「マタイの福音書」連続講解説教

共に目をさましていなさい

マタイの福音書26章36節から46節
岩本遠億牧師
2008年10月26日

26:36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」 26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。 26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」 26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」 26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。 26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」 26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」 26:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。 26:44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。 26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。 26:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

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最後の晩餐、過越しの食事を終え、イエス様は弟子たちと一緒にオリーブ山に行き、その一廓にあるゲツセマネという園に祈りに行かれました。このゲツセマネの祈りこそ、イエス様の生涯における最大の戦いの時でありました。それは、イエス様にとって最大の誘惑の時であったからです。

初代教会時代、ギリシャ文化圏への伝道では、ゲツセマネのこのイエス様の苦しみを伝えると馬鹿にされたという記録があるそうです。イエスとは大した人間ではないと。何故なら、ギリシャにはソクラテスという偉大な哲学者がいますが、彼は哲学を説き、権力者たちの無知を明らかにして行ったために死刑に処せられますが、死を恐れず、むしろ死は恐れるに足らず、眠るようなものだと弟子たちに悲しまないようにと教えるのです。それは、プラトンが書いた『ソクラテスの弁明』という本に書かれていますが、当時のギリシャ世界ではよく知られていたことでした。

ソクラテスは死を超える哲学的弁明を行い、死を恐れずに毒杯を仰いだ。しかし、イエスは死を前に恐れおののいている。ソクラテスの哲学を捨ててイエスを信じることなど価値のないことだとギリシャの人々は考えたのです。ですから、ギリシャ世界にイエス様を伝えた人々の中には、このゲツセマネにおけるイエス様の苦しみを語ることを躊躇した人もいたということです。

皆さん、どのように思われるでしょうか。ソクラテスはイエス様よりも偉大だったのでしょうか。あるいは、潔い死を尊ぶ風潮が長く続いた日本においても、同様の反応があります。また、長崎には豊臣秀吉の迫害によって殉教した26人の聖人の記念館がありますが、どの人も、永遠の命の希望を告白しながら最後の時を迎えています。

イエス様のこの苦しみは一体何だったのか。それは、私自身にとっても長く謎でありました。それには、大きく二つの理由があるように思います。

まず、イエス様だけが死とは何かを本当にご存じだったのです。ソクラテスのように哲学的弁明による死の理解、生きている人間が死について考えた死というものではない、罪による死の現実的な呪いをイエス様だけが知っていた。イエス様にとって十字架の死とは、罪人の死であり、全人類の罪を背負う死でありました。それは、父なる神様との関係の完全な喪失、神の子としての実存を失うことだったのです。

イエス様は、伝道生涯のはじめに、洗礼者ヨハネからヨルダン川でバプテスマを受けられたとき、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という御声を父なる神様からお受けになった。溢れるような父なる神様の臨在に満たされ、まさに父なる神様と一体としての実存を持っておられたのがイエス様だったのです。

十字架の死を受け入れるとは、イエス様にとって、この神の子としての実存が引き裂かれ、それを失い、文字通り地獄の底に落ちることであったのです。死んだら天国に行くのでも、永遠の眠りに就くのでもない。まさに神様の関係の完全なる断絶と喪失を意味していたのです。罪のないイエス様が、大罪人イエスとして、人類史上最大の極悪人として裁かれ、地獄の苦しみを受けるのです。

イエス様は、このことを誰よりも、いいえ、ただ一人だけ知っておられました。だから私たちが「なぜ?」と思うほど苦しまれたのです。

二つ目の理由は、イエス様自身の中にある選択という苦しみでありました。イエス様は、この十字架という苦しみの杯を受けずにすむ方法はないかとお考えになりました。12軍団以上の天使の大軍を呼び寄せ、悪によってこの世を支配する者たちを打ち滅ぼすことだって、願えばできたのです。それは、イエス様にとって最大の誘惑でした。

イエス様は、弟子たちに、「誘惑に陥いらないように、目を覚まして祈っていなさい」と言われましたが、この誘惑をイエス様ご自身が誰よりも強く感じておられたのです。イエス様のゲツセマネでの祈りの格闘、それは、まさにこの誘惑との戦いでした。また、この誘惑があったから苦しかったのです。父なる神様の御心に従い、十字架の死を受け入れるか、天使の大軍を引き連れて、この世の悪を打ち滅ぼすか。

イエス様は祈られました。「我が父よ、できますなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いようにではなく、あなたの御心のままをなさってください。」二つの反する思いの中で引き裂かれ、徹底的に(3度)何時間も祈られました。

しかし、ペテロたちは眠ってしまっています。イエス様は言われました。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。 26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

こんなに苦しみ祈るイエス様のすぐそばにいながら、何故目を覚ましていることができなかったのか。それは、罪が彼らの心を覆ったからです。彼らの心がイエス様の苦しみを見ること、神の子の苦しみを見ることを拒んだからです。

イエス様は言われました。「26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」しかし、この言葉は、弟子たちに向けてではありましたが、イエス様ご自身に向かって発せられた言葉でありました。何故なら、誘惑と戦い、誘惑に陥らないように目を覚まして祈っておられたのは、イエス様ご自身だったからです。

注解書によると、「心は燃えていても、肉体は弱いのです」という訳は、必ずしも正確ではないということです。「心」と訳されているのは、プニューマ「霊」です。これはとりもなおさず、神様の霊です。また、「肉体」とはサルクスですが、これは私たちの心を含めた「肉」を意味します。つまり、「神の霊はことを進めようとしておられるが、人間の肉は弱いのだ」という意味です。これも、眠ってしまっている弟子たちのことだけではなく、イエス様ご自身のことを語っておられる。

つまり、イエス様は100%の神であり、100%の人間であったのです。それぞれ100%の性質をお持ちであったため、ゲツセマネでは実存が引き裂かれるような苦しみを経験なさったのです。そして、ついに全人類の罪の贖いとなる神の小羊としての道を選び取られるのです。父なる神様の御心に従い、その最愛の父との完全な断絶の道、悲しみの道、絶望の道を選び取られました。それは、私たちを滅ぼさないためです。私たちを愛して下さったからです。

しかし、このイエス様がペテロたちに言われた印象深い言葉があります。それは、「わたしといっしょに目を覚ましていなさい」という言葉です。イエス様は、「この苦しみの祈りを目を覚まして見ていてくれ。一緒に祈っていてくれ」と仰ったのです。

これからもうすぐ、ペテロがイエス様を否定することをイエス様はご存知でした。しかし、それでもなお、「わたしと一緒に目を覚ましていなさい。一緒に祈っていてくれ」と仰った。自分と最後まで運命を共にする者として、ペテロを見ておられるからです。この関係は、永遠の関係だからです。たとい一時的に切れたように見え、ペテロは絶望するかもしれないけれど、しかし、イエス様とペテロとの関係は永遠の関係だったのです。こんな危機的状況の中で眠ってしまうようなペテロたち、しかし、イエス様は、なお彼らを求め続け、彼らに「わたしと一緒にいなさい。わたしと一緒に目を覚ましていなさい。一緒に祈りなさい」と仰っている。

これは、取りも直さず、イエス様が実存をかけた祈りをしていらっしゃる時に眠ってしまい、そしてイエス様を否定してしまうような者に向かって、「わたしは、あなたと共にいるぞ。永遠に共にいるぞ」と仰っているということなのであります。

十字架という神の子の実存が引き裂かれ、失われる絶望の中にあって、なお切れないものがあった、それは、イエス様とペテロをはじめとする弟子たちとの関係だったのです。これを愛というのです。

イエス様の愛は、絶望し殺されても絶対に切れることのない、永遠の関係だったのです。この方の愛が私たちを握って下さっている。私たちも人生の道のりでイエス様に躓くことがある。イエス様を知っていたのに絶望することもあるかもしれません。しかし、そんな者たちを、イエス様はなお求め続け、「わたしと一緒にいなさい。わたしと一緒に目を覚ましていなさい。誘惑に陥らないように、一緒に祈りなさい」と仰って下さる。この方の愛が、十字架の絶望と死を潜り抜けて永遠に私たちを握り、私たちを生かすのです。眠ってしまい、誘惑に陥ってしまった私たちを救ったのです。

祈りましょう。

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