「マタイの福音書」連続講解説教

平和を実現する人は幸い

マタイによる福音書講解説教5章9節
岩本遠億牧師
2006年10月8日

平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。

毎週マタイによる福音書を学んでいます。その山上の説教と呼ばれるイエ

ス様の説教集の最初に祝福の言葉が記されています。神様が幸いな者と呼

ばれる者はどのような者なのか。神様の目から見た祝福とは何かというこ

とをお語りです。8つの祝福が語られていますが、前半の四つは低められる

者の幸い、謙遜な者、神様の前に、人の前に自らを低くする者、悲しむ者

に注がれる神様の恵みと祝福が語られています。一方、後半の四つは、イ

エス様の姿に似せられていく者の祝福、憐れみ深い者、心清いもの、平和

を実現する者、義のために迫害される者の祝福をお語りです。今日は、「平

和を実現する者」の幸いについて学びましょう。

+++

聖書の伝統の中では、「平和を造る者」とは神様の別名です。イエス様は、

平和の君と呼ばれました。

イザヤ9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男

の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべ

き指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

このように平和をつくる、平和を実現するとは、神様のご性質、本質的な

お働きなのですが、聖書が言う「平和」とは、争いがない状態という消極

的な意味ではなく、むしろ満ち充つる状況、繁栄、成功、安定、充溢を意

味するもので、ヘブライ語ではシャロームといいます。エペソ人への手紙

というところに、「教会は、キリストの体であり、一切のものを一切のもの

によって満たす方の満ちておられるところです」(1:23)という言葉があり

ますが、すべてのものをすべてのものによって満たす方が満ちておられる

状況をシャロームというのです。神が内にも外にも満ち溢れている状況で

す。争いがないというのは、その結果であって、争いがないことがその中

心的な意味ではありません。

イエス様が墓から甦って弟子たちに現われたときこのシャロームという言

葉を語っておられますが、恐れ、何も信じられなくなった弟子たちに、「神

の平和、平安があるように。神の充ち溢れる生命がおまえたちの中に充ち

溢れるように」という意味です。

私たちは、平和をつくる者、あるいは平和をもたらす者という言葉にどの

ようなイメージを持っているでしょうか。普通は、対立している者たちの

間に立ち、お互いの利害を調整し、お互いに妥協できるように説得し、そ

して一旦合意したら、それぞれが約束を守るように指導したり、働きかけ

たりする。それが一般的には平和を実現する方法だと思います。そのよう

な知恵と努力は賞賛されるべきもので、私たちもそのような働きをしてい

る方々を応援して行きたいと思います。

一方、聖書が平和を造るという場合、少しニュアンスが違うようです。イ

エス様は、平和を実現する方、平和を造る方としてこの地にやって来られ

ましたが、イエス様が平和をもたらされた方法は、十字架の死によるもの

でした。

エフェソ2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのもの

を一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 2:15 規

則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御

自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 2:16 十字架を

通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼ

されました。

人と人、人と神様の間で平和が壊されているのは、人間が自分自身を善悪

の基準としているからです。自分の都合、自分の利害、自分の思い、自分

の感覚、あるいは自分の欲望を基準にし、それによって良し悪しを決定し

ようとする。人それぞれが自分を基準にしている時に生じる関係とは、決

して真に平和な関係ではありません。利害に結びついた関係という場合が

あるでしょう。対立する場合があります。あるいは一方が他方よりも強い

場合、支配する者と支配される者という関係が生じるでしょう。また、一

定の距離を保ったどうでも良い関係というのもあるでしょう。真の平和か

らは程遠い状況だと思います。

また、そのように自分が善悪の基準になっていると、善悪を決めることが

できる唯ひとりの主権者である神様と対立することになります。神様が決

められたことよりも、自分の思いを優先させたい。神様が駄目だと言われ

ても、それを良いことにしてしまう。これを罪と言います。自分を基準と

する高慢こそ罪の本質なのです。ですから、人は例外なく、神様が人間に

与えた律法に従うことができず。神様との正しい関係を失ったと聖書は言

うのです。

イエス様は、このように失われた神様と人との関係、人と人との関係を再

創造するために十字架にかかって死に、復活なさったのです。ここでは、

イエス様の十字架が持つ二つの力に触れたいと思います。

まず、イエス様が十字架にかかられたのは、罪によって呪いの子、滅びの

子となってしまった私たち全人類の罪を帳消しにし、私たちに神の子、約

束の子としての立場を与えるためです。これを「贖い」と言います。罪の

ない神の子イエス様が、罪人の私のため、あなたのために、神の子である

イエス様が神の子とであることを捨てて、死んで地獄に落ち、代りに私た

ちに神の子の立場を与えてくださったのです。

イエス様は、十字架に磔になりながら祈られました。「父よ。彼らをお赦し

ください。自分が何をしているのか知らないのです」と。この祈りは、「彼

らの罪を、全人類の罪を私の上に置いてください。そして、彼らを赦し、

自由の身、私に代えて神の子としてください」という祈りだったのです。

父なる神様は、その愛の故に、イエス様の祈りを受け入れられました。こ

のために、私の罪、あなたの罪は帳消しにされ、私たちを訴える罪の債務

証書は破棄されたのです。

コロサイ2:13 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、

神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切

の罪を赦し、 2:14 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証

書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。

次に、イエス様が十字架にかかられたのは、私たちが自分を基準にした存

在から、神様を基準とした存在へと生まれ変わるためです。

第一ペテロ2:21 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キ

リストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模

範を残されたからです。 2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、/そ

の口には偽りがなかった。」 2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめ

られても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 2:24

そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださ

いました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようにな

るためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされまし

た。 2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧

者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

「2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担って

くださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるよ

うになるためです。」とあります。自分を基準とする存在のあり方から、神

様を基準とする存在の在り方へと私たちを変える力は、イエス様の十字架

の血にこそ、あるのです。

自分の思いを基準としない存在の在り方とは、ある意味で、友のために自

分を投げ出す生き方であると言えるでしょう。そして、そのことによって

平和が具体的に実現していくのです。イエス様は、「友のために自分の命を

捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われました。

ここのところ、メルマガでご一緒に創世記を読んでいますが、父ヤコブの

ため、異母弟のベニヤミンのためにヨセフの兄ユダが行った命がけの嘆願

の中に平和を実現する愛があるのを見ます。

生意気で父親に偏愛されているヤコブは異母兄弟である兄たちに憎まれ、

殺害されそうになります。何とか命は助かりますが、エジプトに奴隷とし

て売り飛ばされてしまいます。そこで多くの苦難を経ながらも、神様の導

きと祝福を受けて、エジプト王ファラオに重用されるようになり、宰相と

してエジプトを治めるようになります。そんな時、カナンの地で飢饉に苦

しむ兄たちが食料を買うためにヨセフの前に姿を現すのです。

ヨセフは、一目で兄たちだと分かりますが、そ知らぬ顔をして、彼らをス

パイとして扱い、シメオンを捉えて縛り上げます。そして、弟ベミヤミン

を連れ来なければ二度と食料を買いに来ることを許さないと厳しく命令し

ます。ベニヤミンは、父ヤコブが最後の望みとして決して手放そうとしな

い愛妻ラケルが生んだ末っ子です。いよいよエジプトから持ち帰った食料

が底をつき、次の年、もう一度ヨセフのところに食料を買いに行きますが、

ユダはベニヤミンを連れて帰ることをヤコブに保証して、一緒に行くので

す。

ヨセフは、ベニヤミンを見て、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになります

が、それでも自分の身を明かしません。彼は、兄弟たちが一つの心となる

ために経なければならないプロセスを熟考していました。兄弟たちと一緒

に食事をした後、ヨセフは執事に命じ、運べる限りの食料を彼らの袋に詰

め、代金の銀も袋の中に戻させます。そして、弟ベニヤミンの袋の中にヨ

セフが使う銀の杯を入れさせました。

翌朝、兄弟たちはヨセフのもとを発ちますが、ヨセフは執事に彼らを追わ

せます。ヨセフの杯を盗んだという罪のため、ベニヤミンを捕らえ、自分

の奴隷にするというのです。身に覚えのない罪を着せられ、兄弟たちは苦

悩します。「神が自分たちの罪を暴いたのだ」と。

しかし、父ヤコブが自分の命のように大切にしているベニヤミン。彼が帰

らなければ、父は悲しみと苦しみのうちに死んでしまうでしょう。

兄ユダは、ヨセフに嘆願します。「ベニヤミンの代りに私を奴隷としてくだ

さい」と。

今、ベニヤミンを救うために、ユダが命がけの嘆願をしている。ラケルの

子供たちを憎んでいたレアの子供が、今、ラケルの子供のために、自分の

身を差し出したのです。この愛の嘆願こそ、ヨセフが心の底から願ってい

たものでした。今、憎しみを越えて、兄弟が一つとなる時が来たのです。

兄弟の間に平和がつくられる時が来たのです。

ユダはふしだらな男でした。そのため子供たちも罪深く、神様の怒りを買

うような生き方をしていました。不名誉と罪の中にあったのがユダだった

のです。しかし、神様は、ユダの中に父と弟のために自分を捨てる愛を取

っておいて下さっていたのです。

イエス様は、ユダの家系にやってこられます。この命がけの愛の嘆願をし

たユダの家系の中に、神様は全人類の贖い主イエス様を送られたのです。

この愛の中にイエス様がやってきてくださるのです。

不条理な状況はあるでしょう。私たちは罪深い者でしょう。感情的軋轢も

あるかもしれない。しかし、そのような中にあって、なお、神様は私たち

の中に、家族のため、兄弟姉妹のため、友のために自分を捨て、自分を投

げ出す尊さと愛を保って下さっているのです。

ここから引き裂かれた関係が回復していくのです。平和が造られて行くの

です。私たちは、イエス様の十字架の血を受けて、平和をつくるイエス様

の実存が私たちの中に強くなっていくことでしょう。

平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。

+++

毎週マタイによる福音書を学んでいます。その山上の説教と呼ばれるイエ

ス様の説教集の最初に祝福の言葉が記されています。神様が幸いな者と呼

ばれる者はどのような者なのか。神様の目から見た祝福とは何かというこ

とをお語りです。8つの祝福が語られていますが、前半の四つは低められる

者の幸い、謙遜な者、神様の前に、人の前に自らを低くする者、悲しむ者

に注がれる神様の恵みと祝福が語られています。一方、後半の四つは、イ

エス様の姿に似せられていく者の祝福、憐れみ深い者、心清いもの、平和

を実現する者、義のために迫害される者の祝福をお語りです。今日は、「平

和を実現する者」の幸いについて学びましょう。

+++

聖書の伝統の中では、「平和を造る者」とは神様の別名です。イエス様は、

平和の君と呼ばれました。

イザヤ9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男

の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべ

き指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

このように平和をつくる、平和を実現するとは、神様のご性質、本質的な

お働きなのですが、聖書が言う「平和」とは、争いがない状態という消極

的な意味ではなく、むしろ満ち充つる状況、繁栄、成功、安定、充溢を意

味するもので、ヘブライ語ではシャロームといいます。エペソ人への手紙

というところに、「教会は、キリストの体であり、一切のものを一切のもの

によって満たす方の満ちておられるところです」(1:23)という言葉があり

ますが、すべてのものをすべてのものによって満たす方が満ちておられる

状況をシャロームというのです。神が内にも外にも満ち溢れている状況で

す。争いがないというのは、その結果であって、争いがないことがその中

心的な意味ではありません。

イエス様が墓から甦って弟子たちに現われたときこのシャロームという言

葉を語っておられますが、恐れ、何も信じられなくなった弟子たちに、「神

の平和、平安があるように。神の充ち溢れる生命がおまえたちの中に充ち

溢れるように」という意味です。

私たちは、平和をつくる者、あるいは平和をもたらす者という言葉にどの

ようなイメージを持っているでしょうか。普通は、対立している者たちの

間に立ち、お互いの利害を調整し、お互いに妥協できるように説得し、そ

して一旦合意したら、それぞれが約束を守るように指導したり、働きかけ

たりする。それが一般的には平和を実現する方法だと思います。そのよう

な知恵と努力は賞賛されるべきもので、私たちもそのような働きをしてい

る方々を応援して行きたいと思います。

一方、聖書が平和を造るという場合、少しニュアンスが違うようです。イ

エス様は、平和を実現する方、平和を造る方としてこの地にやって来られ

ましたが、イエス様が平和をもたらされた方法は、十字架の死によるもの

でした。

エフェソ2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのもの

を一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 2:15 規

則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御

自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 2:16 十字架を

通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼ

されました。

人と人、人と神様の間で平和が壊されているのは、人間が自分自身を善悪

の基準としているからです。自分の都合、自分の利害、自分の思い、自分

の感覚、あるいは自分の欲望を基準にし、それによって良し悪しを決定し

ようとする。人それぞれが自分を基準にしている時に生じる関係とは、決

して真に平和な関係ではありません。利害に結びついた関係という場合が

あるでしょう。対立する場合があります。あるいは一方が他方よりも強い

場合、支配する者と支配される者という関係が生じるでしょう。また、一

定の距離を保ったどうでも良い関係というのもあるでしょう。真の平和か

らは程遠い状況だと思います。

また、そのように自分が善悪の基準になっていると、善悪を決めることが

できる唯ひとりの主権者である神様と対立することになります。神様が決

められたことよりも、自分の思いを優先させたい。神様が駄目だと言われ

ても、それを良いことにしてしまう。これを罪と言います。自分を基準と

する高慢こそ罪の本質なのです。ですから、人は例外なく、神様が人間に

与えた律法に従うことができず。神様との正しい関係を失ったと聖書は言

うのです。

イエス様は、このように失われた神様と人との関係、人と人との関係を再

創造するために十字架にかかって死に、復活なさったのです。ここでは、

イエス様の十字架が持つ二つの力に触れたいと思います。

まず、イエス様が十字架にかかられたのは、罪によって呪いの子、滅びの

子となってしまった私たち全人類の罪を帳消しにし、私たちに神の子、約

束の子としての立場を与えるためです。これを「贖い」と言います。罪の

ない神の子イエス様が、罪人の私のため、あなたのために、神の子である

イエス様が神の子とであることを捨てて、死んで地獄に落ち、代りに私た

ちに神の子の立場を与えてくださったのです。

イエス様は、十字架に磔になりながら祈られました。「父よ。彼らをお赦し

ください。自分が何をしているのか知らないのです」と。この祈りは、「彼

らの罪を、全人類の罪を私の上に置いてください。そして、彼らを赦し、

自由の身、私に代えて神の子としてください」という祈りだったのです。

父なる神様は、その愛の故に、イエス様の祈りを受け入れられました。こ

のために、私の罪、あなたの罪は帳消しにされ、私たちを訴える罪の債務

証書は破棄されたのです。

コロサイ2:13 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、

神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切

の罪を赦し、 2:14 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証

書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。

次に、イエス様が十字架にかかられたのは、私たちが自分を基準にした存

在から、神様を基準とした存在へと生まれ変わるためです。

第一ペテロ2:21 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キ

リストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模

範を残されたからです。 2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、/そ

の口には偽りがなかった。」 2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめ

られても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 2:24

そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださ

いました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようにな

るためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされまし

た。 2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧

者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

「2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担って

くださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるよ

うになるためです。」とあります。自分を基準とする存在のあり方から、神

様を基準とする存在の在り方へと私たちを変える力は、イエス様の十字架

の血にこそ、あるのです。

自分の思いを基準としない存在の在り方とは、ある意味で、友のために自

分を投げ出す生き方であると言えるでしょう。そして、そのことによって

平和が具体的に実現していくのです。イエス様は、「友のために自分の命を

捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われました。

ここのところ、メルマガでご一緒に創世記を読んでいますが、父ヤコブの

ため、異母弟のベニヤミンのためにヨセフの兄ユダが行った命がけの嘆願

の中に平和を実現する愛があるのを見ます。

生意気で父親に偏愛されているヤコブは異母兄弟である兄たちに憎まれ、

殺害されそうになります。何とか命は助かりますが、エジプトに奴隷とし

て売り飛ばされてしまいます。そこで多くの苦難を経ながらも、神様の導

きと祝福を受けて、エジプト王ファラオに重用されるようになり、宰相と

してエジプトを治めるようになります。そんな時、カナンの地で飢饉に苦

しむ兄たちが食料を買うためにヨセフの前に姿を現すのです。

ヨセフは、一目で兄たちだと分かりますが、そ知らぬ顔をして、彼らをス

パイとして扱い、シメオンを捉えて縛り上げます。そして、弟ベミヤミン

を連れ来なければ二度と食料を買いに来ることを許さないと厳しく命令し

ます。ベニヤミンは、父ヤコブが最後の望みとして決して手放そうとしな

い愛妻ラケルが生んだ末っ子です。いよいよエジプトから持ち帰った食料

が底をつき、次の年、もう一度ヨセフのところに食料を買いに行きますが、

ユダはベニヤミンを連れて帰ることをヤコブに保証して、一緒に行くので

す。

ヨセフは、ベニヤミンを見て、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになります

が、それでも自分の身を明かしません。彼は、兄弟たちが一つの心となる

ために経なければならないプロセスを熟考していました。兄弟たちと一緒

に食事をした後、ヨセフは執事に命じ、運べる限りの食料を彼らの袋に詰

め、代金の銀も袋の中に戻させます。そして、弟ベニヤミンの袋の中にヨ

セフが使う銀の杯を入れさせました。

翌朝、兄弟たちはヨセフのもとを発ちますが、ヨセフは執事に彼らを追わ

せます。ヨセフの杯を盗んだという罪のため、ベニヤミンを捕らえ、自分

の奴隷にするというのです。身に覚えのない罪を着せられ、兄弟たちは苦

悩します。「神が自分たちの罪を暴いたのだ」と。

しかし、父ヤコブが自分の命のように大切にしているベニヤミン。彼が帰

らなければ、父は悲しみと苦しみのうちに死んでしまうでしょう。

兄ユダは、ヨセフに嘆願します。「ベニヤミンの代りに私を奴隷としてくだ

さい」と。

今、ベニヤミンを救うために、ユダが命がけの嘆願をしている。ラケルの

子供たちを憎んでいたレアの子供が、今、ラケルの子供のために、自分の

身を差し出したのです。この愛の嘆願こそ、ヨセフが心の底から願ってい

たものでした。今、憎しみを越えて、兄弟が一つとなる時が来たのです。

兄弟の間に平和がつくられる時が来たのです。

ユダはふしだらな男でした。そのため子供たちも罪深く、神様の怒りを買

うような生き方をしていました。不名誉と罪の中にあったのがユダだった

のです。しかし、神様は、ユダの中に父と弟のために自分を捨てる愛を取

っておいて下さっていたのです。

イエス様は、ユダの家系にやってこられます。この命がけの愛の嘆願をし

たユダの家系の中に、神様は全人類の贖い主イエス様を送られたのです。

この愛の中にイエス様がやってきてくださるのです。

不条理な状況はあるでしょう。私たちは罪深い者でしょう。感情的軋轢も

あるかもしれない。しかし、そのような中にあって、なお、神様は私たち

の中に、家族のため、兄弟姉妹のため、友のために自分を捨て、自分を投

げ出す尊さと愛を保って下さっているのです。

ここから引き裂かれた関係が回復していくのです。平和が造られて行くの

です。私たちは、イエス様の十字架の血を受けて、平和をつくるイエス様

の実存が私たちの中に強くなっていくことでしょう。

平和を実現する者たちは幸いである。彼らは神の子と呼ばれる。

私たちは、今の日本に生きていて、捕らえられた者を救い出すために自分

の身を投げ出さなければならない状況になることは普通ないでしょう。し

かし、周囲の人が罪や失敗を犯すのを見ることは多いのではないでしょう

か。そんな時、罪を暴いたり、失敗を批判するのではなく、「神様、その罪

は私の罪です。私も同じ問題を持っています。どうぞ私をお赦しください」

と祈りつつ、その人の失敗を覆ってあげられると良いですね。それこそ、

イエス様が私たちに求めておられる祈りです。神様は、私たちがそのよう

に祈り、そのように愛し合うことを望んでおられるのです。それによって、

平和が造られて行くからです。そして、私たちを神の子と呼んでくださる

のです。

難しいことですが、イエス様の十字架の血が私たちを清めてくださる時、

平和をつくる小さな働きをすることができるようになっていくでしょう。

イエス様がなさった大きな愛の業のまねごとのようなことですが、それが

できるなら幸いです。やっと立ち上がり、やっと歩き始めた子供の目の前

で母親が手を差し出しているように、神様も私たちに笑顔を向けて「さあ、

一歩でいいから歩いてご覧」とおっしゃっているように思います。一歩歩

いて倒れても、私たちを抱きかかえてくださる神様が私たちの目の前にい

るのです。

コロサイ3:15また、キリストの平和があなたがたの心を支配するように

しなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの

体とされたのです。いつも感謝していなさい。

祈りましょう。

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