「マタイの福音書」連続講解説教

恐るべき方

マタイによる福音書10章24節から32節
岩本遠億牧師
2007年7月8日

10:24 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。 10:25 弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」

10:26 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。 10:27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。 10:28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 10:29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。 10:30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。 10:31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

10:32 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。 10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

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今日も私たちは、礼拝のためにここに集まっております。私たちは、何故ここに集まっているのか、私は時々皆さんにご質問いたしますけれども、このことは、礼拝に来るたびに意識しても良いことなのではないかと思います。

礼拝とは、そもそも「ひれ伏す」というのがその元々の意味です。ですから、私たちが日曜日ごとに集まっているのは、ひれ伏すためであり、また、日曜日に限らず祈り、礼拝者として生きるということは、ひれ伏しながら生きるということであります。

これは、私たちが、その前にひれ伏すべきお方がいるということであり、私たちの存在の全てで恐れなければならない方がいるということです。私たちが礼拝者として生きるとは、真に恐るべき者は誰なのかということを知って生きるということです。

イエス様は、伝道にお遣わしになる弟子たちに向かって(そして、私たちに向かって)、「10:28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と仰っている。何故このように言われたかというと、人間は、体を殺すことはできるが魂を殺すことができない者を恐れているからです。そして、その恐れは、体も魂も両方とも滅ぼすことができる方を恐れていないからだと言うのです。「もし、君たちが、体も魂も滅ぼすことができる方を真に恐れ、この方と共に行き、この方の御心に従って生きるなら、体だけしか殺すことができない者を恐れることはなくなる。なぜなら、この絶対的な主権者である神様が、ご自分を恐れる君たちを守るからだ」とイエス様は仰っているのです。

聖書は、霊魂の不滅ということを教えません。世の中には、霊魂の不滅ということを説く宗教や宗教もどきのものが溢れています。昨今のスピリチュアリティーブームは、基本的に霊魂の不滅ということを前提にしています。何度もこの世に生まれてきて輪廻転生を繰り返すという思想もそうです。

近頃「千の風になって」という歌が大ヒットしたのも、霊魂の不滅というメッセージ性に人々が共感したらだと思います。確かに、「千の風になって」の元の詩は、ユダヤ的な精神に基づいて作られたものであろうと言われますが、聖書は、霊魂が不滅だとは言わないのです。人には、自動的に永遠の命が与えられるわけではありません。不滅なのは、ただ一人の主権者、ただ一人の創造主である神様だけです。人を創造なさった方は、その霊魂をも創造なさったのです。人の肉体を塵に帰られる方は、人の霊魂をも滅ぼされる方だということを私たちは知らなければなりません。私たちには、私たちを創造なさった創造主がいるのです。

しかし、この方は、人を永遠に生かすことができる方です。この方は、私たちに永遠の愛を注いで、私たちを永遠に生かそうとしておられるのです。私たちは、この方を恐れ、この方の前にひれ伏して礼拝する者となったが故に、霊魂が永遠に救われたのです。この方が、私たちを愛し、滅ぶべきものを十字架の贖いによって救って下さったから、イエス様との永遠の愛の絆の中に生かされるようになったのです。

私たちは、この体をもって生きていて、神様以外のものを恐れるということから完全に自由になることは難しいと思います。イエス様のこの言葉を直接聞いたペテロをはじめとする弟子たちも皆そうでした。誰も、自分の決心で神様以外のものを恐れなくなることはできません。

「10:32 だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。 10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

イエス様が言われたこの言葉を読んで、十字架を前にしてイエス様のことを知らないと言って否定したペテロのことを思い出した方もおられることと思います。ペテロは、イエス様に出会って、イエス様こそイスラエルの王となってイスラエルを外的ローマから救って下さる方、生ける神の子と信じて従ってきました。自分の家をイエス様の伝道の拠点として提供するほど、イエス様のすぐそばで、イエス様と行動を共にしていたのがペテロでした。

しかし、当時のイスラエルの宗教的指導者階級であった律法学者たちや祭司たちとの対立が深まり、イエス様は彼らに捕まってしまうのではないかという状況にまでなった時、ペテロは言いました。「他のみんなが躓いても、この私は決してあなたのことを知らないなどとは言いません。あなたとご一緒に死ぬ覚悟はできています」と。それに対してイエス様は言われました。「君は、今晩、鶏がなく前に三度、徹底的にわたしを知らないと言うだろう」と。

いよいよイエス様は捉えられ、大祭司の官邸に引かれていきました。ペテロも心配だったんだと思います。その後をついて行きました。しかし、女の子に、「あなたもナザレ人イエスの仲間でしょう」と言われたら、「いや、違う」と否定してしまうのです。彼は恐れに捉えられました。そして、とうとう、3度もイエス様を否定し、最後には、「もし、私があのナザレ人イエスと関係があるのならば、神が私を幾重にも罰して下さるように」と自分に呪いをかけて否定してしまったのです。ペテロは、それほど恐れました。

その時、彼は、イエス様のこの言葉を思い出さなかったでしょうか。

「10:32 だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。 10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

「自分がイエス様を知らないと言った。もうイエス様との関係は切れた。イエス様も私のことを知らないと言うと仰ったのだから。」彼は、絶望しました。全てを失ったのです。神様との関係を失いました。

しかし、十字架にかけられ、殺されたイエス様が復活して、そんなペテロのところに現れました。そして、ペテロに三度、徹底的に告白させて下さるのです。「あなたは、私があなたを愛していることをご存知です」と。今、自分の決心で「あなたを愛している」とは言えない自分がいます。彼は、「私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と告白しました。「主よ、あなたは、私のあなたに対する思い、愛も、申し訳なさも、また、私の弱さも、情けなさも全てをご存知です」と告白したのです。イエス様は、お答えになりました。「わたしの羊を飼いなさい。わたしの教会の世話をしなさい」と。

そして、イエス様は天に帰っていかれましたが、ペンテコステの日に、天から圧倒的な聖霊を注いで、ペテロを徹底的に造り変えられたのです。ペテロは、聖霊を受けて立ち上がりました。そして、エルサレム中にいた人々に宣言したのです。

「あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを神は甦らせられた。このイエスこそただ一人の救い主。人間が救われるべき御名は、天にも地にも、このイエスの御名しか与えられていない」と。そして、どんなに捕らえられても、鞭打たれることがあっても、彼は、イエス様が死を打ち滅ぼしたこと、甦って今も生きていること、この方だけが真の主なる神様であることを語り続け、決して黙ることはなかったのです。

ペテロを変えたものは何だったんでしょうか。私たちは、ペテロを変えたものに生かされたいのです。自分の決意や意志などではどうすることもできない恐れを超えさせる方、いや、恐れを打ち砕く方、聖霊に私たちは、満たされたいのです。

聖霊は、イエス様が仰った言葉が本当に良く分かるように私たちを導いて下さいます。「10:29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。 10:30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。 10:31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

雀は当時の庶民の食卓に上るおかずだったそうです。1アサリオンとは16分の1デナリ。1デナリは、労働者の1日分の賃金と言われますから、決して価値の高いものとは思われていなかった。しかし、人の目には無価値に見える一羽の雀さえ、天の父は守っておられる。天の父のお許しがなければ地に落ちることはないのだ。また、やがて抜けていく私たちの髪の毛の一本一本さえ、神様は守っておられるのだ。

聖霊が与えられるとき、体も魂も全てのものを滅ぼすことができる方が、この髪の毛の一本も、またあの雀の一羽さえ愛し、守っておられる方なのだということが良く分かってくるのです。私たちがひれ伏し恐るべき方、しかし、この方は、私たちを背負う方なのです。私たちを決して見捨てない方なのです。

皆さん、どう思われますか。ご自分を否定し逃げて行ったペテロを赦し、聖霊を注いで立ち上がらせた方がおられます。本当に恐るべき方の前にひれ伏す時に、与えられる神の子の尊厳があるのです。世の中のものは、いろいろな方法で私たちの尊厳を汚そうとします。いろいろなことを言って私たちを呪い、私たちを脅し、恐れさせようとします。私たちは、恐れることがあるでしょう。しかし、イエス様を自分の神として信じ、この方に頼って生きて行きたいと願う人を一人も見捨てることなく、愛し、赦し、聖霊を注いで下さる方がいるのです。聖霊が、私たちの内側でイエス様を告白して下さる。イエス様は生きていると。この方こそ生ける真の神であると。そして、この方が、私たちを内側から支え、励まして下さるのです。「わたしは、あなたの髪の毛一本一本を守っている。わたしは、あなたを決して見捨てず、見放さない」と。

この方を恐れ、この方に信頼し、この方に愛され、この方を愛する神の子としての生涯を、皆さんも与えられたいとは思いませんか。この方が、永遠にあなたを背負って下さるのです。

祈りましょう。

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