「マタイの福音書」連続講解説教

委ねられた権威

マタイによる福音書9章1節~8節
岩本遠億牧師
2007年5月6日

9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。 9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。 9:3 ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。 9:4 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。 9:5 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。 9:7 その人は起き上がり、家に帰って行った。 9:8 群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。

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毎週連続でマタイによる福音書を学んでいます。先週は、カファルナウムに集まった群衆を逃れるためにガダラ人の地に行かれたイエス様がその地に住む二人の悪霊につかれた人たちを癒された箇所を学びました。イエス様の到来によって、終わりの日がやって来た。悪霊が滅ぼされる終わりの日の恵みの中に私たちは生かされているのだということを学びました。このように学び続けるうちに、イエス様がこの地にもたらされた神の国の祝福とは何と絶大なものなのだろうと思います。私たちは、どうも自分の経験や思い込みなどによってイエス様の祝福の範囲を狭めてしまう傾向があるようです。今日開く箇所を学ぶことによっても、そのことを更に意識するようになると思います。

さて、イエス様がカファルナウムに戻られると、人々が中風の人を床にのせたままイエス様のところに連れてきました。どのような状況を思い浮かべられるでしょうか。マルコの福音書やルカの福音書にも同じ出来事を記録した箇所がありますが、もう少し詳しく書かれています。人々が一杯でイエス様に近づけないので、屋根を剥いで、床を吊りおろしたと書いてあります。そのような状況はあったのでしょうが、マタイは、そのことには触れず、ただ、「イエス様のところに連れてきた」とだけ言っています。「イエス様のところに連れてきた」ということが本質的に重要だということをマタイは言いたいのだと思います。

では、誰が連れて来たのか。何故、イエス様のところに連れて来たのか。

恐らく、この男の人は脳溢血や脳梗塞になり、体が不随になり、動けなくなっていました。言葉を発することもできなかったかもしれない。しかし、この人には友人がいたのです。彼の健康の回復、人生の回復、存在の回復を願ってやまない何人もの友人がいました。彼らは、自分で動くことができなくなった自分の大切な友人をイエス様のところに連れてきました。床に乗せたまま連れてきました。自分にはこの友人を癒すことも、この友人の問題を解決することもできないが、イエス様には彼を癒し、彼の実存を回復する力があると信じたからです。

するとイエス様は何と言われたか。新共同訳には、次のように訳してあります。「イエスは、その人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ。元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた。」この訳の中で、「あなたの罪は赦される」の部分は、明らかな誤訳です。ギリシャ語を調べると、ここは、完了形で書いてあります。また罪は複数形ですから、「あなたの一つ一つの罪は既に赦された。既に赦されている」という意味です。イエス様は、「あなたの罪は赦されるから、元気を出せ」と言われたのではありません。「元気を出せ。あなたの諸々の罪は、既に赦されたぞ」と言っておられるのです。

しかも、イエス様は、彼を連れて来た人々の信仰を見て、このように宣言なさったのです。この中風の男の人は何も言っていないのです。罪の告白したわけでもない。信じますと言ったわけでもない。イエス様は、この人を連れて来た人々の信仰、すなわち、自分にはできないけれども、イエス様には、私の友人を癒すことができる、救うことができると信じたその信仰に答えて、イエス様は、「子よ、しっかりせよ。元気を出せ。あなたの諸々の罪は赦されているぞ」と宣言されたのです。

私たちは、これに対してどのように思うでしょうか。罪が赦されるためには、自分でも何かしなければならないのではないかと思うのではないでしょうか。罪滅ぼしのための善行を積むとか、修行を行うとか。あるいは、少なくとも、自分の口で罪を告白して、赦しを乞うとかが必要なのではないかと思ったりするのではないかと思います。また、当時のイスラエルなら、律法に従って、罪のための献げ物をして、罪が赦される儀式を行ってもらうことが必要と考える人も当時のイスラエルにはいました。そのために多くの犠牲が神殿で捧げられていたのです。

しかし、この人はどうだったでしょうか。自分で何かができたでしょうか。善行を積むことも、修行をすることも、自分の口で罪を告白したり、罪のための捧げものをすることもできませんでした。動けなくなって、絶望していたこの人に、与えられる罪の赦しがあったのです。

私たちも、友人や家族を教会に連れてきたりします。自分にはできないけれど、イエス様ならできると信じているからです。イエス様ならできると信じなければ、誰も友人や家族を教会に連れて来ようとは思わないでしょう。イエス様は、あなたのその信仰を見ておられるのです。そして、あなたの友人に、あなたの家族に、「あなたの罪は既に赦されているぞ」と罪の赦しを宣言なさるのがイエス様だと聖書は言っているのです。ここに伝道する私たちの希望があります。私たちは、無理やり人に罪を告白させたり、信仰告白させようと頑張る必要はないのです。ただ、イエス様には、この私の友人を救う力があると信じ、イエス様のところに連れてくれば良いのです。イエス様は彼らに罪が既に赦されていることを宣言なさるのです。

そして、8節を見ますと、「人間にこれほどの権威を委ねられた神を賛美した」とありますが、この人間は複数形です。つまり、これは、人としてこられたイエス様のことだけを言っているのではなく、イエス様を信じるものたち、すなわち、教会のことを指していると理解されます。私たちも、教会に連れてこられた方々に、「あなたの罪は全て、既に赦されています」と宣言する権威が与えられているというのです。その方々は、まだ解決されない多くの問題を抱えているかもしれない。しかし、彼らを愛し、彼らが救われることを信じてイエス様のところに連れてきた者たちの信仰の故に、私たちは彼らに罪の赦しを宣言する権威が委ねられている。いや、私たちにそのような権威を委ねて下さっている神様がおられるのです。

マタイ18:18に次のような言葉があります。

18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

イエス様は、ここで弟子たちに罪の赦しについて教えておられます。弟子たちがこの地上で赦さないことは天でも赦されておらず、この地上で赦すことは天でも赦されているということです。つまり、二人(教会の最小単位)が心を一つにしてある人の罪の赦しを願うならその罪は天でも赦されている。その願いは聞き入れられるというのです。

ここで働いている原理は何でしょうか?行いの原理ではありません。律法の原理でもない。愛の原理です。イエス様は、愛の原理によって人に罪の赦しを与えるためにやって来られたのです。

イエス様は十字架の贖いによって全人類の罪の贖いをなさり、イエス様に頼る全ての者がその贖いの恵みに与ることができるようになさいました。そして、それは、自分で信仰を告白する者だけに留まらず、私たちがイエス様のところに連れて来る人々にまで及ぶのだというのです。だから、私たちはイエス様の福音を小さく限定しようとせずに、大きなイエス様の愛の御手に信頼していきたいのです。

ところが、このように罪の赦しを宣言なさったイエス様の言葉に対して反感を覚える人たちがいました。「この男は神を冒涜している」と心の中で言いました。律法としては、罪の赦しは罪祭を捧げることによって与えられていました。また、神様のほかに罪の赦しを与えることができる方はいないという彼らの理解も正しいものです。しかし、イエス様は彼らの思いを「悪い考え」と言われました。それは、彼らの中に愛がなかったからです。病気になり、自分では動けなくなり、罪のための献げ物をすることもできなくなったイスラエルの子、祝福を受け継ぐべき約束の子供の一人です。神学的な理屈をこねてはいるが、彼のために祈る心がないのです。また、彼を愛し、彼の救いのために彼をイエス様のところまで運んできた友人たちの愛とその労苦を認めようともしない。その心をイエス様は悪い考えだと仰っているのです。ヨハネの第一の手紙に、「愛のないものに神は分からない。神は愛だからだ」とはっきり言われています。

そして、イエス様は彼らにご質問になります。「あなたの罪は赦されているというのと、起きて床を取り上げて歩けというのと、どちらが簡単か」と。皆さんはどのように思われるでしょうか。「あなたの罪は赦されている」というほうが簡単だったから、イエス様はこのように言われたのでしょうか。「あなたの罪は赦されている」という言葉は、赦す力がない者には言えないことです。赦す力がない者が言ったら、それは単なる気休めにしか過ぎなくなります。また、「起きて床を取り上げて歩け」というのも、癒す権威を持った人でなければ言うことのできない言葉です。「どちらが簡単か」と言われると、その答えは、どちらも簡単ではないということになるでしょう。

イエス様がここで教えようとなさっているのは、この二つのことは、一つのことなのだということです。恐らくイエス様は、この出来事の前、カファルナウムで多くの人たちを癒しておられ、歩けない人たちに、「床を取り上げて歩け」と命じておられたと思われます。しかし、この時は、「あなたの罪は既に赦されている」と言われました。この人にとっては、罪の赦しと体の癒しは一つのことだったのです。罪が体の病を引き起こしている場合がある。そして、この人はまさにそうだった。この人にとって罪の赦しと体の癒しは一体のことだったのです。だからイエス様は、「あなたの罪は既に赦されている」と宣言なさり、「起きて床を取り上げて自分の家に帰れ」とお命じになって彼を癒されたのです。このことが特筆すべきことだったので、多くの癒しの中からマタイはこれを取り上げて記録しているのだと思います。

私も同じような経験があります。もう何度もお話しているので、耳にたこができたと言われそうですが、私は、大学生の時、信仰が分からなくなってイエス様を否定して、自分の思い通りの生き方をしようとしていました。良い事と悪い事を自分で決める権利を自分のものにしようとしていたのです。しかし、その時から毎晩の悪夢に悩まされ、眠れなくなり、病気になりました。大学4年生の春の健康診断で保健管理センターに呼び出されました。お医者さんに行くと、胸に二つの影ができていたのです。

絶望した私をイエス様のところに引き戻してくれる人がいて、私は礼拝に戻りました。なかなか、信仰を回復することはできませんでしたが、1981年の夏に水上温泉で行われた大きな集会に行きました。そこで、私のために祈ってくださった先生がおられ、私はイエス様の十字架の血潮を注がれ、全ての罪が赦されたという霊的な経験をしました。「神の子イエスの血は全ての罪から我らを清める」という聖書の言葉が私の内側で大鐘の響きのように響いた時、圧倒的なイエス様の命が私に注がれて、体の細胞が生き返り、胸にあった二つの影が跡形もなく、その場で消えてなくなったのが分かったのです。

私のその病は、イエス様を否定した根源的な罪が原因でした。あの病は、イエス様を否定したことと一体のものだったのです。しかし、私をイエス様のところに引き戻してくれる人がいた。私のために祈ってくれる人がいた。そして、「神の子イエスの血は全ての罪から我らを清める」という聖書の言葉が与えられ、罪の赦しが高らかに宣言された時、私を縛っていた病は力を失い、私は立ち上がり、罪の牢獄から出てくることができたのです。

罪がもたらす苦しみは、病気だけではないでしょう。いろいろな苦しみがあります。しかし、罪を原因とするこれらの苦しみは、罪の赦しの宣言が心に届いた時、一緒に解決されていくものなのだということをこの箇所は教えているのです。

そして、イエス様は、その罪の赦しを宣言し、罪によって縛られた多くの問題を具体的に解決する権威を教会に委ねて下さっていると言うのです。だから、私たちは、諦めずに、私たちの友人や家族をイエス様のところに連れて行きたいのです。諦めずに祈りたいのです。

実際には、罪の赦しの宣言の言葉が、私たちの愛する者たちの心に届くには、聖霊の働きが必要です。罪の赦しの宣言を聞いても、それが自分についての語られていると自覚するようになるためには、時間がかかる場合もあるでしょう。しかし、罪の赦しの宣言自体は有効なのです。イエス様が十字架で全ての罪の問題を解決して下さったからです。

例えて言えば、罪の赦しの宣言とは、罪のために牢獄に入っている者に向かって、あなたの罪は既に赦されている。鍵はすでに開けられている。さあ出て来なさいと言うようなものです。その言葉が心に届かなければ自分で立ち上がって出て来ようとしないでしょう。その言葉を聞いて信じて、立ち上がって出て来る様になるためには、聖霊が働いて下さり、立ち上がる勇気と希望を与えてくださる必要があります。イエス様の「起きて床を取り上げて帰れ」というお言葉は、まさに、この男の人に自ら鍵の開いた牢獄から出て行くことを命じる言葉でありました。

イエス様は、私たちの信仰を見て、私たちの愛する者たちに語って下さるでしょう。「あなたの諸々の罪は既に赦されている」と。そして、「起きて、床を取り上げて帰れ」と命じて、罪の牢獄から立ち上がり出てくる希望と力を与え、具体的な問題に解決を与えてくださるでしょう。また、私たちは、イエス様にこの権威を委ねられている者として、罪の赦しと聖霊の恵みを宣言していく働きが与えられているのです。その権威とは何か。「私にはできないけれど、イエス様には私の友人を救うことができる。癒すことができる。私の家族を救うことができる。癒すことができる」と信じる愛と信仰です。愛と信仰という権威をイエス様は与えてくださっているのです。私たちは、愛と信仰によって具体的な問題を祈りながら解決していくことができる権威を与えられているのです。イエス様は、それを願っておられるのです。イエス様の願いは、必ず私たちの中に実現して行くでしょう。

暫く、愛する者のために祈りましょう。

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