「ルカの福音書」 連続講解説教

時を握る方の愛に生きる

ルカの福音書講解(69)第13章1節〜9節
岩本遠億牧師
2013年2月17日

13:1 ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。

13:2 イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。 13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

13:4 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。 13:5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。 13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』

13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。 13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

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先週金曜日、二日前ですが、ロシアに隕石が落下しました。NASAの推定によれば、直径17メートル、重さ1万トンにも及ぶ、大きなものだったそうです。亡くなった方はいませんでしたが、衝撃波によって建物が壊れたり、ガラスが割れたりして、数百名の人々が怪我をしたということでした。

Youtubeなどの動画サイトに幾つもの映像がアップされ、NHKなどのニュースでもトップで取り扱われました。このような出来事が私たちにショックを与えるのは、これが何の前ぶれもなく、急にやって来たからです。

先週、私たちは、私たちがこの世で生きている時間は、永遠に続く時間の一部なのではなく、期間限定の時間なのだということを学びました。ある時、急に終わりの時が来る。その時が何時かは誰にも分からない。この隕石の出来事はそのことを私たちに思い起こさせます。

今日読んだ箇所でイエス様がお語りになっていることも、終わりの時が突然やって来るという、その教えの最後の部分であります。「ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちの捧げ物の血に混ぜた」という報告がイエス様にあった。

ピラトというのは当時イスラエルを支配していたローマの総督です。その総督府はエルサレムにありました。ガリラヤというイスラエルの北部の地方からエルサレムの神殿に礼拝に行った人たちがいた。ガリラヤには独立自由な気質を持った人たちが多く、ローマ総督から危険視されていました。

そのガリラヤ人たちがエルサレムの神殿に上り、動物の捧げ物を捧げていた時、ローマ兵によって彼らが虐殺されたというのです。捧げられた羊や牛の血と彼らの血が混ざるような悲惨な出来事が起こった。

皆さんはどのように思われるでしょうか。神様を礼拝するために苦労してエルサレムまでやって来たのです。しかし、そこでこの世の支配者であるローマ総督に殺されてしまった。

多くの人たちが口にする疑問は、「神がいるなら何故このようなことが起きるのか。神が愛なら、何故このようなことが起きることを許されるのか」ということではないでしょうか。

イエス様は、また、不慮の事故による死にも言及されます。エルサレムの中にシロアムという場所がありました。そこに塔を建てる工事が行われていましたが、それが倒壊して工事に従事していた人たちが死んでしまった。突然、このようなことが起きる。人はこのようなことに、どのような反応をするのでしょうか。

間もなく東日本大震災から2年となろうとしています。あの大惨事を経験した人たちは、このことを誰よりも理解できるのではないでしょうか。あの大震災は、ロシアに落ちた隕石とは比較にならないような衝撃を日本全体に与えました。私たちはまだその痛みと苦しみの中にあるのです。多くの人々が疑問に思いました。「何故?」と。

被災地となった大船渡には、私が以前から存じ上げているクリスチャンの方がいらっしゃいます。その方自身も、あの大津波の時、近所のお子さんを保育園に迎えに行ったりしておられ、間一髪のところで難を逃れたということでした。その方と地震の後2ヶ月ほどたった時にお電話で話しをしました。

その方が言われました。「『助かって良かったですね』と言われるのが辛い。では、津波に流された人は助からなかったということですか。助かる、助からないとは一体どういうことですか。」本当に厳しい質問でした。命を二分する極限状態を通った方の質問です。

この質問に対する答えは、今日のイエス様の言葉の中にあります。「あなたがたも、悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」この言葉は「悔い改めるなら、滅びません」ということと同じことを意味しています。つまり、滅びるか滅びないかということと、肉体の死を同一視してはならないのです。

死は突然やって来ることがある。また、長生きをした後に、死を迎えることもある。しかし、突然の死が不幸であり、天寿を全うしたら幸せかというと、そうではないとイエス様はおっしゃるのです。

悔い改めた生き方をする、すなわち、自分の思いを基準とした生き方を止めて、神様の御思いに従った生き方をする、神様を見上げ、祈りながら、聖書の言葉に耳を傾けながら、自分の生き方を修正して行く。そのように、神様との正しい関係の中に生きているなら、死が突然やって来たとしても、長生きの後死んだとしても、どちらも大丈夫だ。永遠の命が与えられる。しかし、神様から離れ、自分の思いに固執し、罪の中に生き続けるなら、死が突然やって来た場合も、長生きをした場合も、どちらも滅びるのだというのです。

日本人は、誰かが若くして死ぬと、可哀想だと言います。そこには、長生きする者が幸せである。長生きが良いという価値観があります。しかし、イエス様は、神様に結びついて生きているかどうかだけが、命と滅びを分けるのであると断言しておられるのです。若死には可哀想で、老年まで生きるのが良いという考えはイエス様にはないのです。命と滅びを分けるのは、神様との結びつきだけです。

それは、太く短くという考え方とも違います。どんなに太く短く生きても、神様と結びついていなければ、同じように滅びるからです。

私は、高校生の時、若くして天に召されたある伝道者の追悼文集を読みました。その伝道者の名前は吉井純男先生と言います。私が生まれるよりも先に天に帰った方で、お会いしたこともありませんでしたが、私はその吉井先生の生涯に強く憧れました。その先生のようになりたいと本当に思いました。

吉井先生は、高知出身で、若い頃から聖書に触れ、伝道者としての歩みをしておられました。肺結核を患い、病弱な体であったけれども、自分の体のことを忘れ、深く祈り、精一杯、そしてユーモア一杯に生きたと言います。

私の曾祖母は、70歳近くになるまで、ずっと浄土真宗の熱心な信者でしたが、この吉井先生が曾祖母のところにやって来て、一言、「稲熊さん、神様は愛ですね」と言ってくれた。曾祖母は、その一言で神様の愛に打たれ、浄土真宗を止め、キリスト教徒として生きる決心をしたと言います。それほど、イエス様の愛が吉井先生から迸り出ていたのです。

吉井先生は、高知で自分の体を顧みずに伝道していたので、熊本にいた彼の先生が熊本に休養に来るように呼び寄せました。彼は先生の言葉に従って熊本に来ましたが、熊本でも薬害で耳の聞こえなくなった高校生のために、高校に一緒に登校し、その隣に座って授業を筆記してあげたり、やはり結核で弱っている若者を自分の家に引き取って一緒に生活したり、いろいろなところに伝道に出かけたり、そこでも自分の体のことを顧みずに人に仕えて生き抜きました。

高知からは早く帰って来て福音を伝えてほしいという手紙がやって来ます。熊本でも自分がいなければ生きて行けない人たちの世話をしているので、すぐに高知に帰ることができません。彼は、熊本の人たちに対する愛と、高知にいる人たちに対する愛の間で心が引き裂かれ、思いあまって、冬の寒い朝、毎日水前寺公園のプールに入り、水垢離をとって高知の人たちのために祈り続けたと言います。病弱な彼がそんなことを続けていたら死んでしまいます。彼の先生は、そのことを伝え聞いて、即刻それを止めるように勧告なさったそうです。

しかし、吉井先生はそのことに関しては自分の先生の言葉に従わず、次の日も水前寺公園のプールに入り、高知で自分を待っている人たちのために祈った。しかし、彼はそこで倒れてしまいました。心配になって見に行った方がそれを見つけ、大事には至らなかった。倒れても、また倒れても、彼の中にあるイエス・キリストの愛の火は燃え上がっていたのです。

ついに彼は、高知に帰って伝道することになりました。しかし、自分が不在にしていた時、神の言葉を聞くことができなかった人たちを次々に訪れ、毎日毎晩、聖書を語り、病気の人たちの癒しのために祈り続けた。そして、とうとう自分の力で立ち上がることができないほど、命を流し、伝道に行った家で倒れ、その家で天に召されました。27歳でした。

自分のいのちを削ってまで伝道すべきではなかった、自分を大切にして長生きをして伝道すべきだったと彼の生涯を批判した人もいたそうです。しかし、その追悼文集には吉井先生に一度しか会ったことがなかった人が何人も一文を書いている。一度会っただけで、救われた、クリスチャンになったのです。吉井先生に一度会うだけで神が愛であることが分かる。イエス・キリストがここに生きていることが分かる、そのような人だったと言います。吉井先生は27歳で天に帰りました。神様が呼び寄せられたからです。

彼は、若くして天に帰ったから、残念だったのでしょうか。彼よりも長生きした者たちがより幸せだったのでしょうか。神様に強く結びつき、燃え上がるイエス様の愛で生き抜いた生涯、それが尊いのではないのでしょうか。そこに年齢は関係ありません。神様に結びつき、愛に生きる。そのことだけが幸せなのです。そのことだけに価値があるのです。

私も小さいときから、体が弱かった。祖母には長生きできないだろうとも思われていました。私は、高校生の時、吉井先生の追悼文集を読んで、この先生のように生き、この先生のように死にたいと願いました。そして、吉井先生が27歳で天に召されたように、自分の生涯も27歳までだと思っていました。その時、私は17歳でした。

しかし、私はそのように生き、そのように死ぬことはできませんでした。今も、曾祖母が残した吉井先生の追悼文集は私の書斎にあります。そして、今も、その姿に憧れます。あのように愛に生き、愛に倒れる生涯でありたいと。なかなか愛に生きることができない自分、罪深い心、実を結ばせることの少ない生活を送る自分を見て、私は神様の御前に顔を上げることができない思いに襲われることがあります。

そんな私に、また私たちに、イエス様は語ってくださっている。

「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。 13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』

13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。 13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

イチジクは、葡萄と同じように祝福と繁栄を表すものです。ある人が豊かな実を結んでいる葡萄園の中に、イチジクの木を植えた。ところがイチジクは実を結ばない。この人は、葡萄園の番人にイチジクの木を抜くように命じますが、番人はイチジクを可哀想に思い、弁護するのです。木の周りを掘って肥やしをやってみるから、待ってほしいと。

ここである人というのは、神様です。そして、葡萄園の番人はイエス様のことです。実を結ばない木を抜くというのは、神様による裁きを意味しますが、イエス様は、裁きのときを延期するように、神様に懇願してくださっているというのです。しかも、ただ待ってほしいと言うのではありません。木の周りを掘って肥やしをやってくださる。

私は、家の庭にバラを植えていますが、冬になるとバラの周囲を掘って肥やしをやります。しかし、ただ肥やしをやるだけではないのです。古い枝を切り落とし、新しい強い枝が出て来るように剪定もします。雑草があれば、それも抜きます。その時、初夏になったら奇麗に咲いているバラの花の姿を思い浮かべながらその作業を行います。

小さなバラでもその作業は決して楽なものではありません。まして、大きなイチジクの木の周囲を掘って肥やしをやるというのは大変な作業です。しかし、イエス様は、それを私たち一人一人に行ってくださる。豊かな実を結ばせている姿を思い浮かべながら、声をかけながら、世話をしてくださっているのです。

私の生涯はどのような実を結んでいるでしょうか。あなたの生涯は、どのような実を結んでいるでしょうか。あるいは、まだ結んでいないでしょうか。まだ実を結んでいない者たちをイエス様は庇い、裁きのときを延期するようにイエス様は父なる神様に懇願してくださっているのです。

いつその時が来るのか、私たちには分かりません。私たちの生涯も、いつその終わりを迎えるか分からないのです。若く死ぬことがあっても、老境を迎えて死ぬことがあっても、神様の前に、そこには何の違いもありません。ただ、神様に結びついて生きているか、愛に生きているか、そのことだけが意味があるのです。

そして、私たちが神様に結びついて愛に生きる生涯を歩むようにと、イエス様は私たちの周りに穴を掘り愛という肥やしを豊かに注いでくださる。豊かな実を結ばせるまで、待ってくださっているのです。

「15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」ヨハネの福音書15:1-5

祈りましょう。

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