「ルカの福音書」 連続講解説教

友となってくださる神

ルカの福音書講解(89)第19章1節~10節
岩本遠億牧師
2013年8月4日

19:1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。 19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」 19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。 19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

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先週私たちは、エリコに続く道に座っていた目の見えないバルテマイが大声でイエス様に向かって叫び声を上げ、神の子としての実存を回復していただいたというところを学びました。聖書の中にはこのほかにも執拗にイエス様に向かって叫び、癒され、救われた人々のことが記録されています。また、イエス様もそれらの人々に、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われ、その実存の叫びを喜ばれました。

しかし、叫び声を上げることもできない人々がいるということも私たちは忘れてはなりません。なぜなら、イエス様はこのような人を探し出して救うために来られたからです。今日の箇所の最後に「人の子は、失われた人を捜して救うために来た」とイエス様はおっしゃっています。何故捜すのでしょうか。失われた人は自分から声を上げることができないからです。それほど絶望してしまっているのです。しかし、人には聞こえない心の奥の嘆き、苦しみを聞いてくださっているお方が、私たちを見つけるまで捜してくださる。見つけ出して救ってくださるのであります。

この時、イエス様はエリコという町にお入りになりましたが、その時の状況はどのようなものだったでしょうか。先ほども申しましたが、目の見えなかったバルテマイが、イエス様に向かって大声で叫び続け、目を癒されました。イエス様と共に歩いていた大勢の人々は、大声で神を賛美し、大歓声を上げていたに違いありません。イスラエルに救い主がやって来られた。イスラエルに真の王がやって来られた。イスラエル王国の復興を願う人々は熱狂し、「イエスはダビデの子。イスラエルの王」と叫び続けていたに違いありません。

そんな中、イエス様は、この熱狂の渦に入ることができない一人の人を見ておられました。それはこの当時イスラエルを支配していたローマ帝国の手先となって、同朋のイスラエル人からローマのために税金を取り立てる、徴税請負人の長であったザアカイです。

ローマ帝国は、被支配国に重税を課していました。それには直接税と間接税がありました。直接税は、生産の20〜25%に達するもので、現物で納められていました。一方、間接税は関税や通行税で、橋や川の渡し場、大通りの街角、町の入り口、市場などで、そこを通る人々、商売をする人々から、税金を取り立てていました。

徴税請負人は一定の金額を納める契約をローマと結びますが、納税者にその不足分を補充させる自由を持っていました。また、これらの徴税請負人たちは集団を作って行動していましたし、その背後にはローマ軍がいますから、あらゆる不正を行なうことが可能であったのです。イスラエルの人々はローマによる重税に苦しみ、ローマに対する大反乱はこれが原因であったと言われています。

徴税請負人たちは、敵国の力を傘に、同朋のイスラエルから絞り取り、豪奢に暮らしていました。ですからイスラエルの人々から憎まれ、売国奴、罪人と呼ばれ、イスラエル人でありながら、神の国、神の祝福とは関係のない、悪魔に心を売った者として、憎悪の対象となっていたのです。

ザアカイは、この徴税請負人たちの頭であったといいます。聖書はことさら「背が低かった」と書いています。恐らく何らかの病気で背が大きくならなかったのだと思います。それだけでも、人から差別されたり、見下げられたりするのに、彼が徴税請負人の集団の頭であったということは、身体的なハンディーを跳ね返すだけの、性格の強さ、押しの強さがあり、取り立ては誰よりも厳しかったのだと思います。

しかし、彼が誰にも憎まれる徴税請負人になったのは、この身体的なハンディのために小さいときから虐められ、仲間はずれにされていたからかもしれません。自分を虐めた者たちを見返し、苦しめるために、徴税請負人になったのではないでしょうか。

しかし、徴税請負人になって以前自分を虐め苦しめた者たちを見返し、彼らを苦しめても、自分の受けた深い傷が癒されるわけではありません。彼は深い痛みと憎しみにその存在が真っ二つに引き裂かれていたのです。

そんなザアカイのところにもナザレのイエスの噂は届いていた筈です。彼はどのような思いでイエス様の噂を聞いていたのでしょうか。彼は困ったに違いないと、私は思います。もし、イエス様がイスラエルの王になったら、ローマの手先となっていたザアカイは職を失うどころか、エリコの人々からは袋叩き似合い、殺されてしまうでしょう。

ザアカイにとって、イエス様がイスラエルの王になることは困ることだったのです。今、エリコの町は、イエス様を迎える大歓声で溢れ返っています。彼は不安で仕方がなかったに違いありません。ナザレのイエスこそイスラエルの王となるべきお方だと叫んでいる人たちからは、「今に見ておれ。目にもの見せてくれる。イエスがイスラエルの王となったらお前は終わりだ」と言われたかもしれません。

それで、イエスとはどのような人間なのか、一目見てみよう。不安と恐れの中で、彼はイエス様を遠巻きに見ようと思いました。

しかし、遠くからはイエス様は見えません。彼は、とても背が低かったからです。それで彼は走ってイエス様が通るところに植わっているイチジクグワの木に登りました。このイチジクグワは葉の大きな木です。葉の陰からこっそり見ようと思ったのでした。

イエス様に向かって、助けてください、救ってくださいなどと、声を上げることなどできないのです。それどころか、ナザレのイエスが王となるなど、とんでもないと思っているのです。

しかし、イエス様はザアカイのその恐れ、そして痛みを知っておられました。ザアカイが登っていた木の下に来るとイエス様は言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」

食事を共にする、その家に泊まるとは、最も親しい関係を表します。イスラエルの王となるお方が、この私の最も親しい友人となって下さる。

どうでしょうか、皆さん。ザアカイはイエス様がイスラエルの王となることを恐れていたのです。しかし、この方が、ザアカイの最も親しい友となって下さったら、イエス様をイスラエルの王として戴く者たちは、誰も彼のことを攻撃したり、殺したりできなくなるのです。ザアカイは、どんなにホッとしたことでしょう。

ザアカイは、偶像崇拝をするローマ人と付き合いのあった人です。宗教的に言えば、汚れた人々と日常的に交わっているザアカイも日常的に汚れているのです。宗教的清さということを重んじるイスラエル人の誰も、ザアカイのそばに寄りたいとは思いませんでした。しかし、イエス様は言われました。「ザアカイ、急いで降りてきなさい」と。この汚れた自分をそのまま受け入れてくださる方がいる。そして、何と「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言ってくださる。

ザアカイはイエス様に見つかることも恐れていました。見つかったら何と言われるだろうか。「ザアカイ、罪を悔いよ。清められた正しい生き方をせよ。ローマの手先となるのではなく、神の僕として生きよ。さもなければ、滅びるぞ。」

しかし、イエス様は、そんなことはおっしゃらないのです。「ザアカイ、わたしはあなたの客になるぞ」とおっしゃられる。これは、ザアカイにとって天地がひっくり返るようなことであったに違いありません。

自分の家に来るのは、徴税請負人の仲間や手下だけでしかなかった。そこに、イスラエルの王となられるお方、イスラエルの救い主が客としてやってきてくださる。こんな私を最も親しい友と呼んでくださる。これまで恐れと憎しみの中で生きてきた。しかし、もう恐れることも、憎む必要もない。この方が私の客となって下さった。イエス様は、ザアカイにも語ってくださったのではないでしょうか。「幸いなるかな!心の貧しい者。神の国はあなたのものだ」と。ザアカイの中にあった深い傷と痛みが癒され、どうしても赦せなかった憎しみが消えていきました。

すると、ザアカイは、これまで自分を馬鹿にし、売国奴と呼んで軽蔑していた人たちを助けたいと思うようになりました。また、彼らに謝罪したい、償いたいと思うようになりました。彼は言います。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」

ザアカイとエリコの人々との間に、平和がやってきました。憎しみあっていた人たちの間に平和がもたらされた。これまで壊れていた関係が回復したのです。

イエス様は、ザアカイに「こうしろ。ああしろ。」とはおっしゃいませんでした。ただ、ザアカイの最も親しい友となって下さった。ザアカイの客となって下さった。しかし、これがザアカイの全てを変えたのです。

イエス様はザアカイを探し出し、救い出すためにやって来られました。このように言われます。「人の子は、失われた者を探し出し、救うためにやって来たのです。」

私たちも同様ではないでしょうか。小さいときから今まで、様々な痛みと苦しみを受けてきたということがあるかもしれません。それによって人を信じられない、人を赦せないという思いに満たされているかもしれません。しかし、それと同時に、自分も人を傷つけてしまう。あるいは、自分を守るため、自分が良ければ良いという生き方をして来たかもしれません。そのような時、私たちは神様の前に出るのを恐れるのです。神様の前に自分の心を閉じてしまう。神様が自分を否定するのではないか、自分の敵になるのではないかと恐れるのです。

しかし、そんな私たちをイエス様は、大きく包んでくださる。罪を悔いよ、正しい生き方をせよ、悔い改めなければ滅びるぞ、などとはおっしゃらないのです。ただ、私たちの最も親しい友となってくださる。私たちの客となって下さる。こんな自分勝手な、汚れた心の私たち。孤独で、誰も本当の自分は分かってくれないと諦め、心を閉じていた私たち、その私たちの最も親しい友となってくださったのがイエス様です。それだけです。しかし、これが私たちの全てを変えたのです。

助けてくださいとも、救ってくださいとも、癒してくださいとも言えない、そういう状況にある者たちを探し出してくださり、声をかけてくださる方がいます。イエス様はあなたを招いてくださっています。「さあ、急いで降りて来なさい。今日はあなたの家に泊まることにしているから。あなたの客になるから」と。

祈りましょう。

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