「マタイの福音書」連続講解説教

収穫の主に願いなさい

マタイによる福音書9章35節~38節
岩本遠億牧師
2007年6月17日

9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。 9:37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 9:38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

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イエス様のガリラヤでの初期の働きは、35節の「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」という言葉に集約されていますが、この言葉がマタイの福音書で現れるのは、これが2回目です。4章23節にも「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」と書かれています。5章から9章に至る記事で、マタイは、ガリラヤ地方におけるイエス様の祝福の言葉を基調とする福音と、癒しの働きを取り上げ、その最初と最後に同じ言葉を繰り返すことによって、イエス様のこの働きの意味を明確にしているのです。

「町や村を残らず回って」と言っています。全ての人に語られた。全ての人の病気や患いを癒されたと言うことです。全ての人に出会い、全ての人を教え、導き、全ての人を癒す。そのためにイエス様は来られたのだと言っているのです。イエス様のこの地上での働きは、肉体を持っておられたために、限界がありました。しかし、歩ける範囲は歩きつくして、教え、癒された。ここにイエス様の御思いが表されているのです。今、聖霊としてお働きになっておられるイエス様は、全ての人に語り、全ての人を癒そうとしておられる。そのように聖書は言っているのです。

そして、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。ガリラヤを隈なく歩かれたイエス様がご覧になったのは、「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」姿だったのだというのです。

皆さん、羊にどのようなイメージを持っておられるでしょうか。私は、イスラエルで羊飼いの見習いをしていたことがある人から直接話しを聞いたことがありますが、羊は、とても弱く愚かな動物で、自分で草を見つけることができない、自分で水を見るけることもできないくせに、すぐに自分勝手な方向に歩いていってしまうそうです。人間に世話をしてもらわなければすぐに死んでしまう動物、それが羊です。

また、あんなに沢山の毛に包まれているくせに、雨にぬれて気温が下がったら、それで死んでしまうほど弱いのです。これはオーストラリアにいた時に、天気予報で羊のための警告があったので、印象に残っています。

イエス様は、ガリラヤで福音を語られ、癒された人々を飼い主のいない羊のようだと言われました。自分で命を見つけることもできず、自分で自分の必要を満たすことができない者たち。自分勝手な道に彷徨い出てしまい、失われ、倒れ、野の獣の餌食になってしまっている。本来なら、羊飼いに世話をしてもらうべき者なのに、羊飼いがいなくなっていると仰っているのです。その有様を、深く憐れまれたと書いてあります。

「深く憐れむ」というのは、ギリシャ語では、内臓を表す言葉から作られた動詞です。はらわたがちぎれるほど、痛まれたということです。自分の子供が苛められたり、重病にかかったりすると、親は自分の身が切られるような苦しみを経験します。イエス様は、私たちが飼う者のいない羊のように弱っている姿をみて、はらわたがちぎれるほどの痛みを感じると言っておられるのです。イエス様は、私たちをご自分の体の一部分として愛して下さっているからです。

旧約聖書にエゼキエル書という預言者の書があります。その中に、羊の世話をするべき者が、羊から搾取し、羊が弱り果てていることを糾弾する神様の言葉があります。羊の世話をすべき者とは宗教家たちのことです。その宗教家たちが、自分が満たされることを求め、羊を食い物にする。だから、神様は、それらの宗教家たちを裁き、羊の世話をご自分でなさると言われる。

34:11 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。34:12 牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。

祭司たちやパリサイ主義者たちのように、自分の宗教的な思いが満たされるなら、目の前に倒れている人がいようが、苦しんでいる人がいようが構わないと思うような者、あるいは、宗教や霊を商売の道具にして、苦しむ人々を食い物にする者たち、それは、聖書の時代も、今も変わることはありません。そして、それは、私にとっては他人事ではなく、まさに自分の姿勢が問われているのです。私は、自分の宗教的な思いを満たすために、ここに集う方々、あるいは、メルマガを読んで下さっている方々を利用したりしていないだろうか。自分のつまらないプライドを大切にし、弱った人々を切り捨てていないだろうか。私は、この働きのために相応しい者だろうか。主よ、憐れんで下さいと祈るしかありません。

イエス様は、言われました。「収穫は多いが働き人がすくない。だから、収穫のために働き人を送って下さるよう、収穫の主にお願いしなさい」と。これは、どういう状況でしょうか。神様の福音の言葉、神様の祝福の言葉を聞こうと待っている人、また病や患いから癒されることを待っている人がこの世に溢れているのに、福音を語る働きをする人、彼らを癒す人が少ないということです。待っている人々のニーズを満たすことができない状況があるということです。

イエス様は、肉体という限界をもってこの世に来られました。イエス様は、全ての人のところに行って祝福したかった。「幸いなるかな、霊の貧しい者たち。天の御国はあなたがたのものだ。幸いなるかな、悲しんでいる者たち。あなたがたを慰める天の父がいる。低められている者たち、あなた方は幸いである。あなた方の祝福は回復される。幸いなるかな、義に飢え渇く者たち。あなた方は、神の子の姿に満たされるようになる。」イエス様は、祝福の言葉を全ての人に満たしたかったのです。また、病に苦しみ、患いに苦しめられている人たちを全て癒したかった。しかし、イエス様は、人としてこられ、時間と空間の中にご自分を限定なさったために、全ての人に語ることも、全ての人を癒すこともできず、その身が引き裂かれるような痛みを感じておられたというのです。

そして言われました。「働き人を送って下さるように、収穫の主にお願いしなさい」と。イエス様ご自身も祈っておられた筈です。しかし、イエス様は弟子たちに言われました。「お前たちも一緒に祈れ」と。ご自分の痛み、全ての人に祝福の言葉を満たそう、全ての人を癒そうとするイエス様ご自身の痛みと願いを、弟子たちも共有するようにと招かれたのです。

しかし、ここで気をつけなければならないことがあります。イエス様は、まず、「働き人を送って下さるように、収穫の主に祈れ」と仰っているのであって、「お前たちが行け」とは仰っていないのです。このあと、10章に入ると、12弟子に権威を与えて、この働きのために遣わされますが、その前に、「働き人を送って下さいと祈れ」と仰っている。この「働き人を送って下さい」と祈ることが何にも増して大切なことであるからです。

イエス様は、ここで、誰かが「わたしが行きます」と手を挙げることを期待していらっしゃらない。人の力ではできないからです。私たちに求められていることは祈ることなのです。「働き人を送って下さい」と。謙遜であること、これがまず何よりも求められている。

私たちの教会でも、「伝道していこう」という思いが皆さんの中から出てきていることを本当に感謝しています。それは、そのような思いを持っておられる方々が、自分の周囲に飼う者のいない羊のような状態になっている方々がいることに気付いておられるからだと思います。収穫は多いという状況があるということ、彷徨いながら真の光を見出せずにいる人々がいるということをわたしに切々と訴えて来られたことに本当に心動かされました。そして、礼拝だけではなく、教会や聖書に対して持っている誤解を解消したり、より入門的な話を聞ける会を開きたいという話が出てきているときに、今日の箇所が与えられたことは、決して偶然ではないと思います。

私たちは、主が、「働き人を送って下さい」と祈るようにと仰った言葉を今日、本当に心に留め、そのように祈りたいと思います。「わたしがやります」と手を挙げることでもない。また、「岩本のところに連れてくれば、後は岩本が何とかしてくれる」と思うことでもないのです。私は、そのような言葉を聞くたびに、愕然とします。「主よ、助けて下さい。私は、そのような者ではありません」と心の中で祈っています。岩本個人が持っているような力で何かができるような種類のことではないからです。

イエス様の祝福の言葉、イエス様の癒しが一人一人に届くということは、人間が自分の意志で何かを行おうとか、与えられた能力で何かができるというような種類のものではない。ただ、聖霊が働いて下さらなければ、聖書知識や、これまでの経験などでは、どうすることもできないのです。もし、そんなことで人が救われたりするのなら、イエス様は十字架に架かる必要はなかった。そう思います。私たちは、「収穫の主よ、働き人を送って下さい」と身を低くして乞い願い、祈って行きたい。

イエス様は、言われました。「わたしは、良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と。飼う者のない羊である私たちを見て、はらわたが裂けるほどの痛みを感じてくださったイエス様。この方が私たちの羊飼いとなって下さる。イエス様が言われるのです。「わたしは、良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」飼う者のない羊のように彷徨い、倒れた者たちを生かすために命を捨てて下さったイエス様がおられる。この方が、ご自分の働きをする働き人を送って下さる。私たちは、このことに期待したいのです。

そして、誰かがそのために立てられるなら、それはその人がそれを行っているのではなく、イエス様の働きをする聖霊ご自身なのです。

誰が働き人として遣わされるか。それは、神様だけがご存知です。「働き人を送ってください」と祈ったら、自分がしなければならなくなるのではないかと思う必要もありません。いや、むしろそう思うのは高慢なのです。イエス様は、「働き人を送って下さい」と祈れと仰ったのです。誰を用いるか、それは神様がお決めになります。その時、人の力や、人の知恵によらない、神様ご自身の解決が弱った人々、倒れた人々の上に臨むのです。

今日、私たちは何と祈るでしょうか。何と祈るべきでしょうか。イエス様が仰った言葉を、そのまま祈りたいと思うのです。「収穫の主よ。働き人を送って下さい」と。その時に、私たちが自分の思いを満たすために伝道するのでもない。私たちが教会の勢力を大きくするために伝道するのでもない。失われ、傷つき、倒れた飼う者のない羊たちが生かされ、癒されるイエス様の働きが私たちの中に満たされていくのです。

祈りましょう。

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