「マタイの福音書」連続講解説教

信じる者になろう

マタイの福音書16章1節から12節
岩本遠億牧師
2008年1月20日

16:1 パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをため
そうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。 16:2 しかし、
イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼け
だから晴れる。』と言うし、 16:3 朝には、『朝焼けでどんよりしてい
るから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分
け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないので
すか。 16:4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナ
のしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエス
は彼らを残して去って行かれた。

16:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。
16:6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種
には注意して気をつけなさい。」 16:7 すると、彼らは、「これは私た
ちがパンを持って来なかったからだ。」と言って、議論を始めた。 16:8
イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。
パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。 16:9 まだわ
からないのですか。覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分け
てあげて、なお幾かご集めましたか。 16:10 また、七つのパンを四千人
に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。 16:11 わたしの言ったのは、
パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからない
のですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけるこ
とです。」 16:12 彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、
パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことで
あることを悟った。

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一昨年の4月からマタイの福音書を学び始め、本日16章に入ります。
16章は、マタイの福音書を前後に分ける重要な章であると言われます。
それは、ペテロによる「あなたこそ、生ける神の子キリストです」とい
う信仰告白とイエス様による十字架の予告がこの章に記録されていると
いうこと、そして、この章を境にイエス様は十字架に向かってまっしぐ
らに進んで行かれるようになるからです。ピリポ・カイザリヤにおける
ペテロの信仰告白に先立つ今日の箇所は、イエス様を信じることと信じ
ないことの対比を示しているものとして、重要なことを教える箇所であ
ります。

イエス様は、異邦人の地であるツロ、シドンへの伝道と、イエス様につ
いて来た多くの外国人たちを癒し、男だけで4千名と言われるこれらの
人々を僅かなパンと魚で養われました。15章の31節には、イエス様
による癒しを目撃し、また体験し、それまで救いとは無関係だと言われ
ていたこれらの人々がイスラエルの神をあがめたということが書いてあ
りました。このことは、今日の16章を理解する上でも重要です。一方
では、イエス様の御業を見た外国の人々がイスラエルの神様を真の神様
としてあがめるようになり、もう一方では、神の民と言われるイスラエ
ルの指導者たちにはこの恵みが閉ざされたからです。

異邦人に対する癒しとパンの奇跡の後、イエス様はどうやら一人でイス
ラエル側のガリラヤ湖半におられました。そこにパリサイ人とサドカイ
人がやって来て、イエス様を試しました。元々、サドカイ人というのは、
職業的な宗教家階級、大祭司サドクの血を引く者たちで身分的には貴族
でありました。彼らは死人の復活を信じておらず、儀式としての礼拝を
行うことに安住した人々でした。一方、パリサイ人は、職業的な宗教家
ではなく、手工業をおこなう中流階級の人々で、律法の研究や律法の解
釈などを熱心に行い、個人個人が目覚めた生き方をしなければならない
と考えておりました。パリサイとは、「分離」意味する言葉で、端的に
言えば、サドカイ的な生き方からの分離を主張し、熱心に信仰生活を送
っていたのでした。ですから、サドカイとパリサイは、社会階級的にも、
生き方も、霊的な問題意識も水と油のような関係だったのです。

このように犬猿の仲とも言うべきパリサイ人とサドカイ人が一緒になっ
てイエス様を試しにやってきました。それは、双方がイエス様の宣教活
動に対して危機感を抱くようになったということを意味します。彼らに
とってイエス様が共通の敵となった。共通の敵を倒すために敵対するも
の同士が結託する。それはいつの世にもあることです。しかし、イエス
様の敵となったのは、パリサイ人とサドカイ人だけではありませんでし
た。外国人の支配者、エルサレムに来ていて、一度はイエス様を王とし
て迎えた多くの群集、そして弟子の一人だったユダがイエス様を殺すた
めに結託しました。さらに他の弟子たちもイエス様を否定して逃げてい
った。まさに全ての人に敵視され、捨てられたのがイエス様だった。そ
れは、イエス様がただ一人、他の全ての人と違っていたからです。他の
人が持っていない命を持っていたからです。人は自分と違うものを持っ
ている人を妬み、否定するのです。

イエス様の戦いは孤独な戦いでした。ただ一人の戦いをここで戦ってお
られる。ここで、パリサイ人とサドカイ人がイエス様を試して天からの
しるしを見せるようにと要求しています。天からのしるしとは、イエス
様がイスラエルの救い主であることの証拠です。それを見せろ。そうし
たら、お前が本当にイスラエルの救い主かどうか我々が判断するという
わけです。

ここで「試す」という言葉が用いられていますが、これは、イエス様が
伝道をお始めになる前に、悪魔がやって来てイエス様を試した時に使わ
れているのと同じ言葉です。悪魔は言いました。「もしあなたが神の子
なら、いや、あなたは神の子なのだから、この石をパンに変えて自分の
意志で自分の必要を満たせば良い。あなたは神の子なのだから、神殿の
頂上から飛び降りて空中浮遊し、自ら神の子であることを宣言して、イ
スラエルの王になったら良いではないか。なぜそうしないのか。もし、
あなたが私を伏し拝むなら、この地上の富と栄華の全てをあなたに上げ
よう」と。

悪魔は、神の子である証拠としての業を行うようにイエス様を試しまし
た。今、ここでパリサイ人とサドカイ人が同じようにイエス様を試して
いるのです。もしあなたが本当にイスラエルの救い主であるのなら、あ
なたは私たちに何をしてくれるのですか。彼らには彼らの問題意識があ
りました。神の国イスラエルが今ローマ帝国に支配されている。もしあ
なたがイスラエルの救い主なのなら、この状況をどうするのか。なぜイ
スラエルが偶像礼拝をする者たちに支配されなければならないのか。そ
れに対する解決を与えよ。天からのしるしを見せよ。全ての人が納得す
る業を見せよと。

しかし、イエス様に対するこのような試みは、パリサイ人やサドカイ人
だけがしているのではありません。現在においても同じような試みにイ
エス様は曝されているのです。「もし神がいるのなら、なぜ天災や戦争が
なくならないのですか。もし神がいるのなら、なぜ社会悪がなくならな
いのですか。どうして不公平がなくならないのですか。もし神が愛なの
なら、どうしていつまでも苦しみ苦労する人がなくならないのですか。」
「神が存在する証拠を見せろ。神が愛である証拠を見せろ」と人々はイ
エス様に対して叫び続け、イエス様を試し続けているのです。「もし神が
愛なのなら、どうして私は不幸なのですか。なぜほかの人は幸せで私は
不幸せなのですか。なぜ神は私をこういうふうにしたのですか。なぜ神
は私の願いを聞いてくれないのですか」というのも同じ神様に対する試
みの言葉です。

それに対してイエス様は答えられました。「お前たちは、空の様子を見て
晴れか雨かを判断することができるのに、なぜ時のしるしを見分けるこ
とができないのか。邪悪な姦淫の時代はしるしを求める。しかし、預言
者ヨナのしるしのほかにしるしは与えられない」と。

「時代のしるし」とは、イエス様がやって来られて始まった特別の時の
しるしです。「目の見えない者が見えるようになり、足の不自由な者が歩
けるようになり、重い皮膚病にかかって世に捨てられていた人々が癒さ
れ、人間の尊厳を回復している。一度死んだ人が生き返っている。貧し
い人たちが福音を聞いている。」そのようなしるしが、その時代に与えら
れていたのです。しかし、彼らはそれを認めようとしませんでした。神
様に反逆する時代は、与えられているしるしを見ても、それを認めよう
としない。神様が与えておられる恵みを見ても、それを神様の恵みとし
て受け取ろうとしないのです。

イエス様は言っておられるのです。なぜ、そのようなしるしを見ても分
からないのか。これが分からなければ、どんなしるしも分からない。君
たちが納得するようなしるしは与えられないと。つまり、お前たちには
しるしは隠されているというのです。与えられるのは預言者ヨナのしる
しだけだと。

預言者ヨナのしるしというのは、イエス様が十字架にかけられて死んで、
3日目に蘇るというしるしです。確かに、イエス様が十字架に殺される
というしるしは、全ての人の前に明らかにされたものでした。しかし、
復活のしるしは、これらのパリサイ人やサドカイ人には隠されていたの
です。イエス様は、弟子たちには復活の御姿を現しなりましたが、パリ
サイ人やサドカイ人には御姿をお現しになられませんでした。ここに、
信じる者に示され現される圧倒的な恵みとしるしが、神様を信ぜず、試
し続ける者たちには隠されているという厳粛な事実があるのです。

どうでしょうか。これは今も同じではないでしょうか。イエス様が十字
架に掛けられ、殺されたということは、すべての人が受け入れるでしょ
う。しかし、三日目に蘇ったということをしるしとして受け入れる人は
どれだけいるでしょうか。信じる者には開かれているけれども、信じな
い者には隠されたままの天の奥義がある。圧倒的な恵みが信じる者たち
には注がれ、信じない者たちには分からないままになっているという現
実があるのです。

イエス様はこのように宣言なさって彼らを去って行かれました。

その後、ガリラヤ湖を渡ってイエス様と合流しました。彼らはパンを用
意するのを忘れていました。食事の用意を忘れていたのです。そんな時、
イエス様は言われました。「パリサイ人のパン種とサドカイ人のパン種に
気をつけよ」と。イエス様は、パリサイ人、サドカイ人との戦いで心を
痛めておられたのでしょう。短い言葉で弟子たちにお語りでした。しか
し、弟子たちは意味が分かりませんから、議論するのです。「おい。先生
がパンが欲しいとおっしゃっている。パンはどうした。」「ああ、しまっ
た。パンを買うのを忘れた。」「お前がパンを買うのを忘れたから、先生
があんなわけの分からないこと言っているんだぞ。」「忘れたのは、お前
だろう。」というような感じですね。

それを知ってイエス様は言われるのです。「パンがないことなど、どうで
も良いことだ。そんなことを言っているのではない。わたしは君たちを
責めているのではない。思い出してごらん。5千人にパンを分けたとき、
何籠パンくずを拾い集めたか。4千人にパンを分けたとき、何籠拾い集
めたか。信じて、信仰をもって神様を見上げた時、溢れるほど、有り余
るほど注がれた神様の恵み、天からのしるし、それをお前たちは見なか
ったのか。パリサイ人のパン種、サドカイ人のパン種に気をつけよ。彼
らの思いが少しでもパン生地に入り込んだら、それで生地全体が膨らん

でしまう。つまり、彼らの信じない心、神様を試そうとする心、もし神
様が愛なのなら、という心、それが信仰を失わせるパン種なのだ」と。

少し、回りくどくなりましたが、ここでイエス様が教えておられること
の中心は、「天からのしるしとは何か」ということではありません。信じ
るものには与えられるが、信じないものには閉ざされる圧倒的な神様の
恵みがあるということなのです。イエス様は、この圧倒的な恵みを私た
ち一人一人に注ぎたいと願っておられるのです。だから、疑いや懐疑主
義というパン種に気をつけよ。それがあなたの心の中に入らないように
細心の注意を払えとおっしゃっているのです。

例えば、こういうことです。私たちは生きていて、事故にあったり、病
気になったりします。人から苛められることもある。しかし、そのよう
な中にあっても、夜寝る前、あるいは夕食のとき、「天のお父様。今日一
日守ってくださり、ありがとうございました。辛い時もあなたが共にい
てくださいました」と告白し、祈る信仰を大切にせよというのです。そ
んな時に、「あなたが愛なのだったら、なんで私はこんな目に遭うんです
か」というような思いが入ってこないように細心の注意を払えというこ
とです。箴言に次のような言葉があります。「4:23力の限り、見張って、
あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」勿論、「神様。苦し
いです。助けてください」という祈りは正しい祈りです。神様の愛に信
頼して、祈り続け、叫び続けることをイエス様は求めておられます。

使徒パウロはエペソ人への手紙の中で次のように祈っています。

「1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、
神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいます
ように。 1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになっ
て、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け
継ぐものがどのように栄光に富んだものか、 1:19 また、神の全能の力
の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大
なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」

「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が
どのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますよ
うに」と言っています。

何度もお話していますが、信じる者に働く神のすぐれた力ということで
皆さんに分かち合いたいことがあります。パプア・ニューギニアに伝道
に行ったときのことですが、ジャングル地帯にあるアランブラックの
人々の中で、多くの癒しの働きをさせていただいた後で、聖書翻訳宣教
師たちの町であるウカルンパというところに行きました。そこで行われ
ていた日曜日の礼拝の中で自由な証の時間があったので、主がどのよう
に私を救い、どのようにニューギニアに導き、どのように働いてくださ
ったかということを話しました。

するとその日の午後、一人のニューギニアの若い女性が訪ねてきました。
数ヶ月前からずっと具合が悪い。最初はマラリアだろうと言われて薬を
飲んでいたが全然治らない。次にチフスだろうと言われて治療を受けた
が、悪化するだけだ。もう仕事にも随分長い間行くことができない。も
う治らないかもしれないと。

私は、彼女の言葉を聞いていましたが、はっきりとこのように尋ねまし
た。「あなたはクリスチャンですね。」「はい、そうです。」
「では、あなたは、イエス様が何時か何処かで誰かを救ってくださると
いうことは信じているでしょう。」「はい。信じています。」
「しかし、あなたは、イエス様が今日、ここで、あなたを救ってくださ
ることを信じますか。」

彼女は、少し考えてから答えました。「はい。信じます。」私は、イエス
様の御名を呼び、彼女に手を置いて祈りました。私は、彼女の癒しを確信
し、言いました。「さあ、帰りなさい。あなたはすっかり癒され、明日
から仕事に復帰することができるのです。」翌日の朝、御世話になって
いたエドミストンさんの奥さんが彼女に電話をしましたが、彼女はもう
家にはいませんでした。すっかり元気になって、仕事に出ていたのです。

彼女にとってはチャレンジだったかもしれません。勿論、私にとっても
そうです。しかし、「何時か、何処かで、誰かを」ではなく、「今日、こ
こで、私を」と告白する信仰に答えてくださる主がいるのです。

「私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものである
か」私たち一人一人が知ることができますように。イエス様は、決して
私たちを、あなたをお見捨てになることはありません。困難の中にあっ
ても、苦しさの中にあっても、痛みの中にあっても信じようではありま
せんか。告白しようではありませんか。感謝し、賛美しようではありま
せんか。「イエス様、あなたは、私の神です」と。「イエス様、あなたは
私の救い主です」と。いや、告白させてくださる方がいる。感謝し、賛
美させてくださる方がいるのです。疑いの思いをも取り去り、消し去っ
てくださり、そのために私たちを助けてくださる方がいるのです。私た
ち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか、そ
れを現したいと願っておられる主がいるのです。

祈りましょう。

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