「マタイの福音書」連続講解説教

本当の自分に出会うとき

マタイの福音書第10章34節〜39節
岩本遠億牧師
2020年5月17日

“わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。

26聖人記念館 長崎西坂公園
豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、1597年2月5日京阪地方へ伝道していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘。

レリーフの一番下に「誰でもわたしに従いたいと思うものは、自分の十字架を負ってついて来なさい」というキリストの言葉が彫られている。

一方、このキリストの言葉は、カルト系キリスト教会で悪用される。

その違いはどこにあるのか?

私たちは、どのようにしたらキリストのこの言葉を間違いなく聞き取り、恐れと強迫観念によってではなく、希望を喜びを持ってキリストについて行くことができるようになるのか?

“塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」”マルコの福音書 9章50節

キリストは対立と争いを願っているのか、それとも、平和を願っているのか?

ここでは、家族間の対立をもたらすという強烈な言葉の表面的な意味だけに囚われると、キリストの真意を読み損なう。他の箇所でキリストは、親を大切にしない者は呪われると言っている。

キリストのここでのポイントは、外なる自己と、真の自己の対立。

外なる自己が関わるもの=家族(父母、息子娘、兄弟)や他の人々

真の自己が関わるもの=天地の創造者であるただ一人の神だけ

ユダヤの宗教哲学者マルティン・ブーバー『我と汝』

人間は二つの世界に生きる

我と汝(私とあなた)の世界      
     ↕️別物
私と彼、彼女、それ・・・の世界

「我と汝」の我←神との関係においてのみ存在
    ↕️別物
「我と彼・・・」の我

ユダヤの宗教哲学者アブラハム・へシェル『人は孤独にあらず』 Man is not Alone

神について考えるとは、神を自分の思考の対象物として発見することではない。神の中にある自分を発見することである。神こそが知る方(主体)であり、我々は知られるもの(対象)である。神が主体となり、我々がその対象となることによってのみ、神について考えることができるのである。

自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。
→家族のことが主たる問題ではない
→自分自身からも離れる
→自分を忘れてキリストについて行く

自分が主体としてどうするか決定する世界から、キリストに見つめられ、キリストの声が聞こえる世界に。

どうすれば、これが可能になるのか?

キリストの弟子たちは、誰一人、自分の十字架を負ってキリストについていくことはできなかった。

ペテロは、キリストが捕らえられた時、3度キリストを知らないと言った。

しかし、キリストは復活し、ご自身を弟子たちに現された。

ヨハネの福音書 21章14~19節
イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」”

弟子たちがキリストのために殉教を誓い、ついて行くと言った時、キリストは、明言なさった。「あなたは私を知らないと言う。私と一緒に死ぬことはできない」と。

自分の決心ではついて行くことができない世界。 自分が主体となっている時には開かれない世界。

キリストが見つめてくださるとき、キリストが呼びかけてくださるときに開かれる世界。

いざという時、キリストが見つめてくださる、呼びかけてくださる。そのことを期待し、この方を信頼すれば良い。

キリストが「わたしを愛しているか」と問いかけてくださるとき、私たちはキリストに愛されている自分を発見し、キリストを愛している自分を発見する。

今は、心配せず、自分で自分を説得しようとせず、キリストを見上げながら祈り、キリストの言葉を聖書の中に聞きながら、生きていけば良い。

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