「マタイの福音書」連続講解説教

招いてくださる方がいるから

マタイの福音書16章24節から28節
岩本遠億牧師
2008年2月10日

16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしにつ
いて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわた
しについて来なさい。 16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わ
たしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。 16:26 人は、
たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得があ
りましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せ
ばよいでしょう。 16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちととも
に、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ない
に応じて報いをします。 16:28 まことに、あなたがたに告げます。ここ
に立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、
決して死を味わわない人々がいます。」

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最近の日本人は、「宗教」という言葉に異常なほどの抵抗感を示します。
「あれって、やっぱり宗教でしょう」とか、「宗教っぽいから気を付け
たほうが良い」とかいう言葉をよく耳にしますが、そこにあるのは「宗
教は危ないもの」という意識です。

確かに、反社会的な活動によって社会の秩序をかき乱したり、中には犯
罪行為を犯すカルト宗教が日本中の人々を不安に陥れたことは私たちの
記憶に新しいことです。また、カルト宗教がマインドコントロールとい
う手法を使って人々の心を支配するということが報道され、一般の人々
の宗教に対する警戒心は一層強くなっています。

しかし、宗教は危ない、宗教には関わらないほうが良いという風潮は、
人間存在の尊厳を否定するものです。人が自分の存在の全てをかけて求
めなければならない絶対的な方、天地の創造者であり、私たちの創造者
である神様を無視して生きよう、無視したほうが安全であるという考え
は、人間を高慢と虚しさ、滅びに陥れるものだからです。カルト宗教の
問題は、人を巻き込んで人間性を破壊するということにとどまらず、む
しろ、社会全体に創造者なる神様を無視したほうが安全であると思わせ
ることに成功したという点で、悪魔的な働きをしたのです。

もう一方で、「宗教ではない」という触れ込みで、霊能者と呼ばれる者
たちがただの思いつきとでたらめによって人の理性を否定して支配しよ
うとする占いやスピリチュアル・カウンセリング、ニューエイジと呼ば
れるものが社会に蔓延している。これも創造者なる神様を否定し、神の
姿に似せて造られた人間の尊厳を否定するものです。真の創造主である
神様、私たちの主イエス様を否定する霊的な働きが今この日本を覆って
いることに対して私たちはノーと言わなければなりません。

このような中で、今日私たちに与えられている聖書の言葉を学ぶことは、
大きな意味があると思います。イエス様は、「誰でもわたしについて来
たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を背負ってついて来なさい」
とおっしゃいました。ここでイエス様が「十字架を背負って」とおっし
ゃっている言葉は、文字通りの意味です。つまりこの世から死刑判決を
受けたものとしてということであって、病気や人生の困難を表す比喩的
なものと理解すべきではありません。

このように言うと、「ほら、やっぱり。だから宗教は危険だ」と感じる
人も、「自分には無理。こんな厳しい宗教は自分には向いていない」と
感じる人もいるでしょう。しかし、イエス様は、私たちが失望するため
にこの言葉を語られたのだろうか。殉教覚悟の人しか救われないと言わ
れたのだろうか。聖書全体を読むと、決してそのようなことは教えては
いません。イエス様を信じるだけで救われると書いてある。ですから、
私たちは、ここでイエス様が何をお伝えになろうとしたか、何を弟子た
ちに教えようとなさったかを注意深く聞き取る必要があると思います。

一つ注意しておかなければなりませんが、もし教会の指導者が、殉教覚
悟じゃないとイエス様について行くことはできない。イエス様について
行くことができなければ、救われない。あなたが救われるためには、殉
教の覚悟を表明する必要がありますと言うなら、その教会は、キリスト
教のように見えてもカルトです。正統的なキリスト信仰ではありません。
イエス様の十字架と復活を信じるだけで救われるのです。

私たちは、そのことを心に留めながら、しかし、自分に都合の良いよう
に、自分が楽なように聖書を曲げて解釈しないように注意しながら、イ
エス様のご真意を聞き取りたいと思います。

ここでイエス様は、弟子たちに向かって「誰でもわたしについて来たい
と思うなら、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしについて来な
さい」と仰っていますが、別の箇所で、「あなたとご一緒に死にます」
と言う弟子たちに向かって、「あなたは、わたしについて来ることはで
きない」とも仰っています。ヨハネの福音書13:36以下。

13:36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになる
のですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今は
ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」 13:37 ペ
テロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことがで
きないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」 13:38 イエス
は答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。
まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三
度わたしを知らないと言います。」

一方では、十字架を背負って、つまり死刑判決を受けた者としてわたし
について来なさいと仰り、もう一方では、ついて行きたいというペテロ
に向かって「あなたは、わたしについて来ることができない」と仰って
いる。どういうことなのでしょうか。ただ単純に、殉教覚悟でついて来
いと仰っているわけではないということが分かります。

イエス様がここで教えておられることは、先ず第一に、イエス様ご自身
がどのような方なのかということであります。先週、私たちはイエス様
が十字架に向かっていかれる、その御思いについて学びました。「あな
たこそ生ける神の子キリストです」とのペテロの告白に答えて、「生け
る神の子キリストとは何か」ということをお教えでした。それは、ユダ
ヤ人の最高議会の正式な決定により、死刑判決をうけ、十字架に付けら
れて殺され、全人類の罪の贖いを成し遂げることだ。そして三日目に蘇
ることだと。それが、「生ける神の子キリスト」なのだと教えられたの
です。

イエス様は社会悪と戦争を終わらせ、善政を敷く良い王様として、全世
界を治めることもできたはずです。そのような良い王様としての生涯を
全うしたら良いではないかという悪魔の誘惑を退けて、イエス様は十字
架に向かっていかれたのだということを、先週私たちは学びました。

イエス様は言っておられるのです。「私自身が、この世に結びついた自
分自身を捨てて、十字架の死に向かって進んでいるのだ。わたしは、必
ずこのことを行う。わたしについて来るとは、そういうことなのだ」と
宣言し、教えておられるのです。さらにイエス様は、神の子としてのご
自身の実存を全うするために、この世の全てのものを捨てると仰ってい
る。

「16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのち
を失う者は、それを見いだすのです。 16:26 人は、たとい全世界を手に
入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのい
のちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」

これも、イエス様に従う者たちに向かって仰っていますが、その前に、
先ず自分がこれを成し遂げるのだとの固い御思いを語っておられるので
す。「いのち」と訳されているのは「プシュケー」という言葉ですが、
肉の命を指すことも、内的な命を指すこともあります。魂とも訳されま
す。人の命の本質を表すものです。

イエス様は、十字架を回避しようと思えば、回避することはできたので
す。しかし、イエス様がご自分の命を救おうとなさったら、罪の贖いを
成し遂げるキリストとしての実存を永遠に失うことになる。イエス様は
全世界を自分のものにすることができたでしょう。しかし、そうしたら、
ご自分の実存を失ってしまう。そして、全人類が罪の中に永遠の刑罰を
受けることになる。

イエス様は、弟子たちに向かって「誰でもわたしについて来たいと思う
なら」と語りながら、弟子の前を歩く師であるご自分について語ってお
られるのです。自分の本質を賭けて、自分の実存を賭けて十字架の贖い
を行うと仰っておられるのです。「お前たちの先生であるわたしは、こ
ういう者なのだ」と改めて自己紹介しておられるのです。

イエス様は、ここでは「誰でもわたしについて来たいと思うなら」と仰
いましたが、もう一方では、捕らえられる夜、十字架までついて行くと
言ったペテロに向かって「お前はわたしについて来ることはできない」
と言われました。何故かと言うと、この滅びの世界からいのちの世界に
行く道は、人間が自分の思い、自分の決心、自分の覚悟で突破できる道
ではないからです。

罪が支配するこの世の世界と天の世界は、罪という大きな壁で仕切られ
ており、どんなに人間が頑張っても突破することも、乗り越えることも
できないと仰っている。命の世界と滅びの世界は交わることのできない
別のものなのです。滅びの世界とは、この物質の世界、罪が支配する世
界です。人が欲望によって生き、自分の欲しいものを手に入れるために
人と争う世界。サタンは富の分配の権限を持ち、神様に反逆する者たち
のところに富が集まることが許されている世界、ここに私たちは生きて
いるのです。

この世界の中でどんなにもがいても、どんなに求めても、イエス様に向
かって「あなたのために死にます」と誓ったとしても、自分の力では突
破することができない壁、それが罪なのです。

イエス様は、ペテロに向かって、「わたしが行く所に、あなたは今はつ
いて来ることができません。しかし後にはついて来ます」と仰った。何
故か。イエス様がこの罪の壁を打ち破られたからです。「わたしが十字
架によってこの壁を打ち破る。そうしたら、お前もわたしについて来る
ことができる」と仰ったのです。イエス様が十字架によって罪の呪い、
罪の壁を打ち砕かれることによって、圧倒的な天の命がこの罪の世に注
がれ、私たちをイエス様に従う者とするからです。

ペテロを初め弟子たちは、もうすぐ捕らえられるイエス様に向かって「あ
なたと一緒に死にます」と誓いました。ペテロは、「他の者たちが全員
あなたを否定しても、わたしはあなたを否定しません」と大見得を切り
ました。しかし、ペテロは、捕らえられたイエス様が連行された大祭司
の中庭で、「あの男とは関係ない」と3度、徹底的に自分の全てで否定
してしまうのです。ペテロは自分自身を失いました。復活したイエス様
と出会っても、心は動かない。ペテロの心は死んでしまい、彼は、ガリ
ラヤの漁師生活に戻りました。

しかし、そこで待っておられたイエス様がいました。イエス様は、ペテ
ロに「わたしに従いなさい」と最初にお招きになった時と同じ奇跡を起
こして、ペテロの死んだ心を蘇らせ、そして、お尋ねになりました。「わ
たしを愛しているか」と。そして「あなたは全てをご存知です。わたし
があなたを愛していることを、あなたはご存知です」と3度、徹底的に
自分の全てでイエス様を告白させてくださるのです。そして、言われま
した。「わたしの教会を養え。」「わたしに従いなさい」と。

ペテロは、イエス様を否定して、命を失いました。プシュケーを失った
のです。復活のイエス様に出会っても、それを取り戻すことはできなか
った。しかし、ペテロが失ったものに代えて、新たにそれ以上の命を注
がれたイエス様がいました。

ペテロは、イエス様に従うことができなかった。しかし、そんな死んだ
ペテロの心を蘇らせ、「わたしに従え」とお命じになったイエス様がい
た。「わたしに従え」と命じてくださるから、私たちは、イエス様の後
をついて行くことができるのです。

聖書の中にはイエス様の伝記を記した福音書が4つありますが、二つ目
の福音書がマルコの福音書です。これは、4福音書の中で最も古いと言
われますが、それを書いたのはマルコという人です。ペテロの語るイエ
ス様の御姿を福音書としてまとめたと言われています。

この人は、イエス様が天に帰られた後の弟子たちの伝道を記した「使徒
の働き」やパウロやペテロの手紙の中にも出てきますが、パウロの最初
の伝道旅行に同行しました。ところが、彼は、伝道が非常に困難で危険
を伴うものであったため、伝道チームから脱落して一人で逃げ帰ってし
まうのです。二回目の伝道旅行の時には、パウロから「途中で伝道の働
きから脱落するような者は連れて行かない」と言われ、本当に恥ずかし
い、辛い思いをしました。

しかし、マルコの伯父のバルナバは、迫害の少ないキプロスの伝道に彼
を連れて行き、そこで彼を育てるのです。マルコは、ペテロからイエス
様の話を聞きました。自分の力でついて行くことができず、イエス様を
否定したペテロがどのようにしてもう一度生かされ、イエス様を告白す
る者となったのか、その話を何度もペテロから聞いたはずです。そして、
迫害を恐れ、伝道から逃げ帰った自分をも赦して待って下さっているイ
エス様を知るようになるのです。癒して包んでくださるイエス様をマル
コは経験していくのです。そして、イエス様について行く者に変えられ
ました。彼は、後にパウロに役に立つ者と紹介され、またパウロと一緒
に牢獄に入れられたりもしています。イエス様がマルコを呼ばれたから
です。「わたしに従いなさい」と語りかけるイエス様の声を聞いたから
です。

皆さん、どうでしょうか。私たちも、自分の全てを捧げることができる
絶大な方、私たちを愛してその命を十字架に捨てて下さったイエス様に
ついて行きたいと、その実存の奥底では願っているのではないでしょう
か。何故か、私たち人間は、神様の姿に造られているからです。私たち
の命は、その奥深いところで、私たちの創造者を知っているからです。
私たちの実存は、この世の富や地位や名声などでは決して満たされるこ
とのない尊い存在として造られているからです。

アウグスチヌスは告白しました。「主よ、あなたは私たちをあなたに向
けて創造なさいました。ですから、私たちは、あなたの中に憩う時まで、
平安を得ることができないのです」と。神様が私たちを創造してくださ
った。この創造者のところに戻る時まで、イエス様に従う以外には、私
たちの平安はないのだと告白しているのです。これは、私たち一人一人
の告白ではないでしょうか。

確かに、ついて行けないと感じることがある。困難を乗り越えてイエス
様のところに行く力も意志もないような私たちです。自分の力でついて
行ったと思っても、それは肉の力であって、罪の壁を打ち破って天に上
ることはできないのです。しかし、何度も申し上げていますが、イエス
様に従うことを私たちに得しめる力は、私たちの頑張りでも、私たちの
意志でもありません。

ただ一人、十字架に向かい、ただ一人で罪の壁を打ち破り、全人類の罪
の贖いを成し遂げてくださった方が、「来い」と招いてくださる。だか
ら、私たちはついて行くことができるのです。

賛美歌271に「いさおなき我を」という賛美がありますが、これを作
詞したのはシャーロット・エリオットというご婦人です。彼女は、イエ
ス様を信じていましたが、30歳で病気になり、教会にも行くことがで
きないようになりました。教会で友人が礼拝を捧げている。教会の活動
資金を集めるためのバザーをしている。そういうことを聞くけれども、
彼女は、そのどれにも参加できない。自分で自分の世話をすることもで
きない。自分をどうすることもできず、落ち込みや苛立ちが襲ってくる
こともある。しかし、何もできない自分を愛し受け入れ、救って下さっ
ているイエス様がいる。彼女は、このことを詩に書きました。Just as
I amという詩です。7連にわたる詩ですが、その中の3つをご紹介します。

1. Just as I am, without one plea,
but that thy blood was shed for me,
and that thou bidst me come to thee,
O Lamb of God, I come, I come.

5. Just as I am, thou wilt receive,
wilt welcome, pardon, cleanse, relieve;
because thy promise I believe,
O Lamb of God, I come, I come.

6. Just as I am, thy love unknown
hath broken every barrier down;
now, to be thine, yea thine alone,
O Lamb of God, I come, I come.

1.このままの私、何も申し開きすることもできません/ただ、あなた
の血潮が私のために流されたから/あなたが私に来なさいと命じて下さ
っているから/神の小羊イエスよ、御許に参ります

5.このままの私を、あなたは受け入れ/歓迎し、赦し、清め/救って
下さる/ただ、あなたの約束を信じただけでしたのに/神の小羊イエス
よ、御許に参ります

6.このままの私、あなたの愛は知らぬ間に/全ての壁を打ち壊してく
ださった/今、私はあなたのもの/そう、あなただけのもの/神の小羊
イエスよ、御許に参ります

彼女は、この詩を含めて幾つかの詩を詩集として、匿名で出版しました。
ある日、教会の牧師が、彼女に「良い信仰の詩集があるから」と、一冊
の本をプレゼントしてくれました。それが自分が出版した詩集でした。
ベッドの上で何もできず、ただ、イエス様に対する信仰を告白していた
その信仰が、多くの人の慰めとなり、信仰の指針となっていたのです。

エリオットは歌いました。「ただあなたが『来い』と仰ってくださるから、
あなたがこんな私を受け入れてくださるから、歓迎してくださるから、
赦し、清め、救ってくださるから、あなたがすべての壁を打ち砕いてく
ださったから、あなたが私をあなたのものとしてくださったから、私は
あなたのところに参ります」と。

自分の力と思いでついて行くことのできない私たちに向かって、「来い」
と招いて下さる方がいる。赦し、癒し、包んでくださる方がいる。罪を
打ち破り、死の力を打ち砕いてくださった、この圧倒的な方、絶大な方
が、「わたしについて来なさい」と命じてくださる。だからついて行く
ことができるのです。この方が、私たちの手を取ってくださるからです。
この方が約束してくださる。「わたしは、決してあなたを見放さず、見
捨てない」と。

祈りましょう。

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