「ヨハネの福音書」 連続講解説教

新しい祝福の始まり

ヨハネの福音書2章1節から11節
岩本遠億牧師
2009年2月22日

2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。

2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」

2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

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ヨハネの福音書には、イエス様による7つの「しるし」が記されていますが、これは「奇跡」というのとは若干意味合いが違います。イエス様はここに記されていない数多くの奇跡を行われ、多くの人々を癒されましたが、ヨハネの福音書が「しるし」という時、それはイエス様が神の子であることを証明するものとしての「しるし」を意味します。

そして、今日共に耳を傾けた聖書の箇所が最初の「しるし」として記されているわけですが、何故水を葡萄酒に変えることによって結婚式の危機を救ったことが神の子の証明のか、私たちは少し深く考えてみる必要があるように思います。

この箇所には、いろいろな注解書や説教があり、多種多様の解釈をしています。それらの中には、イエス様による奇跡を呼び起こした母マリアの信仰やイエス様の指示に黙って従った手伝いの者たちの信仰について取り上げ、私たちが主の奇跡を期待する時の心構えを説くものもたくさんあります。しかし、ヨハネの福音書が、この奇跡をイエス様が神の子である「しるし」であるという時、母マリアの信仰や手伝いの者たちの従順がこの箇所の中心テーマではあり得ないと思います。中心は、イエス様のお働きです。イエス様は何をなさったのか。

結論を先に言えば、水を葡萄酒に変えたということです。単なる水ではありません。ユダヤ人の清めのしきたりに従って置いてあった6つの石の水がめの縁のところまで一杯に満たされた水です。人間は汚れた存在である。その汚れのままでは食事をすることもできない。器も水で清めなければならない。汚れを水によって清めなければ、安心して生活することもできない。その清めに用いられていた水です。それを葡萄酒に変えた。葡萄酒とは、イエス様の十字架の血を象徴するものです。つまり、清めのための水が100%イエス様の十字架の血によって取って代わられる。水による清めを100%廃止して、十字架の血による新しい創造、汚れを恐れる必要のない者に私たちを作り変えるという新しい創造を象徴的に表すのが、この葡萄酒の奇跡なのです。だから、これが神の子の証明である「しるし」なのです。

少し状況を説明しますと、イエス様は5人の弟子たち、アンデレ、ペテロ、ピリポ、ナタナエル、そして名前の挙がっていないもう一人の弟子(ヨハネ)と一緒にガリラヤのカナへ行かれました。そこで結婚式に招かれていたのです。カナは、ナザレから近い小さな貧しい村です。また、母マリアの様子から、親戚の結婚式であったのではないかと言われます。

当時の結婚式は1週間ほど宴会が続けられたため、花婿の父はそのためにお金を貯め、これに備えたと言われます。当時は、一般の食事はパンとチーズ、オリーブ油と水などであり、普段は葡萄酒を飲むことはありませんでした。葡萄酒はあくまでも贅沢な特別な飲み物だったのです。普通の人々はみな貧しい生活をしていました。

しかし、結婚式の時だけは、ご馳走と葡萄酒をふんだんに用意し、花婿と花嫁は王冠をかぶせてもらい、「王」「王妃」と呼ばれる特別な一週間を楽しむことが許されました。

イエス様の弟子たちは、これをどのような思いで見ていたのでしょうか。彼らのうち、少なくとも二人はバプテスマのヨハネの弟子でした。バプテスマのヨハネは厳しい禁欲生活を送り、イナゴと野蜜を食し、葡萄酒を口にしない生活をしていたのです。そして水による清めである水のバプテスマを宣べ伝えていた。彼の弟子たちも同様だったはずです。その仲間もやはりバプテスマのヨハネの影響のもとにあったと考えるのが自然でしょう。同じような思いでイスラエルの救い主を待ち望んでいたのですから。

彼らは、この結婚式の饗宴を心から喜べたのだろうか。イエス様は花婿や花嫁、他の客たちと楽しく飲んだり食べたりしておられる。弟子たちは、そのような中で何らかの違和感を覚えていたかもしれないと思います。「こんなことをやっていて良いのだろうか」と。

そんな時、非常事態が起こりました。宴会のための葡萄酒が足りなくなったのです。今のように近くのスーパーに行けばワインを売っているわけではないのです。

葡萄酒は喜びをもたらすもの、結婚式の宴会には不可欠です。葡萄酒がなくなると、結婚式そのものを中止しなければならなくなります。母マリアはイエス様を呼んで言います。「葡萄酒がなくなりました。」

ここに書いてあることだけからは、母マリアがイエス様に何らかの解決を求めたのか、あるいは事実を事実として伝えただけかは分かりません。

しかし、それに対してイエス様は答えられました。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」母を母とも思わない無礼な言い方のようにも聞こえますが、「女の方」と訳されている言葉は、女性を尊んだ呼び方とも言われます。私立の学校の校長が理事長である母親に向かって「理事長先生」と呼ぶようなものに似ているかもしれません。イエス様は既に公の活動をしておられたので、公の立場から母親を呼ばれたのです。そして、イエス様は、自分が何をするのか、それは天の父がお決めになることであって、母の頼みであったとしてもそれを自分の思いと力で解決することはできないと仰っているのです。母を拒絶しているわけではないのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」ヨハネ5:19 

天の父のなさること、天の父のお指図であれば、イエス様もなさる。そうでないものは、イエス様はなさらない。そして、「わたしの時はまだ来ていません」と言われる。「わたしの時」とは、贖いを完成なさる十字架にお掛になる時です。もしイエス様が何かをなさるとしたら、それが全て「わたしの時」とおっしゃる十字架による贖いの時の準備へと繋がっていくものとしてしか、イエス様は行うことができないと仰っているのです。

それを聞いたマリアは、手伝いの者たちにいます。「この方の言われることは、何でもそうして下さい」と。父なる神様が「こうせよ」とおっしゃることをイエス様はなされる。イエス様が動かれる時、何かをおっしゃる時、そこに父なる神様が動かれ、お語りになる。そして、それがイエス様の贖いの業へと繋がっていく。だから「この方の言われることは何でもそうしてください」ということになる訳です。

母マリアが去って行ったとき、父なる神様が動かれました。それに従い、イエス様も動かれるのです。イエス様は言われました。「水がめに水を満たしなさい。」

そこには、ユダヤ人の清めのしきたりに従って、6つの石の水がめが置いてありました。この水は、家の中に入る時に足を洗う水としても、また食事の時、手を洗う水としても用いられました。食事の時に手を洗うというのは、儀式として手を清めるのです。新しい料理が出るたびに手を清める。また器も清めます。多くの客を呼んだ結婚式ですから、清めのための水もたくさん必要だったのでしょう。

石がめは6つあったとあります。聖書の中では7が完全数ですから、6は不完全を表します。これが意味していることは、水の清めは完全に人間を清めることはできないということです。律法が定める水の清めでは人間は清められない。

イエス様は、水がめを水で満たせと仰いました。清めのための水を100%葡萄酒に変えるためです。そこに新たな水を加えることができないようにするためです。先ほども言いましたが、葡萄酒はイエス様の十字架の血を象徴的に表します。汚れるたびに清めの儀式のために用いられていた水を100%十字架の血に取り換えられた。水の清めによっては新たにすることができなかった人間の心、その実存を十字架の血によって新たに創造する。私たちを神様の前に完全な者、新しい者とするのは、この方の十字架の血なのです。

そして、イエス様が造られた葡萄酒がこの結婚の祝宴を救い、これを喜びで満たしたように、この方の十字架の血が喜びの消えうせた、失望と恥に沈み込む私たちに、溢れる喜びを満たすのであります。

ヨハネのところからイエス様に従うようになった弟子たちは、これを見て信じたのです。水の清めによってはなすことのできない新しい創造。水のバプテスマによっては為し得なかった人の存在を再創造なさる方、永遠の喜びを満たす方が、このイエス様であることを彼らは知ったからです。

人を抑え込む律法主義、教え、指導するという名目で行われる意地悪、私たちはそのようなもので心は傷つき、痛んでいます。そんな私たちをイエス様は十字架の血で完全な者としてくださるのです。新しく創造して下さる。そして、新しい存在としてくださるだけでなく、何ものも取り去ることができない喜びで満たして下さるのです。そして、この喜びによって人を生かす者としてくださる。喜びを伝える者としてくださる。

100リットルも入るような大きな水がめに満たされた葡萄酒。それはその結婚式に招かれた人々だけで飲みつくすことができるような量ではありませんでした。多くの説教者たち、注解者たちが述べています。その葡萄酒は、この記事を読んで信じる者たちが飲むことができるためのものであると。

私たちの中に喜びが消えている人がいるでしょうか。律法主義や意地悪によって心痛んでいる人がいるでしょうか。イエス様は、あなたに溢れる葡萄酒、永遠に尽きることのない十字架の血潮を注いで新たにし、完全な存在として立たせ、満ち溢れる喜びによって満たして下さるのです。あなたは、喜びによって生きる者となるのです。あなたは周囲の人々を喜びによって生かす者となるのです。あなたの中に喜びを満ち溢れさせて下さるイエス様があなたの中で輝くからです。

8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

祈りましょう。

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