「マタイの福音書」連続講解説教

小さな者のそばに

マタイの福音書18章
岩本遠億牧師
2011年4月10日

18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」 18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、 18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。 18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。 18:5 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。
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18:10 あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。

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皆さんに質問があります。天国で一番偉いのは誰でしょうか。その答えなど、子どもでも知っています。「神様」ですね。では、この教会で一番偉いのは?「岩本牧師?」それはハズレです。答えは、「イエスキリスト」です。この神様とイエスキリストは実体においては一つの方です。

天の御国で一番偉いのは誰か?これは、一般的な事柄として質問したのではなく、非常に個別的な彼ら自身に関わることとして質問したと理解されるべきです。何故なら、一般的な事柄としては、答えは分かりきっているからです。

「天の御国」というのは「天の支配」という意味ですが、弟子たちがこの言葉を使って質問していたのは、「イエス様が王様になってイスラエルを支配するようになった時、私たちの中で誰が一番偉くなるのですか?」ということです。

今、イエス様は十字架にかかって死に、全人類の罪を贖うためにエルサレムに登って行こうとしておられました。そのことを何度も弟子たちに教えておられたのに、弟子たちはそれを一向に理解せず、エルサレムに行ったらイエス様がローマ軍を打ち倒して王様になるとばかり考えていた。そして、その時には誰が総理大臣になるのか、誰が一番の席に座るのかということだけに興味があったということです。

イエス様のお心を全く理解しない愚かな弟子たちということなのですが、私たちは弟子たちを笑うことができるでしょうか。私にはできません。皆さんはどうでしょうか。私たちは、少なくとも自分の縄張りの中では、自分の思いどおりにことを行いたいと思っています。そして、その縄張りを少しでも大きくしたい。それが私たち人間の全てが持っている高慢の罪なのです。

私の父はキリスト教の伝道をしていました。私は父が好きでしたが、教団の大きな集会で、私はよくフラストレーションを感じていました。それは、父が恰好悪いからです。他の伝道者たちは、数百人、数千人の人たちを痺れさせるような話をし、毎週大人数の信者が集まる礼拝を指導していました。ところが、父には大きな集会では出番はなく、毎週指導している礼拝もそれほど人数は多くありませんでした。一人、二人の人に聖書の話をするだけのために、週に何度も数時間車を運転していろいろなところに伝道に行っていました。

私は、この早稲田奉仕園に礼拝の場を移してから暫くの間、一人あるいは二人来られる方々と共に約二年間礼拝を持たせて頂きました。家内と誰も来なかったら教会をやめようと半分冗談を言いながらでしたが、一人、二人の方々に語るために一所懸命聖書を勉強し、メッセージを用意させていただきました。そして、その方々を礼拝の中で本当によく祈り、深い信頼関係を与えられてきたのです。そのような祝福を与えられるまで、私は父がやっていたことを理解することができませんでした。

それは、私が高慢な者で、自分のところに集まる人の数で、自分の価値を評価していたからです。どれだけ自分の縄張りに人がいるか、それが自分のそして他人を評価する尺度となっている。私は、自分の人格を構成しているそのような高慢の罪を否定することができません。

天の御国で誰が一番偉いのでしょうと質問した弟子たちを決して笑うことができない私がここにいます。皆さんはどうでしょうか。

18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、 18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。 18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。 18:5 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。

「子どもたちのように」と言われました。どのような意味でしょうか。「純真無垢」という意味でしょうか。聖書は、決して子どもたちを純真無垢だとは言っていません。子どもにも罪はあります。子どもたちも、基本的に自分が良ければ良いと思っています。おもちゃの取り合い、お菓子の取り合いなどを見ていると、子どもたちの中にも悪意があるのが分かります。

イエス様は、子どもたちの社会的立場に言及しておられるのです。子どもの社会的立場は低かった。知恵も知識も能力もない、労働力としても使えない。子どもたちが一つの人格を持ったものとして認識され、尊ばなければならないと言われるようになったのは、現代に入ってからです。しかも、ごく最近です。

社会的立場の低い者、社会的立場の弱い者として生きる。これが天の御国に入る条件なのだとイエス様は仰ったのです。誰が一番偉いのかどころの話ではない。そもそも、自らを低くしない者は天の御国に入れないと仰ったのでした。

オランダ改革派の牧師でアンドリュー・マーレーという人がいます。彼は聖書の言葉を深く黙想して霊的にすぐれた著作をたくさん世に出しましたが、その中に『謙遜』という小さな本があります。

その中でマーレーは、「キリスト信徒にとって、最も基本的、不可欠の特性は謙遜であって、その他の愛、寛容、親切、柔和、善意、希望、勇気などの特性は、この謙遜の上に建て上げられる。謙遜がないところ、その他の全ての特性は存在しない」という趣旨のことを言っています。

そして、謙遜とは「自分の存在の全て、この体も、心も、思いも、意志も、魂も、霊も、全てが創造者である神様に依存しているということを知ること」だと述べています。人の罪は、神なしに自分はやっていけると思うところにあるのです。

良いことと悪いことは自分で決められる。自分で食べていける。自分の着るもの、住むところも自分で手に入れ、自分の思うように生き、神が存在するかしないかも、自分で決める。そのように人間は思っているのではないでしょうか。

しかし、今回の大震災で、私たちは自分の食べる物、飲む水、着る物、住むところも、本当は自分の思いどおりにはならないことを思い知らされました。震災の地で、実際に痛み苦しんでいる方々だけでなく、遠く離れた地にいる者たちも、自分が確かだと思っていたものが、簡単に崩れ去るのではないかという不安の中にあるのです。

確かだと思っていた大地が揺れ動き、崩れる。そして確かだと思っていた自分という基準が崩れ去って行く。

その時、私たちは自分の存在が、自分という基盤の上に立っているのではなく、神様の御手の中にある、自分の全てが神様に依存したものだということを知るのです。

イエス様は、「子どもたちのように自分を低くする者」と仰いました。子どもたちは、親に依存しなければ生きて行くことができません。食べることも飲むことも、着ることも、住むことも、自分をきれいにすることも、自分ではできない。それが子どもです。

私たちも、同じではないでしょうか。私たちは自分で食べ物を得ているでしょうか。太陽が照らず、雨が降らなければ、私たちはすぐに飢えてしまうのです。また、私たちは自分を自分できれいにすることができるでしょうか。雨が降らなければ、私たちはきれいな水を手に入れることもできません。この心はどうでしょうか。この心を自分できれいにすることはできるでしょうか。日々穢れて行く心を私たちは持てあましているのではないでしょうか。

こんな私たちのために、父なる神様は太陽を昇らせ、雨を降らせ、そして、御子イエス・キリストを遣わし、十字架につけて罪の赦しを与えてくださったのです。

自分の全てが神様に依存している。私たちの存在の回復はここから始まるのです。私たちの存在を握ってくださっている方がいる。私たちを背負ってくださっている方がいるのです。ここに真の平安があります。

イエス様は言われました。18:10 あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」

「この小さい者たち」というのは、子どもたちだけではなく、低められた者たち、貧しい者たち、弱い者たち、自分で自分の心をどうすることもできない者たち、罪に泣く者たちのことを言うのです。

人は見下げるでしょう。馬鹿にするでしょう。宗教を求めるなど、弱い心の表れだと。逃げているだけだと。そうかもしれません。反論する必要もないでしょう。むしろ、反論する力も気力もないほど、弱り、低められることがある。

イエス様は言われます。「まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ている」と。

低められた者たち、賎しめられた者たち、弱められた者たちに、天の御使いたちが遣わされていている。父なる神様が私たち一人一人に天の御使いたちを援助のために遣わしてくださっているというのです。

私たちが喜ぶ時に共に喜び、私たちが泣く時に共に泣く。そして、私たちが倒れてしまった時、抱きかかえてくれる御使いが遣わされているとイエス様は仰る。

そして、彼らは何時も天におられる父なる神様の御顔を見ていると。

私たちはうつむくことがあります。神様の御顔を見上げることができない時があります。祈れない時があります。そもそも教会に来たばかりの時、祈るということがどのようなことか分かりません。また、クリスチャンになった後も祈りを失うことがあります。大きな罪を犯してしまった時、ひどく傷つけられた時、あるいは、愛する者を失った時、生命の危険に曝された時、祈りを失うことがある。

しかし、そんな時、祈れない私たちに代わって、父なる神様の御顔を見上げて、祈ってくれている御使いがいる。そのために、神様が御使いを私たちに遣わしてくださっているのです。

祈れなくなった時、神様に見放されるのではありません。だから、絶望しないようにしましょう。また、様々な事情で祈れない人がいる時、私たちはその方々を温かく見守り、御使いたちと一緒にその人に代わって天のお父様を見上げて祈るようにしましょう。

イエス様は主の祈りの中で「御心が天で行われるように地でも行ってください」と祈るように教えてくださいましたが、必ずイエス様の御心がその方々の上になって行くことを信じて、希望を持ちたいですね。

今、この震災で全てを失った方々、存在の基盤を失ってしまった方々、支援なしには生きることができなくなってしまった方々のことを思います。これらの方々にも神様が御使いたちを遣わしてくださっている。彼らが絶望する時、倒れた時、彼らのために必死に祈っている御使いたちがいる。

このような災害が起こると、「神が愛なら、何故?」という言葉を良く聞きます。「神様は怒っているのか」とか「天罰だ」という言葉も聞きました。しかし、聖書は明確に言います。過去、現在、未来における全人類の罪の呪いと罪に対する神様の怒りは、十字架に架けられた神の子イエス様に全て、100%下されたと。だから、神様が怒って天罰として災害を人間に送ることはもうないのだと。

では、何故災害が起こるのか?それに対する答えは、聖書の中に見出すことはできません。むしろ、神様はそのことについては黙っていらっしゃる。しかし、明確に語っておられることがあるのです。

それは、低められ、自分で自分を生かすことができなくなった小さな者たちに御使いたちが遣わされている。彼らを支えている。彼らに代わって父なる神様の御顔を仰ぎ見、彼らに代わって祈っていると。

私たちも御使いたちと共に、彼らのために祈り、彼らを支える働きに関わって行きましょう。祈りながら関わって行く時に、何故?を包み込む、さらに大きな答えが与えられるのです。

イエス様は言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」

私たちが互いに愛し合うなら、神様は私たちのうちにおられ、神様の愛が私たちのうちに全うされるのです。愛があるところに神の国が形づくられて行くのです。その時、「何故」を超える大きな神様のご臨在が私たちの内に満たされて行くのです。

祈りましょう。

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