ヤコブ物語

待つ者と共に

創世記29章1節~27節
岩本遠億牧師
2009年5月3日

1995年にダニエル・ゴールマンという人がEmotional Intelligence『心の知能指数』と言う本を出版し、ベストセラーになりました。日本語にも翻訳されて話題を呼びました。それには、人生の成功・不成功を決める鍵は知能指数IQであるよりも、むしろ「心の知能指数」EQの方が大切で、EQの基礎は幼児期に形成されるという内容が書いてあります。そしてEQを伸ばすための本が何冊もでました。IQが知能指数といわれる理性的な発達の度合いを示すものですが、EQとは、理性では測れない、精神の安定度、意志、対人関係における能力などの発達の度合いを示します。

その中に、60年代にスタンフォード大学で行われたマシュマロチャレンジという実験とその追跡調査の結果が紹介されています。実験者が4歳児に次のように言います。「君にマシュマロを一つ上げよう。おじさんは、これから走って買い物に行ってくるから、もし、おじさんが帰ってくるまで食べずに我慢していたら、もう一つあげるよ。つまり、そのときは2個もらえるんだ。勿論、1個すぐに食べても良い。でも、その時はそれだけだよ。」

マシュマロというのは、日本ではそうおやつに食べたりしませんがアメリカ人の子どもにとっては嬉しくてたまらないお菓子の一つのようです。さあ子どもはどうするでしょうか。実験者が帰ってくるのを待って2個のマシュマロをもらうでしょうか。それとも、待てずに1個だけ食べてしまうでしょうか。待てない子は、実験者が部屋を出て、数秒もしないうちに食べてしまうそうです。一方、待てる子は、マシュマロを見ないように目を隠したり、独り言を言ったり、指遊びをしたり、眠ろうとしたりして、永遠に続くとも思われる15分から20分を耐え忍ぶそうです。

そして、追跡調査の結果、4歳のときに待てたか、待てなかったかが、大人になったとき、知能を含めた全人格的な資質の違いにとなって現れるというのです。これは、60年代のアメリカの機械主義的な行動心理学に基づく実験と調査結果の解釈で、妥当とは言えないことろも多いですが、待てるか待てないかが人生においてどのような意味を持つか、という問題提起をした点では、意味があったと思います。待てるか待てないかということは、重要な人格的なファクターではあります。しかし、それがマシュマロ1個を食べるか食べないかで決まってしまうならば、あまりにも悲しいことではないでしょうか。

聖書は、私たち人間の個人的な資質を超えて働く聖霊の喜びが、私たちに待つことを得しめる力であると教えています。個人の能力や性格は違います。こらえ性のある人もない人もいるでしょう。しかし、それで人生が決まってしまうのではありません。聖霊の喜びがある時、私達は待つことができるのです。聖霊の喜びには、私たちの人格的な資質を超える力があります。

今日は、聖書の中から、待たなければならなかった人々はどうしたか、神様はどのように助けられたかを見てみたいと思います。神様が待てとおっしゃる問題があります。何時解決するか分からない場合、何年も何年も待たされた場合、それでも神様が解決してくださるのを待つことができるでしょうか。それとも、待てずに、自分のやり方でやってしまうでしょうか。今日は、ヤコブの物語から「待つことの意味」と題してお話します。待てなかったのは何故か。待つことを可能にした力はなにかについてご一緒に学びたいと思います。ただ単にマシュマロを食べてしまうかどうかというような観点でない、人の罪とそれに与えられる聖霊による解決という観点から、「待つことの意味」を問いたい。神様の私たちに対する愛を知りたいのです。

今日の聖書箇所は、創世記29章1-27です。

今、今日の箇所を読んでもらいましたが、ヤコブはラケルのために14年間ただ働きしたヤコブがいました。その最初の7年間は喜びに満ちた7年間でしたが、後半の7年間は苦しみの7年間でありました。今日は、その前半部分について共に学びたいと思います。何故彼は喜びをもって待つことができたのか。

先週のお話しを復習しますと、信仰の人イサクにはエサウとヤコブという双子の息子がいました。ヤコブはエサウの弱みに付け入り長子の権を買収し、父イサクを騙してエサウが受けるべき祝福を奪い取りました。エサウに命を狙われて、メソポタミアの叔父ラバンの所に逃げているときに、夜、主なる神が夢の中に現れて、ヤコブに祝福と、どんな時にも伴ってくださるという約束をしてくださったのでした。ヤコブは夢に現れてくださった神様の言葉を現実のこととして受け取り、信仰を告白し、記念し、誓願を立て、新しい人生を歩きはじめました。先回は、このことから、神の選びと主権についてお話しました。
今日は、叔父のラバンのところで待ったヤコブ、子どもがなかなか生まれずに待てなかったラケルの事例を基に、待つことの意味を考えてみたいと思います。

ヤコブは、母リベカの生まれ故郷につきました。そこで、井戸端(人が集まるところ、出会いの場所、情報を得る場所)にいると従姉妹のラケルが父ラバンの羊を連れてやってきました。羊を飼っていたヤコブは、ラケルを助け、一目惚れ。一挙に相思相愛の関係になりました。

一方、伯父のラバンは、ヤコブを別の目で見ていました。以前ラバンは、伯父のアブラハムのところから遣わされた僕が多くの結納金と結納の品を持ってリベカをイサクの妻として迎えに来たのを憶えていました。ところが今回は、裸一貫で何も結納の品となるようなものは持っていない。彼は、エサウに命を狙われ、自分の土地から逃げてきた。そちらに帰ることができない。それなのに娘のラケルと相思相愛になっている。ラバンはヤコブが自分の労働の報酬としてラケルをもらいたがっているのを知っていて敢えて質問します。
「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬が欲しいか言ってください」

ヤコブは、言下に「ラケルのために7年間、あなたに仕えましょう」といいました。7年とは聖書の中で完全数です。ラケルのために自分のすべてを捧げてもかまわないと言ったのと等しいのです。現地の当時の結納金の額からいうと破格の申し出でした。聞いたラバンも驚きました。そして、内心思いました。「この男はラケルのためならなんでもする。毟り取れるだけ毟り取ってやろう。」

いよいよ7年の時が過ぎ、結婚ということになったとき、伯父のラバンはヤコブを欺きます。ラケルにはレアというお姉さんがいました。このレアは「目が弱々しかった」とあります。これにはいろいろな解釈がありますが、単にラケルは非常な美人で、レアはそうでなかったという説。それから、ラケルとレアは容姿も顔つきも似ていたが、レアは虹彩が黒くなかった。つまり、中東の男性が好んだ黒い瞳ではなかったという説もあります。何れにせよ、ヤコブはラケルを愛しており、レアは目に入っていませんでした。

ラバンは、結婚式の後、夜になってからレアをヤコブのところに行かせたのです。何故かと言うと、それは、ヤコブをもうあと7年間、ただ働きさせるためです。ラバンは「われわれのところでは、長女より先にに下の娘を嫁がせることはしないのです」と言いましたが、ヤコブは、完全に足元を見られていたのです。帰りたくても帰る家がない。そして、ラケルのためには、どんな代価を支払っても惜しくないと思う、直情径行型の人間であることを。ラケルは一週間後に与えられましたが、あと7年間ただ働きしなければならなくなりました。

しかし、このことを通して、ヤコブは重要なことを神様から教えられたのです。それは、欺かれるものの心を理解するということです。ヤコブは父イサクを欺きました。イサクは最愛の息子に欺かれたのです。目が見えなくなり、光を失ってしまったイサクは、暗闇の中でヤコブに欺かれました。同じように、ヤコブも暗闇の中でラバンに欺かれたのです。光のない闇の中で欺かれる悔しさと憤り、そして失望をヤコブも経験しなればなりませんでした。

ヤコブは、神様に祝福され、いつも一緒にいるという約束を頂いていましたが、自分が犯した欺きの罪についての報いは受けなければならなかったのです。そして、彼は成長しました。

では、何故ヤコブは待つことができたのでしょうか。ポイントは、次の言葉です。

「ヤコブはラケルのために7年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた」29:20

ラケルを愛していたから、待つことができたのです。ヤコブはラケルの愛を知っていました。一緒になることはできませんでしたが、愛は時間を忘れさせる力があります。また、ラケルもヤコブを待たなければなりませんでした。しかし、ヤコブに対する信頼と愛がそれを可能にしたのです。

ヤコブは羊飼いでした。ラケルも羊飼いでした。ラケルは父ラバンの羊を飼っていたのですから、ヤコブがラバンの羊を飼うということは、一緒に仕事をすることができたということです。一緒にいることの喜びがあったから、結婚するまでの7年間を数日のように感じたのだと思います。結婚はしていませんでしたが、お互いを信頼していました。心の中に愛を経験することができたから、未来を信じることができたのです。確実な未来が来ることを信じることができたから、待つことができたのです。愛は未来を信じることができる力です。

皆さん。イエス様は、あなたの未来を信じ、未来を用意し、あなたを待っておられます。

待つことは信じること。待つことは愛すること。待つことは赦すこと。そして、待つことは生かすことです。

神様が私たちに「待て」とおっしゃる時がある。そんな時、誰が私たちの心を支え、焦る心を静めてくださるのでしょうか。それは、「待て」とおっしゃる私たちの神、イエス様の御霊です。

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ローマ5章3-5節

私は待てない人間でした。自分が正しいと思ったことは、すぐに実現しなければ気が済まない人間で、多くの人を傷つけて来たと思います。そんな私が待つということを学ぶようになったのは、「元気の出る聖書の言葉」を配信するようになってからだと思います。

聖書の中には自分の思い通りに事を進めようとして失敗する人間、罪の中に陥る人間、神様に不平不満をぶつける人間が次から次に登場します。しかし、神様は彼らを我慢し、彼らに人生の苦難を与え、彼らを練り直そうとなさいます。彼らが神様の御心を知ることができるようになるまで、神様はじっと彼らをお待ちになるのです。

聖書の中には、「主を待ち望め。強く雄々しくあれ」という言葉が何度も何度も出てきますが、実は、神様のほうが彼らを待っておられるのだということを、聖書を学びつつ知ることができるようになりました。

こんな私を待って下さっている神様がいる。聖霊が私の心に注がれ、待って下さっている主を啓示して下さる。すると、少しずつ少しずつ待つことを学ぶことができるようになっていく。7年間かけて、私は少しずつ変えられてきました。主が共にいて下さったからです。

「元気の出る聖書の言葉」のメッセージを書くことが、私にとってどんなに大きな力となってきたか。私自身を変える力となってきたか。そこに主がおられるからです。

パウロは、イエス様を伝えたために捕えられ、牢獄の中に数年間幽閉されました。いつ裁判が開かれるとも分からないような状況の中で、彼は希望を失わず、それまでに自分が伝道に行ってイエス様を伝えた人々に手紙を書きます。獄中書簡と言われるエペソ、ピリピ、コロサイ、ピレモンは、パウロの書簡の中でも霊的な喜びにあふれたものです。何故、そのような喜びが彼にあったのか。何故彼は苛立たず、待つことができたのか。それは、主が共におられたからです。主がすぐそばで、パウロを励まし、教え、支えられたからです。ここにパウロの喜びの秘密があるのです。

先ほどのマシュマロチャレンジには、霊的に大きな間違いがあります。それは、4歳の子どもが一人で自分の欲望と戦い、待つことを要求されるということです。誰か大人が一緒にいてくれたら待つことができます。欲望と一人で戦わなくても良いのです。成長する過程においても、大人になっても、イエス様が一緒にいて支えてくださるから、私達は大丈夫なのです。イエス様は、私たちと一緒にいてくださると約束してくださった神様です。一人で欲望と戦わなくて良い。一人で待たなくて良い。一人なら待てなくても、二人なら待てるのです。イエス様が一緒にいてくださって、私たちを支え導いてくださる。仮に私たちが失敗しても、イエス様がそれをカバーしてくださる。ここに私たちに与えられる祝福があるのです。

祈りましょう。

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