「マタイの福音書」連続講解説教

本当の姿

マタイの福音書17章1節から13節
岩本遠億牧師
2008年2月17日

17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。 17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。 17:3 しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。 17:4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」 17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。 17:6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。 17:7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。 17:8 それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。

17:9 彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」と命じられた。 17:10 そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」 17:11 イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。 17:12 しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」 17:13 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。

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マタイの福音書を連続で学んでおりまして、今日から新しい章である17章に入ります。しかし、1節に「それから6日たって」とあるように、この章は前の章と密接に関連のあるもので、ペテロによる「あなたこそ生ける神の子キリストです」という信仰告白に対するイエス様による十字架と復活の予告という出来事と切り離して考えることができないものです。

ペテロは、神様に示されて、イエス様に向かって「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白しました。しかし、イエス様は、十字架に殺されるのが「生ける神の子キリストだ」と言われます。ペテロは理解できず、「そんなことがある筈がない。あなたはイスラエルの王となるのです」と言いますが、イエス様に「サタンよ、引き下がれ」と叱られてしまうのです。そして、「十字架を背負う道、自分を捨てる道こそキリストの道である。またキリストに従う道である」とイエス様は仰る。サタンとまで言われたペテロの心は痛んでいなかったでしょうか。納得のいかない思いがペテロの中に解決されないまま、残ってはいなかったでしょうか。

サタンとまで言われて、心痛むペテロに、イエス様は「生ける神の子キリスト」のもう一つの姿である栄光の姿をお見せになり、彼を癒し、生かそうとなさるのです。それが今日の箇所です。

つまり、「生ける神の子キリスト」の実存とは何なのかということが、一方では十字架による贖いという出来事によって証され、もう一方では、「キリストの変貌」と言われるイエス様の本質の表れによって証しされているのです。この両者によってイエス様の本質が欠けることなく表される。このことによって、ペテロは、イエス様を深く知っていくという導きを与えられるのです。また、この出来事によってペテロは立ち上がることができたのです。

「17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。」ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネというのは、12人の弟子たちの中でも特にイエス様の側にいて、イエス様の本質は何かということを見せていただいた者たちです。捕らえられる直前にゲッセマネの園で血の汗を滴らせて祈るイエス様のすぐ側にいるようにと言われたのも、この3人です。十字架を前にゲッセマネの園で、「死ぬほど悲しい」と言われた、人としてのイエス様。彼らは、人としての苦しみを経験するイエス様を見、そして、もう一方では栄光に輝くイエス様を見る。イエス様のすぐ側でお仕えするとは、100%の神であるイエス様を知ることであり、100%の人であるイエス様を知ることであったということを聖書は語っています。

イエス様が3人を導いていかれた山は、ヘルモン山であろうと言われています。ペテロが信仰告白したピリポ・ガイザリアよりさらに北にある、高い山です。私も小学校6年生の時、聖地に巡礼に行きましたが、ヘルモン山の中腹までバスで登りました。緑の草の中に岩の柱が無数に生え出ているように見えるところでした。人は一人もいないところです。「ああ、イエス様はここを登っていかれたのか」と思いました。聖書の中に、イエス様は夜一人で山に行って祈られたというところが何箇所かありますが、人を避け、誰もいないところでイエス様は神様を求め祈っておられた。その神様との親しい交わりの中に、ペテロとヤコブ、ヨハネを招きいれてくださったのです。イエス様は、私たちをも、この交わりの中に招いてくださっています。

しかし、そのような父なる神様との交わりの中、「17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」まさに、神であるイエス様の姿が彼らの前で明らかにされたのです。ここで注意しなければなりませんが、これは、イエス様の姿が物理的に変化したということではありません。また、このことによってイエス様が神の子になったということは絶対にありません。

それまで人の目には隠されていたイエス様の神としての本質が、この3人の弟子たちに見えたということです。9節に「幻」という言葉が書いてありますが、これは日本語で言う「夢か幻か」というような儚いものではありません。むしろ、霊的な現実、霊的な事実を罪ある私たちの肉の目は見ることができなくなっている。肉の目にかかっているベールが取り去られる時、霊的な現実が見える。それをギリシャ語でホーラマと言います。肉の目に見えるものよりも、さらに確実な霊の世界が見えた。神様とイエス様との交わりの中に招き入れられた時、弟子たちの心の覆いが除かれ、霊的な現実としての栄光のイエス様が見えたのです。イエス様の本体が明らかになったのです。

旧約聖書の中にエリシャという預言者がいますが、ある時敵国アラムの王が軍隊を送ってエリシャを捕らえさせようとしました。エリシャに仕える若者は恐れましたが、エリシャは言います。「わたしたちを取り巻いているものは、彼らより多い」と。そして主に祈りました。「恐れるこの若者の目を開いてください。」すると、若者の目が開いて、「火の戦車と火の馬が山に満ちて、彼らを取り巻いている」のが見え、彼は平安を得ました。

これらのことは荒唐無稽なことではありません。私たちも同様の経験を与えられることがあります。先週、ある方が言われました。「イエス様に従っていこうと決心した時、イエス様が目の前、ここにいてくださるのがわかった。それが数日間続いた」と。

また、別の方が言われました。「初めて教会に行ったときのことですが、教会の前の階段を上ろうとしたとき、栄光のイエス様の姿が見えて、私は恐怖に震え、倒れて動けなくなりました。しかし、そのイエス様が近づいてきて私に『我が子よ』と語ってくださった。それで、私は立ち上がって教会に入ることができました」と。

また私自身も、イエス様に出会った時に、胸にあった二つの病気がすっかり消えてなくなったのを知りました。レントゲンをとって調べるよりもさらに確実な霊的な知識によって、私は完全に癒されたことを知る、そのような霊的な知識というのがあるのです。

肉の目には見えない霊的な現実、栄光に輝くイエス様の姿、それをペテロたちはここで見たのであります。

すると、そこに栄光に輝くイエス様だけでなく、旧約を代表する二人の大預言者モーセとエリヤがイエス様と語り合っている。同じ記事を記録したルカの福音書には、イエス様が十字架にかけられて殺されることを語り合っていたと書いてあります。キリストの来臨を告げ知らせるものとしてモーセとエリヤがやってくるという思想が旧約聖書にあります。

モーセとエリヤが幻のうちに見えたということは、まさにイエス様こそ、来るべきキリストであることの証拠として弟子たちに示されたということでありました。

しかし、ペテロは何が何だか分かりません。イエス様、モーセ、エリヤの会話に口を挟むのです。「私たちがここにいることは、素晴らしいこと。麗しいことです。ここに3つの天幕を作ります。一つはイエス様のため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのため」と。ペテロは、この山の上の出来事を継続的なこととして留めたかった。またもや、ここで自分の思いを行おうとするのです。

しかし、その時、「17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした。」「光り輝く雲」というのは、気象学的な意味での雲ではありません。聖書の中では「栄光の雲」とも言われ、神様の親しい御臨在を表す超自然的な現象で、ヘブライ語でシェキナーと言われます。イエス様がもう一度この地にやってこられる時、日本語では「雲に乗ってこられる」と訳してありますが、その雲も、このシェキナーなのであって、あの白い雲ではありません。神様ご自身がありありと御臨在なさるとき、その栄光が凝縮されたように満ちることを言うのです。

神様ご自身が語られました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という言葉は、イエス様が洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられた時に天から聞こえた声と同じ言葉ですが、これは、旧約聖書の伝統においては、王の即位の歌、つまり、神様からこの言葉をかけられた者こそが真の王であるキリストであるということです。ペテロたち3人の弟子たちは、神様じきじきにイエス様こそ王の王、主の主であるキリストであるとの言葉を頂き、さらに、「彼の言うことを聞け」とのご命令を受けます。

しかし、このことは彼らの存在をひっくり返すような出来事でした。「17:6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。」とありますが、「ひれ伏した」のはありません。ギリシャ語のもともとの意味では「倒れた」のです。顔を下にして倒れてしまった。うつ伏せに倒れた。死んだように動けなくなったのです。全知全能の神様の前に出ること。それは、罪ある人間には耐えられないこと。存在が消えてなくなってしまうようなことです。

イエス様と神様との交わりの中に入れられた時、霊の目が開かれてイエス様の本体、イエス様の本質が見えた。しかし、それは同時に自分自身の正体が明らかにされるということでもあったのです。

皆さん、どうでしょうか。私たちが一番恐れるのは、自分自身の正体が知られることでないでしょうか。自分の心の中、自分自身の罪、それが全部つまびらかにされ、それが書かれた物が神様の前に開かれる。そのようなことに耐えられる人がいるでしょうか。人は、自分の家族にも自分の正体が明らかにされるのを恐れて生きているのではないでしょうか。人の前には開き直ることもできるでしょうが、神様の前に開き直ることはできません。もう顔を下にして倒れてしまい、自分では立ち上がれなくなります。死んでしまうような出来事です。神様の前にでるとは、そういうことなのです。倒れて震え上がり、「ああ、もう駄目だ」と思うほどの恐ろしい出来事、それが神様との出会いだったのです。

旧約聖書の預言者イザヤも同じような経験をしたとイザヤ書6章に書いてあります。また、教会に始めてこられる方が、教会で捧げられる祈りの言葉を聞いて、怖くて仕方がなかったと言われることがあります。それも同様です。神様の前に出る。誰がそれに耐え得るでしょうか。しかし、そんな私たちを立たせてくださる方がいる。

ペテロは、「彼の言うことを聞け」と語られる父なる神様の言葉を聞いて、イエス様の言葉を否定し、「十字架なんてとんでもない、十字架なんかにかからずに、いつまでもわたしたちと一緒にいてください」と言っていた自分がどんなに間違っていたかを思い知らされるのです。もう言い訳もできない。自己弁護もできない。

「17:7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、『起きなさい。こわがることはない。』と言われた。 17:8 それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。」

ペテロたちは、うつ伏せに倒れて動けなくなっていました。恐れに満ちていました。しかし、そこにイエス様が来られたのです。倒れている者に手を触れ、耳元で語りかけるために、ご自分も膝をつき手を突いて、ひれ伏すようにして近づいて下さっているのです。「さあ、起きなさい。怖がることはない。大丈夫だ」と。神様の前で倒れてしまう者、それを引き起こしてくださる方がいる。立たせてくださる方がいるのです。

イエス様が私たちの全ての罪を覆ってくださるからです。イエス様が十字架で私たちの罪を赦してくださる。イエス様は、このように仰りたかったのではないでしょうか。「ペテロよ。大丈夫だ。わたしがお前の罪を背負うよ。わたしがお前の代わりに十字架に死ぬのだ。だから怖がることはない。立ち上がりなさい。さあ、行こう」と。

ハイデルベルク信仰問答(問60)は次のように告白しています。「たとえわたしの良心がわたしに向かって、『お前は神の戒めすべてに対して、甚だしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている』と責め立てたとしても、神は、わたしのいかなる功績にもよらず、ただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも、罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果たされた服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます。そして、そうなるのはただ、わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け入れるときだけなのです。」

ペテロは、「あなたこそ生ける神の子キリストです」という信仰告白をした時、イエス様に「この岩の上にわたしの教会を建てる。死の門もそれに打ち勝つことはできない」との大きな祝福と約束をいただきました。しかし、その直後にイエス様が十字架の話しをなさると、それに異議を唱え、イエス様に「サタンよ、退け」と一喝されてしまいました。心痛み、恥ずかしくもあったでしょう。納得いかない思い。そういう解決できない思いを抱えるペテロたち3人の弟子をイエス様は、父なる神様との深い交わりの中に招き入れるため、高い山に導かれるのです。全てが分かり納得した者を招かれたのではない。疑い、納得いかないと思っている者たちを招いて下さるイエス様がいる。ここに私たちの希望があります。

霊の目を開いて、神の子としてのイエス様の実体をお見せになり、「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白した信仰が間違っていなかったことをペテロに確信させてくださったのです。しかし、それはまた、ペテロ自身が自分の罪深さ、神様の前に自分では立つことができない存在であることを痛いほど知る機会となったのでした。

そんなペテロにイエス様は近づき、手を触れ、ご自分の手で引き起こし、語りかけるのです。「大丈夫だ。怖がらなくても良い。わたしが、お前の罪を覆うために十字架にかかるから。父なる神様の前に、罪なき者、完全な者として立つことができるのだ。さあ、起きなさい。さあ、行こう」と。

イエス様は、ペテロを、そして弟子たちを本当に愛し抜かれました。そのイエス様が私たちを同じように愛してくださっているのです。疑う者、イエス様の言葉に異議を唱える者、十字架を否定しようとする者、それが私たちではなかったでしょうか。しかし、イエス様はそんな私たちを導いてくださる。霊の高嶺、父なる神様との交わりの中に招いてくださるのです。また、神様の前に立って仕えることなどできない私たち。倒れてしまう私たち。しかし、イエス様が近づき、手をふれ、引き起こしてくださる。「怖がらなくて良い。大丈夫だ」と。この方が、私たちのために十字架にかかって下さったからです。だから、全ての人に希望があるのです。私たちも信じることができる。私たちもイエス様と一緒に歩くことができるのです。

イエス様は、さらに私たちを、その栄光の姿と同じように変えようとしてくださっている。

第二コリント3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。 3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

皆さん、主のご計画と恵みは遠大です。今まだ納得いかないと思っている者を、倒れしてしまうものを十字架の血によって聖め、手を取って引き起こし、さらに聖霊を注いで、私たちの霊の目を開いてくださる。この開かれた霊の目で、昔の鏡のようにぼんやりとかもしれない、しかしイエス様を見上げ、仰いで歩んでいるうちに、私たちをご自分の栄光の姿と同じ姿に変えていこうとする主がいるというのです。それは、私たちの努力ではなく、ただ御霊なる主の働きによるのだと。

皆さん、お互いの顔、お互いの姿を見て、どのように思うでしょうか。「ああ、ここにイエス様がいる。」そのように告白できるような祝福へと、主は、私たちを導こうとしておられるのです。私たちの霊の目が開かれて霊の実体が見えるとき、そこにあるのは罪深い存在ではなく、イエス様のように栄光に輝く者とされたお互いだというのです。それが私たちの本質、正体となるのだ。正しい姿となるのだと。そのためにイエス様は先ずご自分が十字架にかかってくださったのです。甦って、聖霊を注いでくださったのです。

信じて行きたいですね。これ程まで受け入れ、愛し、歓迎してくださる主がいるのですから。

祈りましょう。

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