「マタイの福音書」連続講解説教

来るべき方

マタイによる福音書11章2節から6節
岩本遠億牧師
2007年7月29日

11:2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、 11:3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 11:4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。」

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私たちが聖書をどのような前提で読むか、それは、聖書を理解する上で非常に重要なことです。神様は恵みに溢れる方だという前提で読むのと、神様は人間に厳しい方だという前提で読むのとでは、同じテキストを読むのでも、全く違った解釈を引き出すことになります。今日私たちに与えられている箇所も、いろいろな解釈がありますが、私たちは、聖書の何処にもイエス様の恵みが溢れているという前提で読み解くことによって、神様の光を照らされ、聖霊に満たされていくことができる箇所であります。このような聖書の読み方を「恵みによる聖書理解」と言います。私たちは、何としても、このような聖書の読み方を体得したいと思います。

先週までのところには、イエス様が12弟子たちをお遣わしになる時に与えられたご指示と、励ましの言葉が書かれていました。そこにも、イエス様の弟子たちに対する溢れる恵みと愛が満ちていました。今日のところは、イエス様と洗礼者ヨハネとの関係について書かれています。ここにもイエス様の恵みと愛が溢れています。それを皆さんと一緒に分かち合いたいと思います。

次のように書いてあります。

11:2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、 11:3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

ヨハネとは、洗礼者ヨハネと呼ばれる人で、イエス様がやって来るための道備えをした人です。彼は、神様から離れて生きていたイスラエルの人々に、罪を離れて正しく生きることを説きました。「神の国は近づいた。神に立ち帰れ。罪を告白して、それを捨て去れ。バプテスマを受けて、罪を拭い去って、新しく生きよ」と教えました。

今、キリスト教会の中で行われている洗礼バプテスマは、ヨハネのバプテスマとは全く違った意味で、「イエス様が私の罪のために十字架に死んでくださった。それによって私の罪は赦された。私もイエス様と一緒に死んだのだ。そして、イエス様が復活なさったように、私も今永遠の命の中に生かされている」ということを告白する意味があります。

このように、ヨハネのバプテスマと、イエス様の御名によって与えられるバプテスマは意味が異なりますが、ヨハネの働きは、非常に偉大で、イスラエル全土に宗教改革の旋風を巻き起こし、イスラエル中の人々がヨハネのところにやってきて、自分の罪を告白してヨルダン川に浸って、バプテスマを受けました。また、彼の教えは、イスラエルに留まらず、地中海世界にまで広がっていく力がありました。

自分中心の行き方、罪をごまかしながら生きている生き方から、神様を中心にする生き方に人々を回心させる、偉大な働きでした。これこそ、まさに神の御子イエス様をお迎えするための働きであり、曲がりくねった人々の心を真っ直ぐにし、イエス様の通られる道を備えるものだったのです。ヨハネは、自分がどのような働きをするのかということを明確に自覚した人で、次のように告白しています。

「3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 3:12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

自分よりも後に来る方、その方は、人に聖霊と火によってバプテスマする。すなわち、聖霊によって、人を新しい存在、神の子に造りかえる。その心の中の悪を聖霊の火によって焼き尽くし、清く傷のないものとして人を神様の御前に立たせる方なのだと宣言しました。また、彼はヨハネの福音書の中で告白しています。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 1:33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 1:34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

彼は、全人類の中で只一人イエス様の霊的な実体、神の御子という本質を見抜いた人です。イエス様は、今日の箇所に続くところで、彼を「女が産んだ者の中でヨハネより偉大なものはいない」と絶賛しておられます。イエス様の来られる道を備え、その神の御子という本質を見抜いたからです。それほどの人がバプテスマのヨハネでした。

ところが、ヨハネは、当時のユダヤ王、ヘロデ・アンティパスの罪を指摘したため、捕らえられ、牢獄に入れられることになりました。ヘロデ・アンティパスが自分の弟の妻ヘロデアを自分の妻とするという姦淫の罪を犯したからです。ヘロデアの誘惑があったようですが、罪を公然と指摘されたヘロデは、ヨハネを捕らえ、牢に監禁しました。生殺与奪の件を握る時の最高権力者ヘロデ王に向かって罪を指摘する。神様に立ち帰るように言うということは、命がけのことです。まさに、命を捨てて、ヨハネは神様の御心を語ったのです。そのヨハネが牢獄の中からイエス様のところに弟子を遣わしました。

ヨハネは、キリストの御業を牢で伝え聞いたとあります。なぜなら、イエス様は、ヨハネが捕らえられるまでは、ご自分の働きを始めておられず、ヨハネのグループの中に身を置いておられたからです。ヨハネは、来るべき神の子イエス様が身を低くして自分のグループの中におられるのを見ていました。「この方こそ、来るべきキリストである」と見抜きながらも、まだ活動をお始めにならないイエス様に熱い視線を送っていたのです。

ヨハネが捕らえられた時、イエス様はご自分の時が到来したことを知り、立ち上がられました。そして、獅子奮迅の働きを始められるのです。貧しい者たち、世に捨てられたような者たちに福音を語られました。病に苦しむ多くの人々を癒し、目の見えないものたちの目を開き、多くの人生を回復していかれるのです。ヨハネは、そのイエス様のキリストとしての働きを牢の中で聞きました。そして問わせます。「来るべきお方は、あなたでしょうか。それとも他に待つべきでしょうか。」

彼は、何故このような質問をさせたのでしょうか。これにはいろいろな解釈があります。ある人は次のように解釈します。「ヨハネは、イエス様に審判者としての働きを期待していた。イエス様が罪人を滅ぼし、イスラエル王国を復興することを期待していたのに、福音を語ることと、癒すことに専念するイエス様に、躓いたのだ」と。あるいは、イエス様にそのような働きをするように促がしたという人もいます。また、別の人は、牢に入れられて明日殺されるかもしれないという状況に置かれ、以前持っていた確信が揺らいだ。自分が信じてやってきたことが間違っていなかったかどうか、イエス様にそれを確かめたくなった。イエス様に、「あなたは間違っていなかったよ」と言ってもらいたくなったのだと考えます。皆さんは、どのように感じるでしょうか。自分がヨハネだったらどのように思うでしょうか。

ヨハネが何を考え、何を求めていたのかということは、イエス様が一番ご存知でした。イエス様のお答えは、ヨハネの叫びに答えるものです。何と仰ったか。

11:4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。」

「見聞きしていることを」と訳してありますが、正確には、「聞いていること、見ていることをヨハネに伝えなさい」です。ヨハネの弟子たちは、何を聞いたのでしょうか。何を見たのでしょうか。彼らが聞いたのは、イエス様の言葉です。イエス様が貧しい者たち、人に見下されている者たち、無価値な者と言われている人たちに語っておられた福音の言葉です。イエス様の祝福の言葉です。「幸いなるかな、霊の貧しい者たち。天の国は彼らのものだ」で始まるイエス様の祝福の言葉は、決して山の上だけで語られたものではありません。ご自分を求めて集まって来る苦しむ者たち、渇く者たちに、何度も何度もイエス様は語っておられたのです。しかし、ヨハネはそのイエス様の福音の言葉、祝福の言葉を一度も聞くことができなかった。自分が捕らえられるまで、イエス様は活動をお始めにならなかったからです。イエス様の祝福の言葉を聞くことができませんでした。だから今、苦しんでいるのです。魂が叫んでいるのです。イエス様の言葉、神の言葉を求めているのです。

ヨハネは、女が産んだ中で最大の人物と言われる人でした。しかし、ヨハネも、イエス様の祝福の言葉を聞かなければ、生きていくことのできない、霊の貧しい者、悲しむ者、低められた者、義に飢え渇く者だったのです。しかし、今日の招きの言葉でお読みしたように、「神の子の声を聞くものは生きる」のです。ですから、イエス様は、この祝福の言葉を牢屋に閉じ込められ、死に直面したヨハネに送られたのです。「あなた方が聞いている言葉をヨハネに伝えよ」と。

5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

ヨハネは、イエス様の言葉によって、どんなに励まされ、力づけられ、癒されたことでしょう。目の前に迫った死を乗り越える力を与えられたことでしょう。

そして、イエス様は、もう一つの幸いをヨハネに贈られました。「幸いなるかな!わたしに躓かない者」と。「わたしに躓かない者は幸いである」と言うと、何か、躓いた者は幸いでないというような、突き放したような、批判を込めたような意味があるように感じられるでしょうが、イエス様は、そのようなことを言われたのではありません。イエス様は、ここで、「何と幸いなことだろう。何と祝福されていることだろう。わたしに躓かないその人!」とヨハネに向かって語っておられるのです。山上の説教の祝福の言葉は、複数形で書いてありますから、貧しい人々、悲しむ人々と多くの人々に向けて語られています。しかし、ここでは単数形が用いられています。英語では、Blessed is he who is not offended because of Meと訳されています。イエス様はヨハネのことを想定して、「何と祝福されていることか」と言われたと解釈できるのです。イエス様は、この祝福の言葉をヨハネに個人的にお贈りになりました。「わたしは、あなたを信じています」と。ヨハネは、どんなに力づけられたことでしょう。この言葉によって、彼の存在に光が照らされたのです。

そして、イエス様は、ヨハネの弟子たちが見ていることを伝えるように言われました。イエス様は、目の見えない人の目を開き、足の不自由な人を歩かせ、重い皮膚病を患っている人は清め、耳の聞こえない人の耳を開き、死者は生き甦らせ、貧しい人に福音を告げ知らされておられました。

ここでイエス様は、旧約聖書のイザヤ書の預言を引用なさいます。その前後から読みますと、次のように書いてあります。

35:1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。 35:2 花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。 35:3 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。 35:4 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」 35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。 35:6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。 35:7 熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。 35:8 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。 35:9 そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み 35:10 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。

イザヤ書を知っていたヨハネは、イエス様が何を伝えたいか分かったことでしょう。4節に「神は来て、あなたたちを救われる」とあります。「神が来たのだ」、そして、ご自分がなさっている業は、神が来た証なのだ。「あなたが命を賭けて道備えをした、キリストの働きが今行われている」ということをヨハネに伝えさせなさいました。

「来るべきお方は、あなたですか。それとも、別の人を待つべきでしょうか」というヨハネの言葉の背後に隠れている魂の叫び、それは、イエス様によってしか満たされることのない霊の叫びだったのです。人の目には、ヨハネは懐疑的になったとか、イエス様に失望したのだとか言われるような言葉だったかもしれません。しかし、人には理解されなくても、イエス様はヨハネの叫びを聞き分けてくださいました。そして、ヨハネに祝福の言葉を贈り、その存在を支えられたのです。

 私たちも同様ではないでしょうか。イエス様こそ神の子と信じて、生きてきた。しかし、そんな私たちにも人生の苦難が押し寄せるときがある。自分の存在が揺さぶられ、脅かされるようなことが起こる時、自分はイエス様を信じてきて良かったのだろうかと思うことがあるかも知れません。あるいは、そのことを口に出して言ってしまうこともあるでしょう。人には、「人生の苦難、試練の中で信仰がぐらついている」と言われるようなことがあるかもしれない。しかし、イエス様は、そのような言葉の背後にある私たちの魂の叫びを聞き分けておられるのです。そのような私たちにこそイエス様の言葉が必要であることを、誰よりも良く知っておられるのがイエス様なのです。

そして、そんな時に、人を用いて聖書の言葉を語らせ、イエス様の祝福の言葉を贈ってくださる。私たちの存在を根底から支える言葉を与えてくださるのです。

証し 

祈りましょう。

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