コリント人への手紙第一

揺るぐことのない土台

コリント人への手紙第一、3章11節から15節
岩本遠億牧師
2009年1月4日

揺るぐことのない土台

コリント人への手紙第一、3章11節から15節

岩本遠億

3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。 3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、 3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。 3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。 3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

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新年おめでとうございます。今年も主の溢れる慈しみの中に置かれていることを心から感謝します。今日、わたしがこの新年の礼拝で分かち合いたいと願っているのは、「私たちの存在の揺るがない土台はイエス・キリストである」という一点であります。

私は、昨年のクリスマスの時期、21日のクリスマス礼拝を終えて23日から28日まで中国の西安の西安電子科技大学で日本語を学ぶ学生たちの日本語力の実態調査に行きました。その計画は昨年の6月ぐらいからあったのですが、当初イヴ礼拝のことも考え、私自身は調査旅行には参加しないことにしていましたが、今後私が所属している神田外語大学大学院で行われていく研究全体のことを考えると、どうしても参加しないわけにはいかなくなり、11月下旬になってから参加することにしました。

24日のイヴ礼拝を期待していた方がいらっしゃったことや、28日の礼拝をお休みにしなくてはならなくなったことなど、大変申し訳なく思いますが、5泊6日の調査旅行での体験は、聖書を読み、またメッセージをしていく上でも大きくプラスになったことと思います。今日は、そのことを分かち合いながら、私たちがイエス様を信じるとは一体どういうことなのか、イエス様は私たちにとってどのような方なのかということをお話ししたいと思います。そして、今日耳を傾ける聖書の言葉が、今年一年を通して私たちを導く光となりますよう、心から期待したいと思います。

西安というのは、中国のほぼ真中に位置する都市で、漢、隋、唐の時代には長安と呼ばれ、これら中国歴代の王朝の都とされたところです。秦の始皇帝が都とした洛陽は西安より少し東にありますが、始皇帝の墓やその陶器の軍団、兵馬俑は西安にあります。日本の平城京や平安京はこの長安をモデルに造られたもので、遣隋使、遣唐使などもここで勉強していました。

現在の西安は、電子工学や工業の中心地で、新市街には高層ビルが雨後の筍のように立ち並び、建設ラッシュで至る所にビルの建設現場が見えます。一方、昨年から始まった世界的な金融危機によって、それらの建築の多くはストップしたままで、足場は組まれてはいるけれども、工事が行われていない現場があちらこちらに見えました。

西安の近郊は工業地帯となっており、そこから出る煤煙がスモッグとなり、空はいつも灰色、晴れているのに太陽の光は弱々しく、いつも煙の臭いがします。鼻をかむと鼻水には黒いものが混じります。

道路にはベンツやBMWなどの高級車が溢れ、金融、IT、不動産などで富を築いた少数の人々が圧倒的多数を占める貧しい人々の存在を忘れたかのように生きています。道では、歩行者は車のために道を譲らなければならず、交差点では青信号でも4回ぐらい止まらないと渡りきることができません。人よりも車のほうが偉いのです。

大学では、日本語科の学生たちを対象に日本語力の調査をしましたが、口頭運用能力を調べるためにインタヴューテストをしました。その中で「なぜ日本語を勉強しているのですか」という質問をすることになっていました。すると、彼らは異口同音に答えます。「電子工学を勉強したくてこの大学に来ましたが、入学試験の成績が不足していたので、日本語科に入れられ、日本語を勉強しています。でも、今は日本語が好きです。」

成績トップの学生たちは希望の電子工学の勉強ができます。しかし、その次のレベルの学生たちは、本人の意思に反して日本語科、あるいは英語科に入れられる。そして、さらに成績の悪い学生たちは、別の理系の学部に入れられるということです。この大学は毛沢東の肝いりで作られた電子工学の中心的研究大学という特徴を持っていますが、セカンドクラスの能力を持った学生たちは、国家戦略によって日本語や英語を強制的に勉強させられるのです。

国が人民のために存在しているのではなく、人民が国のために存在しているというこの国の現実をまざまざと見せつけられる思いでした。また、大学のあちらこちらに公安の控室があります。いつも監視されているのです。そこには、抑圧された人々を支配する権力構造がありありと存在するのです。

また、いろいろと不快なことや問題があっても、人々がそれを問題と感じなくなっている状況、つまり無感覚になっている状況がありました。人の心を抑圧するということはこのようなことなのかとの思いを抱きました。

人々の自由が抑圧され、体制の維持を第一義とする支配構造がある一方、富国化のために拝金主義を奨励し、それによって巨万の富を得る人たちが闊歩する。一本路地を入っただけで、そのような経済の恩恵に与ることのできない圧倒的多数の人々が生きている。

この国の人々の土台は一体何なのだろうかという思いが何度も何度も湧いてきました。しかし、そう思う時、日本人も同じではないかとの思いが湧きあがってきます。私たち日本人は、開発で巨万の富を得た中国人の拝金主義を笑うことができるでしょうか。人よりも権力と体制の維持を第一とする権力者たちの心を蔑むことができるでしょうか。自分の進むべき道を自分で選べる政治体制の中にいるとは言え、私たちは決して自分のありたい自分ではあり得ない現実の中に生きています。自分の醜さ、自分のふがいなさに泣き、自分の望まないことをしなければ食べていくことができないのは変わらないのです。この自分は彼らよりも正しい生き方をしていると言えるでしょうか。

私たち日本人の土台は一体何でしょうか。表面的に幸せで自由な生活を送っていても、その存在の土台となって下さる方を知らずに生きているのが圧倒的多数の日本人なのではないでしょうか。

今回、24日の夜に仕事が入ってしまったため、クリスマスイヴにキリスト教会を訪問することはできませんでしたが、表面には現れないところで、中国には日本よりもはるかに多くのクリスチャンたちが主を見上げて生きています。政治体制が問題なのではありません。経済力が問題なのでもありません。見せかけの自由よりも、さらに尊いものを知っている人々が彼の国には大勢いるのです。

我々は、一体何を土台としているのか。そのことを意識し、土台となって下さる方を知らずに生きるのなら、我々こそ悲しむべき国民ではないのか。そう思います。

使徒パウロは、「イエス・キリストこそ私たちの存在の土台である」と言いました。「土台」とは何でしょうか。私は、ここ何回か連続で「救い」とはどういうことかについてお話してきました。「救われる」ことこそ、揺るがない土台の上に移されるということです。

私は海に落ちて溺れたことがあります。まだ小学校に入る前のことでしたが、今でも鮮明にその時のことは覚えています。足のつかない海に転落し溺れていた時に、ある男性が服を着たまま、腕時計をしたまま、海に飛び込んで私を救ってくださいました。私は陸の上にあげられ救われたのです。しかしその人は足に怪我をし、その人の時計は壊れました。その人が自分を顧みずに、自らを犠牲にして海に飛び込んでくれたから私は死なずに救われたのです。

救いとは、罪の海から揺るぐことのない土台の上に移しかえられることを言うのです。この土台の上では、私たちは休むことができる。泳いでいなくても決して沈むことはありません。罪の海の中では、頑張っているなら沈むことはないと思うことはあるかもしれませんが、罪の海で永遠に頑張り続けることはできないのです。いつか地から尽き果てて沈んでしまいます。そのことを皆知っているのです。ですから、どんなに頑張っていても、罪の海の中にいる時、魂に平安を得ることができない。

しかし、一度揺らぐことのない永遠の土台、イエス様という土台の上に移しかえられたなら、私たちは永遠の平安を得ることができるのです。この土台の上では、頑張ることもできるし、頑張らないこともできる。安心して休むことも、眠ることもできる。また、安心して悩むこともできるのです。

この土台の上に移しかえられた後、頑張って天国を目指さなければならないのではありません。クリスチャンらしく生きることで天国の門を開いてもらうのではないのです。このことは決して勘違いしてはなりません。

パウロは、第一コリント3章で次のように言っています。

3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。 3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、 3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。 3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。 3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

この土台の上で、それぞれはいろいろな業を行うことになります。賞賛されるような働きをする場合もあるでしょう。あるいはそうでない場合もある。またある人は、自分がやったことが失敗してしまって、全部なくなってしまうこともあるというのです。しかし、それでも、その人はキリストを土台としているので、助かる。救われているのだとパウロは言っているのです。

このことは、どんなに強調しても強調しすぎることはありません。私たちの業や努力の如何にかかわらず、私たちの存在を永遠に支える方がいるのです。イエス様が私たちを罪の海から救うために、自らこの罪の海に飛び込んで下さった。それがクリスマスです。私たちと共にこの罪の世の苦しみを全てご経験になりました。そして、私たちをこの罪の海から救い出すために、ご自分だけがこの中に沈んで行かれ、私たちを陸に揚げて下さった。これがイエス様の十字架です。イエス様の十字架の故に、私たちは永遠の平安を与える揺るがぬ土台の上に移されたのです。イエス様の犠牲の故に私たちは救われました。

イエス様の十字架の恵み、イエス様の十字架による救いは、絶大なものであって、私たちの努力や頑張りの多寡によって左右されるようなものではないのです。私たちの奉仕や、私たちの献金や、伝道活動の熱心さ、それらは素晴らしいものですが、それが多いから少ないから、また熱心の度合いが大きいから少ないからといって、左右されるほど、ちっぽけなものではない。まさにそのようなものを圧倒的に凌駕してあまりある恵み、それがイエス様という土台なのです。どうぞ皆さん、それを知って頂きたい。存在の奥底でそれを知って頂きたいのです。

そして、この方という土台の上にこそ、真の癒しと人生の回復があるのです。この方が圧倒的な恵みと命を注がれるからです。私たちの群れは本当に小さな群れです。しかし、去年、世界的な不況が日本に訪れ、会社や販売の実績がどんどん落ちていく時、私たちは私たちの中まであるお一人の方のために礼拝で祈りました。「主よ、このような祈りをしては申し訳ないですが、この方のお店だけは守って下さい」と。それは、自分勝手な祈りというより、主にある兄弟愛の表れだったと思います。そして、主はその私たちの人の目には身勝手と思われるような祈りの言葉に耳を傾けて下さった。そして、他の支店の売り上げが軒並み20%、30%落ちる中で、その方の支店だけ105%の売り上げを記録し、さらに次の月、12月もどの支店よりも早く目標を達したとのご報告を頂きました。

私は、引き続き祈りたいのです。この伝統ある老舗の全ての支店の中にあって、この方のいらっしゃるお店にあなたの光を照らして下さいと。ここにあなたの娘がいることが、この会社の光となりますように。ここを通してこの暗い世にあなたの光を照らして下さいと。

そして、この方だけでなく、私たち一人一人のところだけは守って下さい。ここにあなたの息子、娘がいることをあなたご自身が明らかにしてください。このことを通して、あなたの光が周囲に照らされていきますように。

私たちは、この新しい年、揺るがぬイエス様という土台の上に移されているということをまずしっかりと理解し、信じた上で、具体的な問題の解決のために祈って行きたいのです。この土台の上にあるという安心感と信頼の上にこそ、与えられる解決があるからです。私たちの仲間には病んでいる人たちがいます。その方々の癒しのためにも心を合わせて祈って行きましょう。祈る時に、本当に大切なことは、信頼して祈ることです。この土台の上にあるという安心と平安に支えられて祈ることが大切なのです。そこにイエス様と私たちとの揺るがぬ関係があるからです。

イエス様は言われました。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」ヨハネの福音書15:7

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」というのは、私たちがイエス様という揺るがぬ土台の上にあり、そのことを知り、その絶大な恵みの力を知るということです。そして、その時、「あなたがたのためにそれがかなえられる」とイエス様は約束して下さいました。私たちがこの土台の上で祈ること、そこに解決の光、祝福の光が照られることを通して、主の栄光がこの地に満たされていくのです。このことを通して主を知る人々が起こされていくことを私たちは願っているのです。

全ての祝福と解決は、この土台であるイエス様からやってきます。決して変わることのないイエス様の恵み、慈しみ、癒し、全ての祝福が私たちに注がれ、そしてこの小さな私たちを通して、この地にイエス様の光が照らされていきますように。

祈りましょう。

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