでしょうか。私自身がそうです。大学の教員という仕事をしていて、やらなければならないことは多岐にわたります。大学の授業をするだけではありません。言語学の研究をして、それを世界に向けて発表しなければならない。入試も作る。採点もする。学位の審査もする。受験生が少なくなっているこの時代にあって、どのようにして学生を確保するか考えなければならない。新しい大学の方向性について考えていかなければならない。大学の教員の間にある問題にどのように対処するか考えなければならない。それぞれ一つ一つには、「こうしたい」ということはあります。

しかし、いろいろなことに翻弄され埋没するうちに、一体自分は本当は何を求めているのかということを見失うということがある。皆さんも同様ではないでしょうか。

そんな時、イエス様の「あなたは何を欲するのか」という問いに耳を傾けたいのです。何故なら、イエス様こそ、私たちの本当の願い、本当に欲するものを、私たちの実存の願いを引き出して下さるからです。この方には、それを与えることができるからです。

目の見えなかったバルテマイは、イエス様が道を通られると聞いたとき、「ダビデの子よ。私を憐れんで下さい」と叫び続けました。イエス様は彼に「私に何をしてほしいのか」とお尋ねになった。すると彼は答えました。「主よ。目が見えるようになることです」と。バルテマイは諦めていたのです。目の見えない者として、神に呪われ、礼拝することを禁止された者として生きていかなければならない自分の人生の中で彼は絶望し、諦めていた。しかし、神の御子イエス様が彼の中から実存の叫びを引き出された。「わたしに何をしてほしいのか。」「目が見えるようになり、イエス様について行き、礼拝者となること。神様の祝福を受ける者として生きること」、それがバルテマイの実存の叫びでした。そして、イエス様はその叫びにお答えになり、彼の目を開き、ご自分に従う者、礼拝者の一団に彼を招き入れられたのでした。

私たちは、今日のこの礼拝で、イエス様の「何を欲するのか」という声を聞きたいのです。そして、私たちの実存の叫びをイエス様に申し上げたいのです。私たちの実存の叫びは何でしょうか。イエス様は、それを引き出し、それにお答え下さる筈です。

今日ご一緒に聞いた聖書の箇所は、イエス様の最初の弟子たちは、もともとヨハネの弟子であったということが書かれているところです。ヨハネは、二人の弟子と一緒にいると、イエス様が歩いておられるのが見えた。ヨハネは、イエス様を指差し、「見よ。神の小羊」と言います。すると、二人の弟子はヨハネのところを去って、イエス様について行くのです。ここで「ついて行く」という言葉は、「弟子となる」という意味です。この二人は、まだイエス様と話をしたこともなかったけれども、自分の先生である預言者ヨハネが言った「見よ、神の小羊」という言葉によってイエス様の弟子となってしまった。

イエス様は振り返り、彼らがご自分のほうに来るのを見て、仰います。「何を欲するのか」。これに対する彼らの答えが、「先生、どこにお泊まりなのですか」という質問でありました。先生が泊っておられるところを知りたいというのが答えです。

もちろん、これは、旅行している人にする挨拶のような質問ではありません。「どこに泊まっているのですか」「〇〇ホテルに泊まっています」「今、〇〇さんのお宅に厄介になっています」。

ここで「泊まる」と訳してある言葉ですが、ギリシャ語ではメノウと言います。これは英語の聖書では、abideと訳してありますが、「留まる」「宿る」という意味です。先ほど皆さんとご一緒に読みましたが、イエス様が最後の晩餐の時になさった最後の説教で、弟子たちに「わたしに留まりなさい。わたしもあなたがたに留まります」と仰った「留まる」と同じ言葉です。

弟子たちの「先生、どこに留まっておられるのですか」という質問に対して、イエス様は「来たら分かる」と仰った。「〇〇さんの家」とは仰らなかったのです。

「来たら分かる」は、「来い。そして見よ」ですが、彼らが見たのは何だったのでしょうか。誰かの家だったのでしょうか。そうではありません。イエス様は言われました。「わたしは、父の戒めを守り、父の愛の中に留まっている」と。弟子たちは、イエス様が留まっておられた父なる神様の愛を見たのです。父なる神様その方を見たのでした。そして彼らは、イエス様と共に留まった。「その日はイエスと共にいた」というのもメノウです。

しかし、イエス様と一緒にいた一日は、これらの二人の弟子たちにとって決定的なものでありました。それは、彼らをして、この方こそキリストである。この方こそ、世の光、人の命の光であると告白させるものであったのです。この二人のうちの一人は、アンデレですが、兄弟であったシモンを見つけて彼に言いました。「私たちは、キリストにあった」と。そしてシモンをイエス様のところに連れて来ました。

イエス様と共にいる。イエス様との命の繋がりを与えられる。イエス様に留まるとは、この方をキリストと告白し、それを伝えずにおられない喜びを満たすものであるのです。

ヨハネの福音書は、「キリストに留まる」ということを最も重要なこととして教える福音書です。そして、私たちがイエス様に永遠に留まる事が出来るようにするために、イエス様ご自身が十字架にかかって殺され、天に私たちの住まいを用意して下さると言うのです。

私たちの実存の不安定、実存の欠乏はどこからやってくるのでしょうか。なぜ人間は虚しさに襲われるのでしょうか。なぜ自分の存在の意味に確信が持てないのでしょうか。それは、私たちの実存が、神様と離れてしまっているところから来るのです。

神様から離れた人間は、自分の存在の意味と価値を得るために何をするか。それは、自分に何ができるかということで自分の価値を測ろうとする。それがしばしば人との比較においてなされる。自分は、何ができるか。あの人と比べてどうか。経済力、社会的地位、能力、学歴、美貌、体型、背の高さ、健康、財産、家柄、などなど。それらによって自分の価値を確認しようとする。そして、それらを得るために人を押しのけて優越感に浸る人がいる一方、劣等感にさいなまれる人がいる。しかし、いずれにしても、そこにあるのは自分の存在の不安であり、恐れなのです。

ところが、私たちをこの虚しさ、恐れから救う方がいるのです。何ができるかできないかではない。人からどう見えるか見えないかでもない。そのような相対的な価値観という世界から、絶対的な祝福という世界に私たちを招き入れて下さる方がいるのです。

その方がおっしゃる。「わたしに留まれ」と。「わたしがいるところにあなたもいなさい。」「わたしに留まるとは、わたしの言葉に留まることだ。わたしの言葉を反芻しながら、それを口ずさみながら生きることだ。」とおっしゃる時、私たちも、「主よ、私もあなたに留まります。あなたの言葉に留まります。あなたの言葉を大切にして生きていけるようにしてください」と告白していきたいですね。

イエス様は、「来なさい。そうすれば分かるだろう。そうすれば見るだろう」とおっしゃいました。聖書の祝福の世界は、「分かったら来なさい」というものではありません。どんなに理屈で考えても分かるものではないのです。イエス様が「来なさい。そして私に留まりなさい」と仰っている。招いて下さるその言葉に応じることによって、初めて分かる、初めて見えてくる世界があるのです。

イエス様は「何を求めているのか」と仰いました。イエス様は今も私たちに「何を求めているのか」と仰っている。この方は、「求めよ。さらば与えられん」と約束なさった方です。「あなたは、何を求めているのか」という言葉をイエス様は私たちにかけておられるのです。私たちは何と答えるでしょうか。

二人の弟子はとっさに「どこに留まっておられるのですか」と答えましたが、これはまさにイエス様と一つになることを求めた質問でありました。「あなたはどこに留まっておられるのですか。」「わたしは父の中に留まっている。わたしのそばに来たら、あなたにそれが見える。それが分かるようになる。」「主よ、わたしもそこに留まらせてください。あなたの中に私の隠れ場、私の場所を得させてください。王である主よ、あなたの下であなたに仕える者としてください。あなたの子供たちに仕えることができる者としてください。」これが弟子たちの思いではなかったでしょうか。

私は、今日のメッセージを準備しながら、主の「お前は何を求めているのか」というご質問にすぐに答えが出ずに、随分苦しい思いをしました。それは、「キリストに留まる」ところに願いの本質があるとしても、自分の思いをそれに無理に合わせようとすると、苦しくなるからです。わたしのこの口で告白する願い、それは何か。それを告白できるまで、苦しかった。

しかし、祈りながら、主の「お前は何を求めているのか」というお言葉を繰り返しているうちに、私の内側から湧いてくる思いがありました。それは、「主よ、あなたを告白することです。あなたの決して見捨てない愛、限りない慈しみ、絶大な憐れみと赦し、あなたの大きさ、あなたの栄光、あなたのすべて、これを告白する者として、あなたは私を創造されました。そのために、あなたは私をここに置かれました。主よ、あなたの御側近くに私を置き、あなたをもっと深く知ることができるようにしてください。あなたをもっともっと告白することができますように。」

皆さんも、主から「あなたは何を求めているのか」というお言葉を頂いたら、すぐに答えられず苦しい思いをなさるかもしれません。あるいは、自分の思いが主の御心にかなっていないのではないかと思うこともあるかもしれません。しかし、それをそのまま申し上げて良いのではないでしょうか。主は、それを受け止めて下さいます。そして必要なものを備えて私たちを満たし、育てながら、さらに「あなたは何を求めているのか」と問いかけ続けて下さる。私たちの答えも変わってくるでしょう。それを繰り返しながら、いつか私たちは、自分の実存の叫びを主に申し上げることができるようになっていく。主は、時間をかけて私たちを育て導いて下さるのです。

「あなたは何を求めているのか。」主の御言葉に、自分の心をそのまま申し上げたら良いと思います。祈りましょう。

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