「マタイの福音書」連続講解説教

愛は裁きを超える

マタイの福音書第13章24節〜43節
岩本遠億牧師
2020年8月2日

イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。それで、しもべたちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』主人は言った。『敵がしたことだ。』すると、しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」

イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」

イエスはまた、別のたとえを彼らに話された。「天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの小麦粉の中に混ぜると、全体がふくらみます。」イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話された。

たとえを使わずには何も話されなかった。それは、預言者を通して語られたことが、成就するためであった。「私は口を開いて、たとえ話を、世界の基が据えられたときから隠されていることを語ろう。」それから、イエスは群衆を解散させて家に入られた。

すると弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスは答えられた。「良い種を蒔く人は人の子です。畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです。ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。

世界=御国=教会
良い麦=イエスの言葉を植え付けられ、育った人格
毒麦=悪魔の言葉を植え付けられ、育った人格

問題:良い麦と毒麦を間違える可能性
    恵の福音と律法主義

毒麦の譬え
 間違ったイメージ→人を裁く基準
  ・自分は良い麦、毒麦は他の人

 自分自身の振り返りの必要
  ・自分は毒麦では?
  ・自分の中に良い麦と毒麦が混在しているのでは?

イエスの解説
  1.あなたは人を裁くな←間違った判断の可能性
  2.裁きは神のものであるから
     終わりの日に毒麦に与えられる滅び
     良い麦に与えられる栄光

変化の可能性も見据えておられるのではないか?

人の心の中にある良い麦と毒麦
ペテロがイエスを「生ける神の子キリスト」と告白した時
・「あなたは岩だ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」
・「引き下がれサタン!」

「人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」

つまずき=罪の原因=自分は義であるとの思い
不法を行う者=自分の義を行う者

正しい人たち=義人←×自分の行いの正しさ
          ○イエスの十字架の血だけを頼る者

ローマ3:20〜24 日本聖書協会共同訳
なぜなら、律法を行うことによっては、誰一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないからです。しかし今や、律法を離れて、しかも、律法と預言者(=旧約聖書)によって証されて、神の義が現されました。神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業(=十字架)を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。

コリント人への手紙 第一 13章1~13節
“たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。”

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