「ルカの福音書」 連続講解説教

従うことを学ぶ

ルカの福音書第2章41節〜52節
岩本遠億牧師
2021年11月21日

“さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。

両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。

それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。”
ルカの福音書 2章41~52節

過ぎ越しの祭り

申命記 16章16節
あなたのうちの男子はみな、年に三度、種なしパンの祭り(過ぎ越しの祭り)、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主が選ばれる場所で御前に出なければならない。主の前には何も持たずに出てはならない。

イスラエルと、地中海世界、メソポタミヤ、アラビアに住むユダヤ人と改宗者がエルサレムに集まり、動物(羊)を捧げ(自分で屠る)、それを家族(や友人)と共に食べて出エジプト(過ぎ越し)の出来事を記念する。

改宗者にとっては、自分がアブラハム・イサク・ヤコブの子孫とされたことを完成する重要な儀式。当時、改宗してユダヤ人になった人たちのほうが多かったと言われる。(エジプトだけで100万人とも)

ナザレ からも集団(巡礼団)でエルサレムに上る
最低で3日の道のり

イエスの両親も、イエスも毎年エルサレムに上り、過ぎ越しの祭りを祝っていた
→イエスも12歳のとき、両親と一緒に過ぎ越しの祭りのためにエリサレムに上った

キリスト時代のエルサレム神殿

そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。

座る=教えを受ける者の姿勢

両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」

すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」

King James Bible
And he said unto them, How is it that ye sought me? wist ye not that I must be about my Father’s business?

New King James Version
And He said to them, “Why did you seek Me? Did you not know that I must be about My Father’s business?”

わたしが、わたしの父の____にいるべきことをご存知なかったのですか。

家、業、ところ・・・

主イエスがいるべきところ(=御父のところ)からこの世に来られた

それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた(=服従した)。

ナザレで主イエスは養父ヨセフに従った。どのように従ったのか? 何をしたのか?

ツィポリ ナザレから数キロのガリラヤ州都。半円劇場、行政府、石造りの高級住宅等が立ち並ぶ大都市。ローマ神話のモザイクの傑作。ナザレから数キロのガリラヤ州都。石畳の広い道路とモザイクの道。ヘロデ・アンティパスによって紀元前6年ごろから建造。

ナザレ は、ツィポリ建設のために労働力を供給する村であった。イエスの父ヨセフもイエスもここで日雇い労働者(大工)として働いていたことはほぼ確実(近年の考古学的発見による)。

高級住宅のモザイク床
ヨセフは住宅の大工として働いていた。イエスもヨセフと共に働く。
ユダヤの社会では動物や人を題材にしたデザインは偶像崇拝とされていたが、ここツィポリでは、このような題材のモザイク床が作られていた。
ギリシャ・ローマ神話の偶像
ヴィーナス(セックス宗教のシンボル)のモザイク
酒を飲み過ぎて嘔吐するバッカス
住宅地跡
半円形劇場 上に見えるのは十字軍時代の砦跡

・神のことばを学んだ神の都エルサレムの神殿とは、かけ離れたローマ神話と偶像の大都市ツィポリで養父ヨセフの指示に従い10数年間労働者として働く。神が人となってこの世に来たということを、ご自分の体験の中に刻み込んだ10数年間。主イエスの謙遜、しかし、人に仕えることの喜びと尊厳はこの時に形成された。

・人に従い、仕えることを体の芯まで学び、身につけなければ、神に従うことはできない。主イエスは、これを12歳から伝道に立つまでの約20年間徹底的に学ばれた。

“イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。”
ヨハネの福音書 5章19節

“そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」”
マタイの福音書 20章25~28節

・また、ここでの異教徒との触れ合いを通して、形式的律法遵守主義ではない、律法の真の精神についての洞察を得るようになった。

“そのころ、パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません。」

そこでイエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、その物をもって父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」
イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」”
マタイの福音書 15章1~11節
“イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。
口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。
悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」”
マタイの福音書 15章16~20節

・主イエスは異教徒と触れ合うことを恐れない。
 →福音が世界に広がる基礎

“イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、
「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」

イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。”
マタイの福音書 8章5~13節

“キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。”
ピリピ人への手紙 2章6~11節

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