「マタイの福音書」連続講解説教

外に立つ者を

マタイの福音書12章46節から50節
岩本遠億牧師
2007年9月23日

12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。 12:47 すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」 12:48 しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」 12:49 それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 12:50 天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

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私たちの教会では、そういう言葉を使っていませんが、教会によっては、男性のクリスチャンを「~兄弟」、女性のクリスチャンを「~姉妹」と呼ぶところもあります。普通の日本社会に生きている私たちにとって、馴染みのない言い方であるわけですが、その根拠は、今日私たちに与えられている聖書の箇所でイエス様が「天におられるわたしの父の御心を行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」と言っておられるところにあります。ただ、私たちがここを読んで、短絡的に「クリスチャン同士が真の家族なのであって、肉の家族よりも大切なもの」というふうに解釈するのは、必ずしも正しい聖書の読み方ではないと思います。この箇所は何を私たちに伝えよう、教えようとしているのでしょうか。どういう状況があったのか、イエス様は何故このようなことを仰ったのか、誰に向かってこう仰ったのかということを読み解いていき、イエス様が私たちに語っておられることを知りたいと思います。

まず、どういう状況があったかということですが、イエス様が群集に向かって語っておられる時でした。真剣な説教が語られているときです。そこには内にいてイエス様の言葉に耳を傾けている人々と、外にいてそれを止めさせようとしている家族がいるのです。マルコの福音書も同じ記事を記録していますが、イエス様が気が狂ったと思って、家族が取り押さえに来たとかいてあります。イエス様の実存を理解せず、宣教の働きを止めさせようとして外に立っていた家族がいたのです。なお、父ヨセフの名が出ていませんが、ヨセフはイエス様が宣教の働きを始められる前に他界していたと理解されています。

さて、「家族が外に立っていた」とありますが、建物の外ということではないでしょう。「群集」に向かって福音を語っておられたのですから、野外です。ですから「外」という言葉は「福音の外」を意味すると考えられます。福音の外にいた家族、イエス様は母マリアや兄弟たちに対してどのような気持ちを持っていらっしゃったのでしょう。

家族なんかどうでも良いと思っていたのでしょうか。そうではありません。今は分からなくても、やがて分かる時が来ることを信じていらっしゃったのです。今は断絶の苦しみがある、互いに分かり合うことができない悲しみがある。しかし、やがて、母マリアも兄弟たちも福音の中に立つ者となるのです。イエス様は、十字架の上から弟子のヨハネに向かって、「母を頼む」と仰っています。また母マリアも弟のヤコブもユダも聖霊降臨のペンテコステの日、一緒に祈っていた120人の中にいました。イエス様を救い主として信じる者たちの中に入ったのです。弟のヤコブとユダは、ともに教会の指導者となり、新約聖書の中に手紙を残しています。

今は「外」に立っている家族がやがて「内」に座る者、イエス様の福音に生かされる者となることを信じ、またそのことを知っておられるという前提でここを読むと、イエス様の激しい言葉の中に、痛みと共に希望をも見出すことができるのではないでしょうか。

イエス様が福音の言葉を語っておられる時、その説教を中断させる者がいました。

12:47 すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」12:48 しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」

イエス様は、自分の家族が外に立っているのをご存知でした。知った上でなお語り続けておられたのです。ひょっとしたら、家族たちにもこの言葉が届くことを願いながら語っておられたかもしれません。しかし、家族を無視するかのように語り続けるイエス様を見て、ある人が心配になって言うのです。「先生、先生のご家族が先生に話そうとして待っておられます。」こういうふうに言いたかったのはこの人だけではないかもしれませんね。多くの人が気付いていた。福音の言葉を集中して聞けるような状態ではなくなっているのです。イエス様はお答えになります。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか」と。こう言われた人は震え上がったかもしれません。この言葉を聞いて母マリアは悲しかったろうと思います。しかし、イエス様は、ここで家族なんかどうでも良いと仰っているのではない。「あなたは、私と家族のことを心配するよりも、もっと大切なことに耳を傾けよ。私と家族のことを心配してくれるのは良いが、あなたがもっと心を集中して心配しなければならないことがある。それは、わたしの言葉の聞く者たちに与えられる新しい関係、新しい実存だ」と仰っているのです。

12:49 それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 12:50 天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

「天におられるわたしの父の御心を行う」ということによって与えられる新しい実存、新しい関係がある。それが霊における家族という関係だというのです。イエス様は「主の祈り」の中で「御心が天で行われるように、地でも行われますように」と祈るようにお教えになりましたが、天におられるイエス様の父の御心を地で行うもの、これがイエス様の家族であると言われる時、私たちは、父なる神様の御心を行うとは一体どういうことなのかを知らなければなりません。

自分が良いと思うことを行うこととは違うことがここに語られているのです。人は、自分が良いと思うことを行って、それで救われることにしてほしいと言います。たくさん善行を積んだ、たくさん御布施をした、たくさん修行をした。だから私も神の家族でしょう、と言いたい。しかし、イエス様が「天におられるわたしの父の御心を行う者」といわれる時、私たちは、それが何かを神様に質問しなければならないのです。そして、その答えは聖書の中にあるのです。

ヨハネの福音書6:28 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」 6:29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

わたしの天の父の御心を行うとは「神が遣わされた者を信じること」だと仰るのです。何か自分が良いと思うことではない。イエス様を信じること、それが神様の御心を行うことだとイエス様は語っておられるのです。イエス様を信じることによってイエス様の家族となるのです。イエス様と同じ命に生かされる者、イエス様の十字架の血によって生まれ変わり、新しい存在となるのです。

しかし、イエス様は、これを誰に向かって語られたのでしょうか。イエス様に従っていた弟子たちです。この時点で、弟子たちは、イエス様をイスラエルの救い主、ローマ帝国からイスラエルを救う方だと思ってついてきていました。自分の罪を贖う方、全人類を罪から贖う方だとは信じていなかったのです。

やがてイエス様とユダヤ人の指導者たちとの対立が深まっていくと、ここでイエス様に「わたしの母、わたしの兄弟たち」と言って頂いた多くの弟子たちも、イエス様のところを去り、最後には12人だけになってしまいます。そして、その12人も十字架を前にして、イエス様を否定し、イエス様を捨てて、逃げて行ってしまう。そして、イエス様とは関係のない者としてガリラヤに戻っていくのが、弟子たちだったのです。

イエス様に「わたしの母、わたしの兄弟たち」と言われていた弟子たちでしたが、イエス様を否定し、復活のイエス様に出会っても、「もう関係ない」と言ってガリラヤの漁師生活に戻っていくのです。

イエス様は、そのことをこの時、知らなかったのでしょうか。予知することはできなかったのでしょうか。イエス様は、弟子たちの弱さを知っていたのです。自分が裏切られることも、捨てられることも、全部知った上で、「わたしの母、わたしの兄弟」と語られたのです。そして、復活してその姿を現し、ガリラヤで彼らを待っておられました。彼らに親しく現れ、裏切ったり否定したことをお責めにならず、赦し、愛し、包んで、関係を回復させてくださった。

イエス様の弟子たちの中には誰一人として、自分の決心、自分の思いでイエス様を信じた者はいなかったのです。イエス様を信じることに絶望していたのが弟子たちでした。誰も、天におられるイエス様の父の御心を行うことができる者はいなかった。イエス様が彼らの頑なな心、恐れる心を開かれたのです。「イエスなんか知らない」と言う者に、「主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です。あなたは全てをご存知です」と告白させてくださるイエス様がいるのです。

また復活したイエス様は、ご自分の兄弟であるヤコブに現れ、母マリアと兄弟たちを福音の群れの中にお招きになりました(1コリント15:7)。

外に立っていた者とは誰でしょう。イエス様の家族もそうです。そして、イエス様の話を聞いていた弟子たちも、自分の思い、自分の力では中に立つことはできなかった。その両者を共に、一つに集め、イエス様の復活の命、聖霊の命をお注ぎになりました。

私たちをイエス様の家族とする力は何か。それは、人間を神の子とするイエス様の御霊です。復活し、死に打ち勝ったイエス様の命が私たちに注がれる時に、私たちは新しい存在、神の子とされる。イエス様の家族とされるのです。

イエス様の母や兄弟たちも、遠くにいた私たちも、この命の中に立つ者、一つの神の家族とするのは、実にこのイエス様の復活の命、聖霊の命であります。

私たちも自分の力で神の子となることはできません。どんなに人間的な力が秀でてたとしても、そのままでは滅びるべき存在なのです。どんなに努力しても神の子となることはできない。私たちの内の誰が、自分の力でイエス様を信じることができたでしょうか。信じることができるでしょうか。信じたいと思っても、どうしたら信じることができるか分からないのが私たちではなかったでしょうか。天におられるイエス様の父の御心を行うことができる者など、一人もいなかったのです。いいえ、自分の力でそれを行うことができる者は人類の中に一人もいないのです。イエス様は、それを知って、自ら十字架にかかって死んで、蘇り、私たちの心の扉を優しく開いてくださるのです。そして聖霊を注いで下さる。そのようにして、私たちは信じることができるようになりました。神の子とされました。また、これから信じることができるようになっていく、神の子とされていくのです。

そして、今まだ外に立っている私たちの家族をもイエス様は覚えてくださっている。私たちの家族のためにも命を捨てられたイエス様がいるのです。彼らに復活の命を注ぎ、聖霊を注いで新たにしご自分の子供にしようとしておられるイエス様がいる。私たちは、この方に希望を置きたいのです。信仰を持つことを家族に反対されている人もいます。しかし、外に立っていた者たちを内に座る者としたイエス様は、私たちの家族を覚えてくださっている。パウロは言いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と。私たちは、この言葉に望みを置こうではありませんか。イエス様は、私たちも私たちの家族もご自身の子供として、大きな大きな天の家族の一員としてくださるのです。

同じ弱さを持った私たち、ただイエス様の恵みなしには生きられない者、そんな者をイエス様は、恥となさらずご自分の兄弟と呼んでくださるのです。

聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない。(ヘブル2:11)。

私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。エペソ2:18-19

祈りましょう。

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