「マタイの福音書」連続講解説教

剣を捨てさせるもの

マタイの福音書26章47節から56節
岩本遠億牧師
2008年11月2日

26:47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。 26:48 イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。 26:49 それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけした。 26:50 イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。 26:51 すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。 26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。 26:53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。 26:54 だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」 26:55 そのとき、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。 26:56 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。

+++

いよいよイエス様は、十字架の死を受け入れ、全人類の罪の贖いとなる決心を固められ、立ち上がりました。そして、ご自分を裏切るユダのほうに自ら歩いて行かれるのです。もうイエス様は悲しんでおられません。ぶれておられません。ご自分に与えられた権威と力によって天使の大軍を呼び寄せ、この世の悪を打ち滅ぼすという誘惑を退けられたからです。

ユダは、祭司長や長老たちから差し向けられた多くの群衆と共にやってきて、「口づけ」をもって合図とし、イエス様を捕えるようにとの取り決めをしていました。「口づけ」とは、師と弟子との関係においては、深い尊敬を表すためのものです。ユダは、それを裏切りの合図として用いました。そこに何の躊躇もありません。すっかり心を悪魔に売ってしまっていたのです。

しかし、イエス様と11人を入れてわずか12人の者たちを捕えるのに剣や棒をもった群衆がやってきたとはどういうことでしょうか。彼らは、イエス様の力を恐れたのです。ユダは、12弟子の一人としてイエス様の奇跡を目の当たりにし、その偉大な力を知っていました。剣や棒をもった大勢の群衆でなければ捕える事が出来ないとユダ自身も祭司長、長老も群衆も思ったのです。剣は、恐れの表れでした。

しかし、その場で恐れを持っていたのは彼らだけではありませんでした。弟子たちも剣を一本持っていました。そして、イエス様が捕らえられたとき、ヨハネの福音書によるとペテロがその剣を抜いて、大祭司の僕に切りかかり、その方耳を切り落としました。しかし、これは、考えてみるならば、愚かなと言うよりも、奇妙な出来事です。もし剣の使い方に慣れていて、力をこめて切りかかったのなら、耳だけを切り落とすということはあり得ません。まさに、剣の使い方も知らない男が、へっぴり腰で、恐れに満ちて剣を振り下ろしたのです。やはり、そこにあったのは恐れだったのです。

しかし、ペテロがこのような行動に出たのは、イエス様に対する精一杯の思いではなかったでしょうか。彼は怖かった。しかし、イエス様と一緒に戦いたかったのです。それで死んでも良いと本当に思っていました。

ところが、イエス様はペテロに言われました。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。 26:53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。 26:54 だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」

戦わないイエス様。弟子たちにはイエス様が理解できませんでした。戦おうと思えば戦えるのです。天から天使の大軍を呼び寄せ、敵を一網打尽にすることなど、わけもないのです。イエス様が王位につき、イスラエル国家を復興すること、弟子たちもそのことを期待し、そのために死ねるのなら、本望だと思っていたはずです。

しかし、イエス様の戦いは、剣を捨てる戦いだったのです。剣を取らざるを得ない人間の恐れと弱さに勝利するための戦いでありました。弟子たちの目にはイエス様はあまりにも弱々しかった。何の抵抗もせずに捕まってしまったのです。しかし、イエス様の勝利はここに始まったのでした。

それは剣をもって人を支配しようとする暗闇の力に対する勝利です。これは、自ら剣を捨てることによってしか勝ち得ることのできない勝利なのです。イエス様はそれを十字架の上で成し遂げるために、恐れの象徴である剣を捨てることをペテロにお命じになりました。

しかし、これは弟子たちにとっては青天の霹靂のようなことで、むしろ彼らはさらに大きな恐れに包まれて、逃げてしまうのです。

イエス様はただ一人捕えられました。ある意味、弟子たちはどうでも良いと思われていたのです。捕える価値もないと思われていた。それが弟子たちの現状であったのです。

私たちはこれまでも、これから先の人生においても個人として剣を持つということはないだろうと思います。しかし、イエス様が「剣を捨てよ」とおっしゃる時、それは私たちに無関係なのだろうか。これは、人を傷つけない道を選ぶということです。人は自分を傷つけるかもしれない。しかし、自分は人を傷つけない道を選ぶ。イエス様は言われました。「あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈れ」と。このイエス様の言葉は、十字架に釘づけられる時、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです」とその存在を賭けた祈りによってまさに実現したのです。

私たちは、この恐れを超えるもの、恐れに対する勝利をなさったイエス様の愛を必要としているのではないでしょうか。私たちは、「私には敵を愛することはできません。自分を迫害する者のために祈ることはできません。私は敵を憎み、迫害する者に仕返しをするけれども、イエス様の十字架によって赦されているからそれで良いのです」と言うわけにはいかないのです。

イエス様が「剣を捨てよ。人を傷つける道を捨てよ。恐れに勝利する命に生きよ」とおっしゃる時、私たちは、イエス様のお言葉に従う者とならねばなりません。しかし、それは自分の力ではできないでしょう。何がそれを可能とするのか。イエス様は言われました。

「わたしは、蘇ってからあなたがたより先にガリラヤにいく。」また復活したイエス様は弟子たちに言われました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。

蘇ったイエス様が私たちを待って下さっている。そして、この方が世の終わりまで私たちと共にいて下さる。この方は、決して私たちを見捨てることはない、見放すことはない。そのことを実存の根底で本当に知ることができる時、私たちは恐れを超えることができるのです。

私は、大学と言うところで普段は仕事をしています。どこの社会でも同じですが、職場にはいろいろな問題が生じます。特に大学というところは、自分の知的な能力に自信がある人間が集まっているところですから、そこには高慢の罪が渦巻き、対立が生じるとそれを解決するのはなかなか容易ではありません。

私も自分で望んだことでも、自分で引き起こしたわけでもありませんが、ある問題に巻き込まれています。そんな中で人を傷つけずにこの問題を解決することができないか、本当に考えなければなりません。私は感情が激しく、またこの口には人を傷つける剣があります。ペテロのようなへっぴり腰の剣ではなく、私の言葉は、狙った急所を外さない邪悪な剣です。家内は、それを知っていますから、先日もわたしに涙ながらに訴えました。「人を傷つけずに解決する方法を見つけてほしい」と。私も一時的に感情が激しましたが、本当にそうだと思いました。

「剣を捨てよ。人を傷つける道を捨てよ。恐れを超える命を得よ。あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈れ」と言われたイエス様のお言葉を今日みなさんとご一緒に聞き、自分は剣を捨て、このことに対する主の解決を頂かなければならないと心から願っています。

「あなたと一緒に死ぬ覚悟はできています」と言ったペテロの言葉は、もろくも崩れ去りました。しかし、彼は生かされました。何が彼らを生かしたのか。それは決して変わることのない、主の言葉です。「わたしは蘇ってから、あなたがたよりも先にガリラヤに行く。そこでお前たちを待っている。わたしは世の終わりまでお前といつも共にいる。」

剣を捨てた者たちを待っている主がいるのです。十字架を超える命、地獄の底を潜り抜けて私たちを生かす命。私たちを待って下さっている主がいる。恐れる者を握って離さない主がいる。倒れた者を引き起こす主がいるのです。

私たちの剣ではない、私のこの言葉ではない。自分の知恵でも、策略でも、自分の思いが解決するのでもない。ただこの方が、この方の愛と命が、私たちに自分の剣を捨てさせ、私たちを守り導き、真の平和を実現するのです。

祈りましょう。

関連記事