「マタイの福音書」連続講解説教

憐れみ深い者は幸い

マタイによる福音書講解説教5章7節
岩本遠億牧師
2006年9月24日

憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。

イエス様が教えておられる祝福、イエス様が私たちに与えようとしておられる祝福について少しずつ学んでいます。イエス様は、マタイによる福音書の5 章で8つの祝福についてお語りですが、先週まで学んだ4つの祝福は、低められる者の祝福、神様の前、また人との関係において謙遜である者の祝福を表しています。今日から見ていく後半の4つの祝福は、メシア的人間像、あるいは、イエス様に似せられていく者の祝福を語っておられるといわれます。今日は、その中から、7節「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける」を学びたいと思います。

日本語の「憐れみ」という言葉に私たちはどのような意味を感じているでしょうか。私たちは、自分が人から憐れまれるのを好まない傾向があります。それは、「憐れまれる」ということが、屈服すること、あるいは、見下げられることとの対価として何かを与えられることと感じるからです。少なくとも日本語の意味としてはそうだと思います。

勿論、憐れみを受けることに抵抗を感じるのは、私たちの高慢だからですが、聖書が「憐れむ」とか「憐れみ」「憐れみ深い」という言葉をどのような意味で使っているかを知ると、私たち自身、憐れみを受けることに抵抗がなくなり、また「憐れみ深い者」となるよう、神様のお導きと内的なお取り扱いを受けやすくなっていくでしょう。

ここで使われているギリシャ語の「憐れみ」という言葉は、エレオスですが、「困窮している人に対する親切や愛」と辞書にあります。「可愛そうな人だな」と突き放して見るようなものではなく、具体的行動をもって、必要を満たす行為のことをエレオス「憐れみ」というのです。

さらに、エレオスは、ヘブライ語のラハミムとヘセッドという二つの言葉の意味を含むものだとの説明が聖書辞典にあります。ラハミムとは「胎」を表わす言葉からの派生語ですが、イザヤ書に「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子を憐れまないだろうか」(49: 15)という言葉があります。これを見ると、ここで言う「憐れむ」という言葉が「可愛そうに思う」とか「惨めな奴だと思う」という意味でないことは明白です。詩篇の103篇にも「父がその子供を憐れむように、主は、ご自分を恐れるものを憐れまれる」という言葉ありますが、やはり、この憐れむは「可愛そうに思う」ということではありません。端的に言えば、親が子供を自分の命と同じように扱うとか、自分の命と同じように大切にするという意味です。子供が他の子に苛められたり、怪我をしたり、ひどい病気に罹ったりしたら、親はたまりません。母親の中には、どうしたら良いかわからなくなってしまうほど取り乱してしまう人もいます。親の子供に対する愛情というものは理性で測れるようなものではないからです。それ程までに自分の体のように愛することをこの言葉は意味しています。

 聖書は、神の人間に対する愛、ラハミムは、母親の子供に対する愛以上のものだと述べています。先程のイザヤ書の言葉には「たとい、女たちが忘れても、このわたしは忘れない」という言葉が続きます。「母親は決して子供のことを忘れない。しかし、もし母親が自分の子供のことを忘れるようなことがあったとしても、このわたしは、あなたを忘れない」とおっしゃっていてくださいます。子供に食べ物を与え、服を着させ、危険から守り、怪我をしたときには薬を付け、病気になったら、自分の布団にいれて看病するのが親の姿です。神の私たちに対するラハミムは人間の親以上のものだと言っているのです。

 一方、ヘセッドとは「不変の愛」と訳されますが、これは契約に基づく愛で、神がアブラハムに「私はあなたとあなたの子孫を祝福する」とご自分にかけて誓われたことによるものですが、神は、この誓いの言葉によって、見捨てられても仕方がないようなイスラエルに対し「わたしは決してあなたを見放さず、捨てない」と語りかけ、守り、祝福の道へと導いて下さるのです。

 このように、エレオスは神の愛のご性質であって、決して絶えることのない愛、変わることのない愛をもってわたしたちをご自分の体の一部のように大切に取り扱って下さるということです。ですから、「憐れみ深い者は幸いだ」というとき、このような神様の愛を与えられ、他の人に流すことができるものは幸いだということです。この愛は、心のなかの優しさとか口先のことではありません。イエス様が「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とおっしゃるとき、行いと真実を持って愛することを求めておられるのです。「あなたが自分に対して行うように、あなたの隣人の必要を満たしてあげなさい」ということです。そのとき、「ああ、何と祝福されていることか」という世界があなたに広がるとイエス様は教えておられます。

イエス様は、それに続けて、「その人は憐れみを受ける」とおっしゃっていますが、憐れみ深い者が憐れみを受けるとはどういうことでしょう。

マザー・テレサが残した言葉を読むと、このことが本当に良く理解できます。マザーは次のように祈っています。

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「最愛の主よ。病んでいる人は、あなたの大切な人。今日も、いつも、病人ひとりひとりのうちに、あなたを見ることができますように。看病しながら、あなたに仕えることができますように。

イライラと短気な人、気難しい人、理屈に合わないことを言う人、人の目には好ましく思えないこうした人の中にもおられるあなたを見分けて、こう言えますように。『わが患者イエス、あなたに仕えることはとても嬉しい。』

主よ、このように見る信仰を与えてください。そうしたら、仕事は少しも単調ではなくなるでしょう。貧しく苦しんでいる人々の気まぐれを、温かくユーモアのうちに受け止め、その人々の願い事を満たすことに絶え間ない喜びを見出す者となるでしょう。

愛する病人さん、あなたがキリストを現しているとなれば、あなたは、二重に親愛な方となります。あなたをお世話することが許されるのは、わたしにとって特別な恩恵です。・・・

神であるお方よ、あなたはイエス。わたしのお世話する患者のなかにおられます。どうかわたしに対しても、ひとりひとりの患者イエスが忍耐深いイエスとなって、わたしの数々の落ち度は大目に忍び、あなたの大切な一人一人の病人のうちにおられるあなたを愛し、あなたに仕えようとしているこの志だけを見取ってくださるようにしてください。主よ、今もいつも、わたしの信仰を強め、深めてください。わたしの努力と仕事を祝してください。」(『マザー・テレサのことば』半田基子訳、女子パウロ会より)

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人にいらないと思われ、苦しんでいる人に仕えるなら、それは、人に捨てられ、いらないと言われ、十字架に架けられたイエス様に出会うことなのだ。

病気や怪我の苦しみ、肉体の痛みに苦しむ人のお世話をさせて頂くことができるなら、それは、鞭打たれ、十字架で苦しむイエス様のお世話をさせていただくこと。

渇く人に水を差し上げ、心渇く人と愛を分かち合うことができるなら、それは、十字架の上で、「わたしは渇く」と言われたイエス様に水を差し上げること、イエス様の心の渇きを満たすことなのだというのです。

これらの人を自分の体の一部のように愛し、世話をし、仕える時、私たちは、イエス様に出会うことができる。イエス様の限りない憐れみを頂くことができるのだというのです。

イエス様を信じるとは、観念的に神学を理解しようとすることではありません。「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われたイエス様の声を聞き、自分の足を動かし、手を動かし、あるいは自分のお金を用いて、人を助けることなのだとイエス様はおっしゃっています。そこで私たちはイエス様に出会うことができるのです。

そして、イエス様の姿が私たちの中に形作られていくようになる。イエス様の憐れみが私たちの中に満ち溢れるからです。このようにして、マザーは貧しい人々と共に生きるため、彼らに仕えるため、自ら貧しい者となって彼らを愛し、共に生きるシスターたちを導きました。20世紀を生きた人々の中で、最もイエス様に近かった人、イエス様の姿を映したのはマザー・テレサでした。マザーの中にイエス様の憐れみが満ち溢れたからです。

私たちは、心満たされた人間になったら、喜びに満たされたら、十分な社会的な力をもったら、あるいは、救いの確信を得たら、他の人を助けることができると考えがちです。しかし、イエス様は言われました。「心の貧しい人々は幸いである」「悲しむ人々は幸いである」「柔和な人々は幸いである」「義に飢え乾く人々は幸いである」と。

心貧しいまま、悲しみの中で、あるいは、人に卑しめられるような状態のまま、神様の救いと義を求めながら、私たちは同じような境遇にある人々の友となり、僕となり、その人々に仕える者となることができるのです。その時、人の思いを超えた神様の憐れみが私たちと彼らを包むのです。

マザー・テレサのことばの中に次のような逸話が残っています。

「数週間まえのこと、何日も何日も食べていないヒンズーの家族がいると聞いて、私は米を少々持って訪ねました。わたしがことの成り行きに気づく前に、その母親は、もらった米を二等分し、半分を隣の家へ持って行ったのです。たまたまそこは、イスラム教徒の家でした。そこでわたしは尋ねました。「あなたの家族はどうするの?10人もいて、そんなわずかのお米では。彼女はこう言いました。「あの人たちもずっと食べていなかったのです」と。これは素晴らしいことです。(同書より)

『こころの輝き―マザー・テレサの祈り』(ドン・ボスコ社)より。

「自分より他人を」

主よ、わたしが空腹を覚えるとき、パンを分ける相手に出会わせてください。喉が渇く時、飲み物を分ける相手に出会えますように。寒さを感じるとき、温めてあげる相手に出あわせてください。

不愉快になるとき、喜ばせる相手に出会えますように。わたしの十字架が重く感じられるとき、だれかの十字架を背負ってあげることができますように。乏しくなるとき、乏しい人に出会わせてください。

暇がなくなるとき、時間を割いてあげる相手に出会えますように。わたしが屈辱を味わうとき、だれかを褒めてあげられますように。気が滅入るとき、だれかを力づけてあげられますように。

理解してもらいたいとき、理解してあげる相手に出会えますように。かまってもらいたいとき、かまってあげる相手に出会わせてください。わたしが自分のことしか頭にないとき、わたしの関心が他の人にも向きますように。

空腹と貧困の中に生き、そして死んでいく世の兄弟姉妹に奉仕するに値する者となれますように。主よ、わたしをお助け下さい。

主よ、わたしたちの手をとおして日ごとのパンを、今日彼らにお与え下さい。わたしたちの思いやりをとおして、主よ、彼らに平和と喜びをお与え下さい。

私たちは、物質の奴隷ではありません。また状況の奴隷でもないのです。それを遥かに超えて働く偉大な神様の子供です。尊厳ある霊的な存在なのです。憐れみ深い者として生きるとき、この神の子の尊厳が輝くのです。そこに限りない神様の憐れみが注がれ、そこに神様がご臨在くださるからです。

私たちが与えるパン、私たちが与える水、あるいは、私たちの目の前にいる人々は、インドとは異なっているでしょう。しかし、愛に飢えた人がいる。優しさに飢えた人がいます。いなくても良いと思われている人がいる。自分のことをいなくても良いと思っている人がいるのです。自分のことを救われてはいけないと思う人がいる、絶望した人がいるのです。これらの人々、尊い私たちの兄弟たち姉妹たちの中にイエス様がおられます。傷ついたイエス様、渇いたイエス様がおられるのです。

彼らに仕えるに値する者となることができますように。祈りましょう。

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