「マタイの福音書」連続講解説教

時代を救うために

マタイの福音書23章29節から39節
岩本遠億牧師
2008年8月17日

23:29 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、23:30 『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。』と言います。23:31 こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。23:32 おまえたちも先祖の罪の目盛りの不足分を満たしなさい。23:33 おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。23:34 だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。23:35 それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。23:36 まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。

23:37 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。23:38 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。23:39 あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」

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北京オリンピックは前半戦から後半戦に入ったということですが、私は、金曜日の夜、女子サッカー、なでしこジャパンと中国のゲームを感慨深く見ていました。何故かというと、金曜日は8月15日だったからです。日本が戦争に負けた日に、なでしこジャパンが中国女子と中国本土でゲームを行い、みごと勝利を収めたわけですが、平和な時代に生かされているのだと感じました。報道などを見ると、サポーター同士で小競り合いがあったようですし、それに対する各々の国民の感情的な反応もあったようですが。

夏は、日本と日本国民にとって、いつまでも戦争ということから目を背けることができない季節です。今ロシアとグルジアの間で行われている戦争のことなどにも思いを巡らさざるを得ません。

もう何年前になるでしょうか。「親分はイエス様」という映画が製作され、私も家族で見に行きました。その中で、やくざだった人がクリスチャンに、さらに伝道者になっていく姿が描かれるわけですが、最後のほうで、その伝道者となった人が、韓国に行くシーンが出てきます。そこで、ある韓国の人に、「お前たちが、私の家族を殺した」と言われます。その時、渡瀬恒彦さんが演じる主人公は、「俺はやってねえ。俺じゃねえ」と言うのですが、私は、その言葉が、あの映画のどの場面よりも印象深く心に残っています。ある種の違和感を覚えたからです。

「俺はやってない。俺は関係ない」と言い切れる問題なのかということです。実際に自分がやったことでない悪事について謝罪するということはおかしいと考える人も多いと思います。「私はやってない。私は関係ない」と私たちは思うし、また、そのように言うのです。

このように思う私たちに対して、今日私たちが聞いたこのイエス様の言葉は、非常に厳しいものではないでしょうか。私たちは、イエス様の言葉をどのように聞けばよいのでしょうか。

ユダヤ人の歴史において、バビロン捕囚というのは非常に大きな意味を持っていました。神様は、エジプトで奴隷とされていたイスラエルをモーセによって解放し、また、モーセをとおして律法をお与えになりますが、イスラエルは、カナンの偶像礼拝に引き込まれます。ダビデ、ソロモンの時代にイスラエル王国は最盛期を迎えますが、その後も、律法と偶像礼拝の間をふらつき、ついに国力も低下して、アッシリア帝国、新バビロニア帝国という帝国に滅ぼされ、南ユダ王国の指導者たち、知識人、技術者たちはバビロンに捕囚とされてしまいます。

しかし、70年後にペルシャのキュロス大王によって、捕囚を解かれ、ユダの人々は、エルサレムに帰還し、第二神殿を建てますが、それ以降、現在に至るまで二度と偶像礼拝にかかわることはありませんでした。バビロン捕囚は、ユダヤ人にとっては大きな苦痛、屈辱ではありましたが、さらに大きな教訓となったのです。第二神殿時代には、パリサイ派やサドカイ派などのユダヤ教神学が出現し、ユダヤ教が成立します。

それで、イエス様の時代に生きていたパリサイ人たちが、言うのです。「自分があの時代に生きていたら、偶像礼拝などに現を抜かしたりしてはいなかった。自分も偶像礼拝を糾弾し、神に立ち帰れと叫んだ預言者たちと同じように、律法に従う歩みをしていたはずだ。預言者を殺す者たちの仲間にはならなかっただろう」と。それで、彼らは、預言者たちのために立派な墓や、義人たちのための記念碑を建てていたのです。

皆さん、私たちはどのように思うでしょうか。もしあの時代に自分が生きていたら、あんな馬鹿なことには加担しなかったと言えるでしょうか。

イエス様は、そのような者たちに何とおっしゃっているか。「『自分があの時代に生きていたら、預言者を殺す者たちの仲間にはならなかった』と言う者、そう思う者こそが、預言者を殺す心を持った者なのだ」というのです。「自分は正しい。自分なら、あんな馬鹿なことはしない」という心、自分を正しい者とする心、それこそが神様に反逆する者の心だとイエス様はおっしゃっている。

「神様、もし私があの時代に生きていたら、私も、偶像崇拝に取り込まれてしまっていたに違いありません。偶像崇拝の誤りを指摘し、神様のもとに帰るように叫んだ預言者たちを殺す者の一人に、私もなっていたに違いありません。主よ、この罪をお赦しください。主よ、この罪からお救いください」と神様の前にひれ伏し祈るところから、神様との関係の回復が始まるのです。

しかし、そのように悔い改めて祈らなかったのがパリサイ人たちでした。そして、彼らがイエス様を十字架につけるために、異邦人に引き渡すのです。自分も預言者たちを殺した先祖たちと同じだということを認めなかったパリサイ人が、神の子イエス様を殺すことになるのです。そして、イエス様が言われるとおり、その罪の報いとして、紀元70年ローマの将軍ティトゥスによってエルサレムは破壊され、ユダヤ人はもう一度離散の苦しみに会うことになります。

今、平和な時代に生きている私たち、過去の戦争を振り返って、もし自分があの時代に生きていたら、あんな馬鹿なことはしなかったと言えるでしょうか。少なくとも私は、きっと日本帝国主義のお先棒を担ぐような活動をしていたに違いないと思うのです。自分たちの行動を正当化し、反対する者を完膚なきまでに論駁する、そのような精神性が、自分の中にあることを否定することができません。それこそ、まさに戦争に人々を駆り立てるものではなかったでしょうか。

ですから、私は、「俺はやってない。俺は関係ない」とは言えない。心の中に疼くものがあるのです。「主よ、どうぞ、この罪をお赦しください。この罪から救ってください。」

これは、単に先の戦争のことだけではありません。社会でいろいろな事件が起きる。テレビのコメンテーターが「どうして、あんなことをするのでしょうか。まったく理解できません」と平気な顔をして言います。しかし、その度に、私は思います。「そうではない。私も、あの人になり得たかもしれない。自分がそうならなかったのは、ただ主の憐れみによるものだ。私も、あの人のように育ち、あの人のような状況に置かれたら、同じことをしたかもしれない。決して他人ごとではない」と。

私はクリスチャンの良い家庭に生まれた。人生の矛盾と苦悩を通って神様に出会い、この汚い、罪深い心を許され、癒され、変えられてきた。だから具体的行為としての罪を犯さなかったのです。神様が守って下さったのです。しかし、それと同じ罪深い心がこの中にないかと言われたら、返す言葉がありません。

あの人がアダムの罪を引き継いでいるように、私もアダムの罪を引き継いでいる。同じ罪の中にある。主よ、どうぞ、この罪を赦し、この罪からお救いくださいと祈らざるを得ないのです。

そのような中で、私たちに希望を与える聖書の箇所があります。先ほどご一緒に読んだネヘミヤ記の1章です。ネヘミヤは、バビロン捕囚後、ユダの人々が第二神殿を建てた後に生きた人です。彼は、当時のペルシャ王アルタシャスタの献酌官として仕えていました。献酌官というのは、王宮の中ではかなりの高官です。ネヘミヤは、ユダの地からやってきた人々から、エルサレムの人々は非常な困難の中にあり、エルサレムの城壁は破壊され、焼き払われたままだという知らせを受けます。

彼は、それを聞くと座って泣き、数日の間喪に服し、神様に向かって祈ります。

「ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜わる方。 1:6 どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。 1:7 私たちは、あなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった命令も、おきても、定めも守りませんでした。 1:8 しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください。『あなたがたが不信の罪を犯すなら、わたしはあなたがたを諸国民の間に散らす。 1:9 あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行なうなら、たとい、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住ませるためにわたしが選んだ場所に、彼らを連れて来る。』と。 1:10 これらの者たちは、あなたの偉大な力とその力強い御手をもって、あなたが贖われたあなたのしもべ、あなたの民です。 1:11 ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」

6節でこのように言っています。「私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。」

ネヘミヤは、異教の地にあっても偶像を崇拝したことはなく、ただ、天地を造られたただ一人の神だけを礼拝し、律法に従って生きていたのです。しかし、彼は、「私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました」と言って祈っています。

イスラエルの父祖たちが犯した罪、自分が実際には犯さなかった罪について、「まことに、私も私の父の家も罪を犯しました」と告白して祈っているのです。罪の赦しを乞い願い、イスラエルの運命の回復を祈っているのです。

すると、2章以下に出てきますが、不思議な神様の導きによって、アルタシャスタ王の許可と命令を受けて、ユダヤの総督に任命され、エルサレムの城壁を再建する働きを与えられるのです。彼は、幾多の困難と妨害を経験しますが、ついにエルサレムの城壁は再建されます。そして、イスラエルの人々の信仰をもう一度燃え立たせ、主に従う思いを起こさせるのです。

「俺はやってない。俺は関係ない」のでしょうか。具体的な罪は犯さなかったかもしれない。しかし、私たちはみな、アダムと同じ心を持つ者ではないでしょうか。イエス様は、具体的な行為としての罪だけでなく、この心の中の罪を問題にしておられるのです。そのことを認めようとしない時、私たちはまた先祖たちや他の人たちが犯した罪と同じ罪を具体的に犯す者となっていく。預言者の時代に生きていたら、彼らを迫害した者たちの仲間にはならなかったと言っていたパリサイ人たちは、イエス様を十字架にかけるものとなりました。また、自分は正しいと言い張る者たちが、争いを引き起こし、戦争を行ってきたのが人類の歴史ではなかったでしょうか。

イエス様を十字架にかけた者とは一体誰だったのでしょう。具体的には、ローマの兵卒であり、それに命令したローマの百人隊長、さらに死刑に定めたローマ総督ピラト、そして、イエス様をローマに売ったパリサイ人や、「その男を十字架にかけろ」と叫んだイスラエルの群衆たちだったでしょう。しかし、私がそこにいたら、私はどうしたでしょう。一緒になって「十字架にかけろ」と叫んでいなかったでしょうか。自分がピラトの立場にあったらどうしたでしょうか。また、自分がペテロだったら、ペテロと同じように、イエス様を否定したのではなかったでしょうか。私たちの誰が、自分がそこにいたら、イエス様のために命を捨てて戦ったと言うことができるでしょうか。むしろ、暗闇に逃げて行ったペテロ、いや、「その男を十字架にかけろ」と叫んだ群衆の一人と同じだったのではないでしょうか。

しかし、自分の心の中に同じ問題があることを認め、それを知り、悔い改めて神様の前に赦しを求める者たちに開かれる新たな世界があるのです。イエス様は、その十字架の血によって、私たちを赦し、新たな働きをお与えになるのです。ネヘミヤはエルサレムの城壁の再建と、神の民の信仰の復興という新しい働きを与えられました。

自分の心の中の弱さを知る時、それを具体的に行う罪に陥らないように、私たちは少しずつ変えられていきます。罪とは何かを知るようになり、自分の罪深さを知るのです。そして、ますます、この罪を解決することができるただ一人の神、イエス様に信頼するようになっていく。そして、私たち自身が、罪の中にあって倒れている人たちを、助け、生かす平和の働きに用いられるようになるのです。

罪に倒れ、滅びの中にあった者たちが「主の御名によって来る方に祝福あれ」と言う時が来るとイエス様は言われました。イエス様に向かって、祝福あれ、栄光あれと言う時がやってくる。めんどりが雛をその翼の下に集めるように、恵みの翼のしたに、もう一度全ての者たちが集められる時が来る。その時、もう一度イエス様に出会うことができるのだと。「その罪は、私の罪です。主よ、私の罪をお赦しください」と祈り、悔い改め、神様に赦しを求める者たちが、その時のために、平和を造る者として用いられるようになっていくのです。

イエス様は言われました。「平和を作る者たちは幸いです。彼らは神の子と呼ばれる」と。

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