「ルカの福音書」 連続講解説教

恐れなくて良い根拠がある

ルカの福音書講解(65) 第12章22節〜34節
岩本遠億牧師
2013年1月20日

(今回は文字だけとなります)

12:22 それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。 12:23 いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。

12:24 烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。 12:25 あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

12:26 こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。 12:27 ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。 12:28 しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。

12:29 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。 12:30 これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。 12:31 何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。

12:32 小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。

12:33 持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。 12:34 あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。

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昨日今日と大学入試のセンター試験が行われており、私たちの教会にも試験を受けている若者たちがいます。私たちは、彼らがこれまでに蓄えた力を十二分に発揮して、テストを乗り越えて人生を切り開いて行ってほしいと願い、また祈っています。しかし、希望の大学に入れたら人生は成功で、そうでなかったらそれで人生が終るわけではないということを知っておくこともまた重要なことであります。私たちは若い時からずっと人生のチャレンジを繰り返すわけですが、成功するときもあり、失敗するときもあります。しかし、そこで私たちに本当の力と勇気、希望と祝福を与えるのは、私たち一人一人が自分のものではなく、私たちの神イエス・キリストのものであるということなのです。

先週、私たちは、「生きるにしても、死ぬにして自分がイエス様のものである」ことを知ること、それが平安に生き、平安に死ぬ秘訣である。自分がイエス様のものである、そのことだけが生と死を貫く、私たちの存在の基盤なのだということを学びました。この方が私たちの中に動くことのない基盤を据えて下さる時、私たちは「思い煩い」から解放されて行くのです。

今日の箇所で、イエス様は弟子たちに「心配するな。思い煩うな」と仰っていますが、29節には「気をもむ」と訳されている言葉があります。これは元々、「高く上げる」ということを意味するものです。ある注解書によると、思い煩いの原因は、人間が自分を高く上げようとするところにある。すなわち、高慢が思い煩いの根であるというのです。

神様がどれだけ自分を尊く、素晴らしいものとして造って下さっているのか、それにどれだけのいのちを注ぎ、どれだけ活かそうとして下さっているのか、どのように用いようとしていらっしゃるかを知らないと、自分で自分を高めようとする、それが思い煩いとなるのだと。何故か、そこに恐れがあるからであります。

ここでイエス様が弟子たちに語っておられること、そして私たちに語っておられることは、恐れからの解放であります。イエス様は、「心配するな。恐れるな」とおっしゃるとき、必ず理由をご説明になります。恐れなくて良い根拠があるのです。これは、戦いやスポーツの試合などで「恐れずにぶつかれ!」などと命令するのとは全く異なるものです。気持ちを奮い立たせよというのではありません。怖がらずにやったほうが壁を突破できるというのではありません。あなたがたの天の父を理解せよ。この方を見上げよ。この方のお心を知り、この方があなたがたをどれほど愛し、どれほど尊いものとして活かそう、用いようとしておられるのかを知りなさい。そうしたら恐れから解放されると。恐れなくて良い根拠、それは父なる神様ご自身であるとおっしゃるのです。イエス様が私たちに願っておられることは、父なる神様を知ることだけなのであります。そして、恐れなくても良い根拠を次々とお話しになる。読んで行きましょう。

「いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。 12:23 いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。12:24 烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。」

あなたに与えられているいのちは、食べてものよりも遥かに価値があるではないか。神様はあなたに与えたいのちを活かそうとしておられる。必要を満たそうとしておられる。着るものよりも体のほうが価値があるではないか。あなたに体をお与えになった神様は体を覆う着物をも与えてくださるのだ。カラスは、汚れたものとされていました。しかし、そのようなカラス、しかも種まきもせず、刈り入れもせず、納屋や倉も持たないカラスを養っておられる神様がいるではないか。神様は、あなたがたはカラスよりも価値ある存在として創造されたのだ。あなたは神の姿を映すものとして創造されたのだ。あなたのいのち、あなたの体を創造なさった方は、あなたの存在に目的をもっていらっしゃるのです。あなたにしかできない愛の業、神様の栄光の業を行わせようとしていらっしゃる。あなたを尊く用いようとしておられるのです。その目的を達するために、神様はあなたのいのちと体を支えて下さる。そのために必要な食べ物、必要な着物を備えることなど、神様に難しいことではないのだ。だから安心せよと。

「12:27 ゆりの花のことを考えてみなさい。」ここでユリというのはアネモネのことだと言われています。乾燥した荒れ野に雨が降ると、一気に芽を出し、花を咲かせるアネモネ。しかし、熱風によってすぐに枯れてしまい、薪代わりとして燃やされるのがアネモネです。イエス様は言われます。「ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。 12:28 しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。」

あなたは、自分で自分を美しく見せようとして、高価な服で身を包みたいと考えているかもしれない。そうすれば自分の価値が高まったと考えているかもしれない。しかし、あなたを輝かせ、あなたを美しくするのは、神様ご自身の御霊なのです。神様の霊、聖霊があなたに注がれる時、あなたは輝き出すのです。どんなお化粧も、どんな衣装も色あせて見えるほど、あなたは輝く。栄華を極めたソロモン王でさえ、その輝きには遠く及ばないのです。

ある時、集う人がとても少ない夜の礼拝に年配のクリスチャンのご婦人が初めて来られました。主がその方に直接与えられた導きについてお話しをしておられましたが、そのお導きの意味が良く分からないご様子でした。私はそれについてご説明し、ご一緒に祈りました。その方は、私の説明を聞き、祈っている間に泣き崩れ、お化粧がすっかり取れてしまいました。しかし、そのお顔はイエス様の光に照らされて喜びに満ち、美しく輝いていました。

私は、日曜日にメッセージをする働きを与えられていますが、メッセージを語りながら、大きな喜びに包まれることがあります。それは、聞いてくださっている方々のお顔が輝き出すのを見るときです。メッセンジャーとしてこんな喜びはありません。

神様が私たちを美しく装わせて下さるという時、このようなことを言うのです。高価な宝石や衣装を与えてくださると言っているのではありません。イエス様の御霊、聖霊が一人一人に触れて下さる時、輝き始める。どんな衣装、どんな宝石も色あせて見えるほど、お一人お一人が輝き始める。イエス様はそのように装わせてくださるのであります。

「12:29 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。 12:30 これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。 12:31 何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。」

あなたがたにそれらが必要であることをあなたがたの天の父である神様ご自身が既に知っておられるのだと。だから、自分を高めようとして自分のためにあくせくするのを止めなさいと。神の国を求めたら、それは全部ついて来るよと。

小さな子供が、一人になってしまい、お腹が空いた時、どうするでしょうか。食べ物だけを探すでしょうか。「お母さ〜ん。ママ〜」と呼ばないでしょうか。お母さんがやって来たら、語りかけてくれる。抱きしめてくれる。安心感を与えてくれる。そして食べ物はお母さんと一緒について来るのです。それだけではありません。汚くなった服を脱がせて、奇麗な服に替えてくれるのです。汚れた体を洗ってくれるのです。

イエス様は言われました。「誰でも、子供のように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに入ることはできない」(18:17)と。子供は、お母さんはいらない。ご飯だけが欲しいとは言わない。お母さんの中に自分の必要の全てがあることを知っているからです。子供のように神の国を求めよ。神様ご自身を求めよ。そうすればこれらのものはついて来ると。

そして言われます。 「12:32 小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」弟子たちに向かって、「小さな群れよ」と語りかけられる。これから多くの人たちが寄ってたかってイエス様と弟子の集団を潰そうとするような事態が起きて来ます。今既に、雑多な人たちの大集団が、弟子たちを取り囲み、ああだ、こうだと言っている。弟子たちには恐れがあった。不安があった。

しかし、イエス様は言われるのです。「あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになる」と。「御国をお与えになる」とは、「あなたがたをとおして神の国がこの地に造られて行くのだ。あなたがたによって神様の支配がこの地に確立して行くのだ」という意味です。あなたがたをとおして神様がこの地になそうとしておられる愛の業がある。あなたがたをとおしてそれを成し遂げようとしておられる神様が、あなたがたを見捨てることなど、あり得ないではないか。

しかも、神様があなたがたを選ばれたことは、神様の喜びなのだと言われるのです。ここで「喜んで」という言葉がありますが、これは、洗礼者ヨハネからイエス様が洗礼を受け、聖霊を受けて神の子としての自覚に立たれた時、父なる神様がイエス様に言われた言葉、「あなたはわたしの子、わたしはあなたを喜ぶ」という言葉の「喜ぶ」と同じです。父なる神様がイエス様を喜んでおられるのと同じように、私たちを神の国のために選び、喜んで下さっている。父なる神様があなたがたを喜んでおられるのだ。だから安心せよ。恐れるなとおっしゃるのです。

イエス様の福音を地中海世界に伝えるための偉大な働きをしたパウロという伝道者がいました。パウロは、ユダヤ人たちからの迫害、異邦人たちからの迫害に屈せず、キリスト伝道を続けますが、ついにはそのために捕らえられ、ローマ皇帝による裁判を受けるために、ローマに送検されることになりました。地中海を船で進んでいましたが、暴風雨が起こり、十数日間に及びました。船乗りたちでさえ死を覚悟するまでになったその時、神の使いがパウロに現れ、言いました。

「恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。」「恐れるな、パウロ。あなたは必ずローマ皇帝の前で、キリストについて証をするのだ。あなたは、同船している人々の助けとなるのだ。」「神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです」というのは、「あなたに、同船している人々のいのちが委ねられている。つまり、あなたがいるから彼らも助かるようになる」という意味です。

死と直面したパウロを勇気づけたのは、「神があなたに与えた使命はまだ終わっていない。神はあなたを必要としている。あなたを必要としている人がいる」というメッセージでした。パウロは立ち上がりました。そして、同船の人々を元気づけ、勇気づけたのです。

神様があなたの人生に備えられた特別の目的と価値があります。パウロのような働きではないかもしれません。しかし、神様はあなたを必要としておられるのです。あなたを待っている人がいるのです。それを成し遂げて天に帰るまで、神様があなたを見捨てることは決してないのです。あなたに必要な食べ物を与え、必要な衣服を与え、イエス様ご自身の輝き、聖霊の輝きをもって満たして下さる。

このことが本当に分かって行く時、私たちは自分が握りしめていたものを放して行くようになるでしょう。物欲から解放され、自分が持っていたものを苦しんでいる人たち、助けを必要としている人たちのために使うようになって行くでしょう。恐れから解放されるからです。その時、イエス様が言われた言葉が私たちの中に実現して行くのです。

「12:33 持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。 12:34 あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」

どうぞ皆さん、覚えて頂きたい。イエス様は私たちに「恐れるな」と言われました。しかし、それには私たちが恐れなくても良い確実な根拠があるからです。神様には私たちを創造した目的と理由があるのです。それを成し遂げるまで神様が私たちを見捨てることなどあり得ないのです。恐れがやって来る時、思い煩いがやって来る時、祈りましょう。「神様、あなたが私を創造し、今この地に置いておられる目的と理由は何ですか。あなたは私に何をさせようとしておられるのですか。」

すぐには分からないかもしれません。しかし、すべてが神様の愛のご計画の中にあるのです。何年も何年も経つうちに、次第と明らかになって来る。神様が私たち一人一人を創造した目的と理由も、人生の道を歩いて行くうちに、次第次第に明らかにされて行くのです。今すぐにそれが分からなければ、あなたの存在の目的と理由がないということではありません。今分からなくても、あなたを創造なさったかたは、あなたの存在に目的と理由を持っていらっしゃるのです。そして、それを成し遂げるまで、決してあなたを離れず、あなたを見捨てることはありません。

「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」創世記28:15

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