「ルカの福音書」 連続講解説教

放蕩息子が失ったもの、取り戻したもの

ルカの福音書講解(77)第15章11節から32節
岩本遠億牧師
2013年4月21日

15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。 15:12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。 15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。 15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。

15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。 15:21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、 15:26 しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、 15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』

15:28 すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。 15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。 15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

15:31 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。 15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

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イエス様は、天地を創造なさった唯一の神様を指差し、人々に言われました。「この方があなたがたの天の父だ」と。また、弟子たちに「天のお父様」と呼びなさいと教えられました。皆さんは、「天の父」「天のお父様」という言葉を聞いて、どのような印象を持つでしょうか。

私たちにはそれぞれ自分の父親がいますが、自分が父親に対して持っている思いが、「父親とはこのようなもの」という概念を生み出し、それが神様に対する理解に反映するということがあります。

厳しい父親に育てられた人は、神様を厳しい方だと思う。父親に受けいれてもらうために頑張らなければならなかった人は、神様に受け入れてもらうために、無意識のうちに頑張ろうとしたりする。また、父親に虐待されたことがある人が「天のお父様」と呼びかけることができず、苦しい思いをしたということを聞いたことがあります。

このように、私たちの父親に対するイメージは、神様に対するイメージに何らかの形で影響を与えていると言われますが、人間の父親は誰でも欠点を持ち、理想的な父ではあり得ませんから、天の父と呼ばれる神様の理解に何らかの負の影響を与えている可能性があります。

そのような私たちに、イエス様は、「これがあなたがたの父だ」と言って、譬え話をお話しになりました。それが有名な「放蕩息子の譬え話」です。

イエス様は、「ある人に息子が2人あった」と話し始められます。「ある人」は莫大な富を持った人として登場しますが、これは父なる神様を指し示します。息子とは、私たち人間のことです。この2人の息子達は、タイプは全く違うのですが、2人とも自分の父親のことを全く理解していません。父親を厳しい人だというイメージでしか見ていません。兄は、父に逆らったら大変なことになるとびくびくしながら、反発の心を隠して「良い子」を演じながら生きています。

一方の弟は、「こんな父親のそばなんかにいられるか。ここにいたら窒息する。自分のしたいことが何もできない」と思っています。「父の金は欲しい。父が死んだら、その財産の3分の1は、自分のものだ。だが、父が死ぬまで待ってられない。」父親の早い死を願いながら、それが叶わないため、彼は父親に言います。「私に財産の分け前をください。」

すると、こともあろうに、父親はこの息子の要求をそのまま認め、財産を分けてやるのです。父親は厳しいだけの人ではなかったのでしょうか。こんなめちゃくちゃな息子の要求をそのまま受け入れるとは、この人はどういう人なのでしょう。

しかし、この2人目の息子は、父親の大きな心に触れても、それを無視し、荷物をまとめ、父の噂も聞かないように遠い国に出て行きました。そこで放蕩して、湯水のように莫大な財産を使い果たしてしまいます。

ところが、そこに飢饉が起こり、息子は食べることにも困り始め、ある人のところに身を寄せますが、彼は豚の世話をさせられることになったと言います。

豚というのは、ユダヤ人にとって汚れた動物です。食べることが禁じられているだけでなく、これに触れることもない、それが豚です。それは、古代、中近東において偶像礼拝において食べられるのが豚の料理だったからです。豚を食べること、イコール偶像礼拝に加わるということであったため、神様は豚食を厳しく禁じられたのです。

その偶像礼拝とは、偶像の神殿で性的な乱交パーティーをすることであり、自分の子供を偶像に捧げるために焼き殺すこともあったのです。まさに偶像礼拝とは悪魔礼拝そのものであり、神様はイスラエルの民にこれに絶対に関わってはならないとお命じになったのでした。

今、息子は、父から絶対に関わってはならないと命じられていた悪魔礼拝の下請けのような仕事をするようになってしまいました。しかし、それでも食べるものを得ることはできませんでした。豚の餌で腹を満たしたいと思う程でしたが、誰も彼に食べ物をくれようとはしなかったと言います。

罪は最初魅力的に感じます。罪の世界に入ると、何でも自分の欲しい物が手に入るような気持ちになります。しかし、そのような甘い時は瞬く間に過ぎ去り、神様から与えられた祝福の全てを失い、苦しみの時が始まるのです。そしてそこで自分を誘った悪魔に助けを求めても、与えられるのはさらに酷い苦しみでしかない。それをこの息子は知りました。

その時、彼は我に帰りました。自分の父のところには祝福が満ち、日雇いの雇い人ですら、食べきれない程の食事を与えられていることを思い出します。彼は、父のところに帰る以外に自分が救われる道はないということに気づいたのです。

「父のところに帰って、謝ろう。『私は、天に対しても、あなたに対しても罪お犯しました。もうあなたの子供と呼ばれる資格はありません。日雇い労働者の一人として扱ってください。』」このように父に言おうと思いますが、どのような思いで、彼はこの言葉を考えたのでしょう。

放蕩して、大切な財産を浪費してしまったから、「あなたの息子」という顔で帰ったら父の怒りを買うだろうが、「日雇い労働者の一人として」と言えば、何とか父の気持ちを宥めることができ、受け入れてもらえるかもしれないという打算的な気持ちだったのでしょうか。

私はそうではないと思います。彼は、神様である父の息子でした。しかし、父の祝福を無駄にしただけではなく、父から決して関わってはならないと命じられていた悪魔礼拝に関わってしまった。父の子ですが、もう父の子ではあり得ない。彼の存在は、真っ二つに引き裂かれていたのです。

父のところに帰らなければ滅んでしまう。しかし、父のところに息子として帰ることはできない。彼の存在は、真ん中で真っ二つに引き裂かれ、分裂してしまっていたのです。どうしたら父のところに帰れるのか。彼は、分からないまま、歩き始めました。

イエス様は言われました。「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」

この父親は、息子が自分のもとを出て行ったときから、どうしていたのでしょうか。自分を理解しない反抗的な息子、神様よりも罪を愛するような息子でした。彼がどのようになるか、父なる神様が誰よりも良くご存知でした。

この方は、自分の家から出て、息子の名前を呼びながら探し歩いておられたのではないでしょうか。「おーい、愛する我が子よ。お前はどこにいるのか。わたしはここにいるぞ。」

父なる神様は、息子を見つけるとかわいそうに思い、走り寄って、彼を抱き、口づけをしたとあります。「彼を抱き」と訳されている言葉は、「首の上に倒れ込む」という意味です。うずくまっていた息子、あるいは倒れて動けなくなっていた息子を見つけたのです。

自分の力では帰るに帰れない、父親に会うに会えない、力尽きた子供を見つけ、倒れた体に覆い被さるように、抱きかかえ、口づけしたのです。父の愛が息子を覆いました。父の愛が息子を溢れるように満たしました。

息子は言いました。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

「日雇い労働者の一人にしてください」という言葉は、ここにはありません。何故でしょうか。自分の力では父の元に帰ることができず、倒れてしまっていた自分を見つけ、走りよって、抱きかかえ、口づけしてくれた父親。罪に汚れたままのこんな自分を抱きしめてくれている父親の温かさに触れた時、この息子は、「日雇い労働者の一人にしてください」とは言えなくなったのです。

分裂していた存在が一つにされた。この方の息子である実存、神の子の尊厳がこの息子の中に満ち溢れたのです。

「お父さん、僕は、本当にお父さんの息子で良かった。」これが彼の本当の思いではなかったでしょうか。父なる神様の愛が、息子の分裂していた存在を一つにしたのです。

ここは、まだ父の家から遠いところです。自分の力で歩けなくなっていたこの息子を父親はどうしたでしょうか。父親自身がこの子を背負って、家にまで帰ったのです。

家に着くと、父親は言います。。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』

一番良い着物は、跡取りに着せるものです。指輪は、権威を表すもの、父の持っていた権威に与らせるということを意味します。また、靴は、名誉の回復を意味します。

この息子は、父親がこのようなお方だとは知りませんでした。こんなに自分を愛し、尊んでくれるとは。

彼は、どのようにして父のところに帰ったのでしょうか。自分では帰れなかった。どうやったら父のところに帰れるのか、本当は分からなかったのです。存在が分裂していたからです。父のほうからやって来てくれた。だから帰ることができたのです。

このような話しを聞いて、どのように思われるでしょうか。自分とは関係のない話しと感じるでしょうか。自分は、この放蕩息子のように悪くはないから、この父の愛を感じることはできないと思うかもしれません。むしろ、こんな滅茶苦茶な生き方をしてのこのこ父の家に帰って来た息子を、跡取り息子の帰還とし大宴会を催す父に反発する兄の気持ちに自分は近いと感じる人も多いのではないかと思います。

しかし、放蕩息子とは一体何かということに思いを巡らして行く時、実はこの兄も弟と非常に似た心を持っているということに気が付くのです。

私は千葉大学で英語を教えていますが、英会話のクラスで、10年後、あるいは20年後の自分を思い浮かべて、その時点での自己紹介をしてみようという課題を出すことがあります。本当はこれは、英語そのものの力を伸ばすための課題と言うよりは、夢を持ってもらいたい、想像力を働かせて人生を切り開いてもらいたいと願って、そのような課題を出しています。昨年度の終わり、1月にも同じ課題を出しましたが、私は学生たちの発表を聞きながら、本当に胸が痛かったです。

大学1年生ですから19歳、20歳ですが、多くの学生が夢を語ったり、未来に対する想像力を働かせることができないのです。園芸学部、つまり農学を学んでいるので、農業の仕事をするとか、食品開発をしたいという話しをする学生もいますが、ほとんどが、特に夢はないと言うのです。男子学生のほとんどは、サラリーマンになって、結婚して家族を持っていると言いますし、女子学生のほとんども結婚して子供がいるとしか言わない。

ある学生が次のように言いました。夢を語ることは虚しいと。自分は医者になりたかった。しかし、高校生の時一生懸命勉強したが、医学部に入るだけの成績を取ることはできなかった。これからどれだけ努力しても、何が良いものを手に入れることなどできるとは思えない。人生とはそんなものだと。

大学1年生の時点で既に人生に絶望しているのです。人生にチャレンジしようという思いもなく、人を生かす人生、人と社会に貢献する人生を生きようという思いもない。ただ川の流れに落ちた葉っぱのように日々の小さな楽しみだけを求めて、流されて行くのが人生だと語る若者たちの姿を見て、本当に悲しく、また、彼らを暗闇の中に押し込めている悪の力に対して憤りを覚えました。

私は、彼らの話しの後で、彼らに向かって語りかけました。君たちは自分の望まなかった大学、自分の望まなかった学部に今いるかもしれない。しかし、君たちの人生はそれで終ってしまったのだろうか。君たちの人生は、君たち自身のために存在しているのだろうか。君たちの力を必要としている人たちがいるのではないのだろうか。仮に自分の望まなかった場所にいるとしても、君たちがそこにいることによって生かされる人たちがいる、そのような生き方があるのではないだろうか。今、20歳になるかならないかの時点で人生を諦めてはいけない。想像力を働かせよう。夢を見よう。君たちが自分のためではなく、人のために自分の人生を使おうと思い、歩き始めるなら、必ず君たちの人生は開かれる。必ず君たちを助ける人が現れる。自分の想像もしなかった道が君たちの前に開かれて行くのです。

人生を浪費させようとする力、それこそが弟を放蕩に引きずり込んだ悪の力、罪であります。この弟が父から譲り受けた莫大な財産、それは何だったのでしょうか。それは、神の子としての尊い実存だったのです。それは決して失ってはいけないものだった。しかし、彼は父のもとを離れ、その実存を浪費してしまったのです。何のための人生なのか、自分な何のために生きているのか、全てが分からなくなってしまったのです。弟を放蕩に引きずり込んだのは、まさに神の子の実存を浪費させ、人生を浪費させ、人を無気力と絶望に陥れる悪魔の力だったのです。

皆さんはどうでしょうか。あるいは、どうだったでしょうか。この放蕩息子のように不道徳な生活に落ち込んだ人もいるかもしれないし、そうではない人もいるでしょう。しかし、自分の人生の価値と目的を見出すことができず、人生を浪費しようとしていたのではないでしょうか。神の子の尊厳に生きることができず、ただ虚しく時間が過ぎて行く人生を歩んでいるなら、あなたこそ、放蕩息子なのではないでしょうか。

あなたは偶然存在しているのではありません。偶々与えられた人生を偶々いるところで、偶々の方向に向かって生きるために存在しているのではないです。あなたを創造なさった神様がいるのです。あなたに尊い働きをさせよう、あなたを用いて神の国をこの地にもたらそうとしている神様がいるのです。

もし、あなたが自分の存在の意味が分からないのなら、あなたはあなたを創造した父なる神様のところに帰らなければなりません。どの道を行けば帰れるのか、どうすれば帰れるのか分からないのが私たちです。しかし、立ち上がって一歩を歩き始めた時、父なる神様は、あなたをそこで抱きしめてくださる。あなたはそこで神様に出会うことができるのです。

そして、本当の自分の尊さ、神の子とされていることの喜びに満たされ、もう自分の思いを満たすためではなく、この神様の御思いを実現するために、神様の栄光をあらわすために、生きる満ち満ちた人生を歩くようになるのです。

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