「マタイの福音書」連続講解説教

東方の博士と礼拝の意味

マタイの福音書講解説教(3)2章1-12
岩本遠億牧師
2006年6月25日

2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになっ
たとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はど こにおいでになりま
すか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりまし
た。」
2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同
様で あった。

2:4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストは
どこで生まれるのかと問いただした。2:5 彼らは王に言った。「ユダヤの
ベツレヘムです。預言者によってこう 書かれているからです。2:6 『ユダ
の地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さ
くはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだ
から。』」

2:7 そこで、ヘロデはひそかに博 士たちを呼んで、彼らから星の出現の時
間を突き止めた。2:8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行
って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って
拝むから。」

2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星
が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとど
まった。

2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

2:11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ
伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物として
ささげた。

2:12 それから、夢でヘロデのところへ戻 るなという戒めを受けたので、別
の道から自分の国へ帰って行った。

+++

この箇所は、イエス様がお生まれになった時、恐らく、その直後ではな
く、1年数ヶ月の後と思われますが、異教徒であった東方の博士たちがイエ
ス様を拝むためにやってきたという出来事を記したものです。今日は、この
箇所が私たちに語りかけるメッセージに耳を傾けたいと思います。ここのポ
イントは、イエス様は、全世界の王であり、礼拝を捧げられる対象であると
いうこと。礼拝とは、身をかがめること、ひれ伏すことを意味します。そし
て、イエス様を礼拝することによって私たちは正しい道に導かれるというこ
とです。

では、聖書の本文を見ていきましょう。

+

「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったと
き、」とありますが、ヘロデ王とは、ユダヤ人の王ではなく、エドム人であ
り、ローマ帝国によってユダヤを支配するために立てられた傀儡王であり
ました。彼は類まれな建築の才能と政治手腕を持つ反面、猜疑心と残忍さ
にも満ちており、肉親をも次々と殺害しながら、自分の支配力を保持して
いたということです。そのような時代、社会不安が増大し、イスラエルの
中も、ローマ帝国とヘロデ王を支持する者たちと、彼らを倒して真のイス
ラエル王国を復興しなければならないと考える人々との間に対立がある時
代に、イエス様は生まれました。

また、「ベツレヘム」というのはエルサレムに近い町ですが、そこは、
エルサレム神殿で人の罪のために生贄とされる子羊たちが育てられてい
たところです。イエス様は、真の神の子羊、人の罪を取り除く犠牲とし
て生まれたのでした。

見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。 2:2 「ユ
ダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たち
は、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」2:3 それを
聞いて、 ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。

「東方の博士たち」とありますが、これはメソポタミア地方で占星術を行っ
ていた賢者たちと言われます。よく3人の博士と言われますが、3名だっ
たかどうかは不明です。二人だったかもしれないし、5人だったか10人
だったかも分かりません。イエス様に捧げた贈り物の数が3つだったか
ら、博士も3人だったと言われるだけです。

この占星術の学者たちは、当時戦乱によって混迷していた世界を治める
真の王が現われることを期待しており、真の王が出現する印が天体の運
行に現われると考えていました。そこで、いつも天体を観測していたの
です。注解書などによると、紀元60年、クリスチャンたちに大迫害を加
え、ローマに火をかけた暴君ネロ帝のところにも、メソポタミアの占星
術の学者たちがやってきたという記録があるということです。ですから、
星の運行を見て、自らの行動を決定するという彼らの行動基準が必ずし
も正しくはなかったことには注意しなければなりません。

また、ここに記されている「星」の動きは、一般的な星の運行とは違っ
たものですから、彼らが見た星が天文学的な、どの星だったのかという
ことを議論することは、この聖書のテキストを理解するうえであまり役
に立ちません。重要なのは、ユダヤ人の中から真の王が生まれることを
彼らに示した光があったということ、そしてそれを見て、彼らがエルサ
レムまでやってきたということを確認することです。

また、ヘロデ王は、恐れ惑ったと書いてありますが、先ほども言いまし
たように、それは彼がユダヤ人の王ではなく、エドム人であり、ローマ
帝国によってユダヤを支配するために立てられた傀儡王であったため、
本物のユダヤ人の王が生まれたら、自分の存在が危うくなると思ったか
らです。ですから、ユダヤ人の王が生まれたというニュースに、彼は恐
れ惑いました。

またエルサレムの住民も同じように恐れ惑ったとあります。自分たちを
ローマやヘロデの手から救い、イスラエルを神の国とする真の王が生ま
れたと聞いて喜べれば良いのですが、彼らは恐れました。ヘロデによる
残虐な行為に巻き込まれることを恐れたのです。また、ローマ帝国との
戦いが起こるのではないかと恐れたということでもあります。

エルサレムの人々、イスラエルの人々は、自分の王の誕生を誰一人とし
て喜びませんでした。一方で、ユダヤ人でもなく、占星術を行う異教徒
が不思議な星に導かれて、真の王であるイエス様を礼拝しに来たという
ことに私たちは心をとめたいと思います。イエス様は、生まれたときか
らユダヤ人だけの王ではなく、全世界の王、唯一の真の王であったので
す。この方こそ、私たちがその前にひれ伏すべき方、唯一の礼拝の対象
です。

しかし、この東方の賢者たちは、自分の知恵と考えではイエス様を礼拝
することはできませんでした。彼らは、不思議な星の出現によって、ユ
ダヤ人の王が生まれたことを知らされましたが、イスラエルの首都エル
サレムのヘロデの王宮に新しく生まれたユダヤ人の王を訪ねに行ったの
です。それは、彼らの人間的な考えに基づく行為でした。ユダヤ人の王
はイスラエル王の王宮にいると考えたのです。

その時、彼らはそれまで自分たちを導いていた星を見失いました。自分
たちを導いた星から目をそらし、人に聞こうとしたのです。そしてヘロ
デ王の策略の中に巻き込まれていきます。

2:4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリスト
はどこで生まれるのかと問いただした。2:5 彼らは王に言った。「ユダ
ヤのベツレヘムです。預言者によってこう 書かれているからです。2:6
『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して
一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたか
ら出るのだから。』」2:7 そこで、ヘロデはひそかに博 士たちを呼ん
で、彼らから星の出現の時間を突き止めた。2:8 そして、こう言って彼
らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかった
ら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」2:9 彼らは王の言った
ことを聞いて出かけた。

彼らは、殺戮者ヘロデに呼び出され、星の出現について詳しい情報を聞
き出されます。そして、今度は、ヘロデに遣わされる者として出かけて
いくのです。彼らは、当時メソポタミア地方で第一級の学問を修めた人
たちでした。しかし、自分が耳を傾ける相手を見分けることができませ
んでした。真の王を礼拝するためにやってきたはずでした。しかし、殺
戮者の命令に従う者となってしまいました。そしてこの失敗が、次回見
るヘロデによる幼児虐殺へと繋がっていくのです。

しかし、神様は、そんな彼らを見捨てず、イエス様のところに導かれま
した。

2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見
た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上
にとどまった。
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

星は、彼らがヘロデのところで時間を取っている間、彼らを待っていた
のです。ヘロデ王のところに行かなくても、星を見続けていたら、イエ
ス様のところにたどり着くことができたはずでした。しかし、賢者たち
は、間接的ではあるが、自分たちが神様のお導きを受けているという意
識はなく、人の知恵に頼ろうとし、失敗してしまいました。ところが、
神様は、賢者たちに、もう一度この霊の導きを与える星を見させ、イエ
ス様のところに導かれるのです。

私たちも同様です。私たちをイエス様のところに導くのは、神様ご自身
の霊の導きであって、人の知恵ではありません。イエス様を礼拝するた
めに集められた私たち、人からの誘いがあり、様々なきっかけがあった
でしょう。しかし、その背後に神様のお導きがあります。初めは間接的
な働きかけですから、それが神様からのものだとは分からないかもしれ
ません。しかし、神様ご自身がこの背後におられるのです。神様ご自身
の霊の導きが私たち一人ひとりに与えられているのです。

賢者たちが星を見失ったように、私たちも自分が神様からの導きを得て
いるということを意識しないことがあるでしょう。そしてその導きを見
失うこともあるかもしれません。そして、神様に敵対する者の罠にかか
るようなことがあったかもしれない。しかし、そんな私たちを神様は見
捨てず、もう一度導きを与え、イエス様のところに連れて行ってくださ
るのです。礼拝者への道を導いてくださるのです。

賢者たちは、幼子イエス様に出会い、ひれ伏して礼拝し、黄金、乳香、
没薬という三つの宝をイエス様に捧げます。ここに、この出来事のク
ライマックスが表されています。彼らがひれ伏したのは、王宮にいる王
ではありませんでした。普通の家にいる、まだ話すこともできない幼子
を自分の王として崇め、ひれ伏し、自分たちの持ってきた宝、王に捧げ
るべき、王の栄光にふさわしい宝を捧げるのです。ここに礼拝の二つの
主要素が明らかにされています。

まず第一に、ひれ伏すことです。礼拝という言葉の原義は、ひれ伏すと
いう言葉から来ています。謙遜になることです。自分の存在の全てが神
様の前に無に等しいことを認めることから始まるのです。相手が自分よ
りも圧倒的に強く、その力の前に自分が無力であることを見せ付けられ
るとき、身を屈めることは難しくありません。むしろ、多くの人が自分
を守るため、卑屈になり、自分の身を屈めるでしょう。

しかし、イエス様は、私たちをねじ伏せたりはなさらない。私たちが卑
屈になってひれ伏すことを願っておられないのです。むしろ弱い愛の姿
を露にされました。生まれたばかりの時も、この時も、十字架の上で
も。決して私たちを力でねじ伏せようとなさらない方がイエス様です。
しかし、この方の中に真の神を見、この方を自分の王として、喜びをも
ってひれ伏すことが私たちにとっての礼拝なのです。人の目から見たら
弱い姿の中に、真の神の栄光を見ることができるのは、私たちの中に神
様の啓示、聖霊による啓示が与えられるからです。聖霊が教えてくださ
るからです。

ヨハネの黙示録に、イエス様の前にひれ伏す長老たちの姿と言葉が書か
れています。

4:10 二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に
生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
4:11 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと 力とを受けるに
ふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、
万物は存在し、また創造されたのですから。」

自らの栄光を投げ捨て、自分の思いを捨ててイエス様を神として告白す
ること、万物がイエス様によって創造され、イエス様の御心のゆえに存
在することを告白する、自分がイエス様によって創造され、イエス様の
御心のゆえに存在することが礼拝なのです。

そして、礼拝の二つ目の要素、捧げるという行為が行われます。彼らは
真の王、王である祭司であるイエス様に、王の受けるべき黄金、乳香、
没薬をささげました。これらは、共に高価なものです。乳香は神に捧げ
られる香で、イエス様が祭司としてのお働きをすることが示されていま
す。また、没薬は、防腐作用のある香料で、イエス様の十字架の死を予
告しているとも言われます。

いずれにせよ、彼らは、自分のできる限りの捧げ物をしました。ここに
礼拝の第二の要素が明示されているのです。礼拝とは、私たちが神様に
捧げ物をする時であるということです。

聖書に、「主の前には、何も持たずに出てはならない」(申命記16:16)
という言葉がありますが、捧げ物とは、神様との交わりを得るための基
本的な態度だと教えています。

では、何を捧げるのか。旧約聖書の律法には、動物の捧げ物、鳩の捧げ
物、穀物の捧げ物、ぶどう酒の捧げ物、収入の十分の一の捧げ物などが
命じられています。これらは、罪によって汚された神様と人間との関係
の回復と維持のための手段、祈りと改悛、義務と感謝の表現、神様との
交わり、信仰の表明でありました。

しかし、それを形式的に捧げることが重要なのではなく、むしろその形
式の背後にある、私たちの心が問題とされます。人類の始祖アダムの子
どもたち、カインとアベルは共に神様に捧げ物をしましたが、カインの
捧げ物は受け入れられませんでした。その心が神様から離れていたから
です。

また、罪を犯したダビデは、次のように歌いました。「51:16 たとい私
がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のい
けにえを、望まれません。 51:17 神へのいけにえは、砕かれたたまし
い。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれませ
ん」(詩篇51:16-17)。

砕かれた魂、悔いた心こそ神様が受け入れてくださる生贄なのだと告白
しています。この後、悔いた心、砕かれた魂を捧げるとき、動物の生贄
を神様は受け入れてくださると続けています。

また、ホセアという預言者も、次のような神様の言葉を告げています。
「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、
むしろ神を知ることを喜ぶ。」ホセア6:6

イエス様は、このホセアの言葉を引用していて、罪を犯した者が、その
罪を悔い、神様のところに立ち帰るのを共に喜ぶ心こそ、神様が喜ぶ捧
げ物なのだということを教えておられます。つまり、自分自身が罪を悔
いる心を持ち、罪を悔いる友を支え、共に神様の前に赦しを乞う心です。

さらに、新約聖書の手紙の中には、私たちが歌う賛美が神様に対する捧げ
物であると述べています。

「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名
をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありません
か。」ヘブル13:15

そして、究極的には、私たちが私たち自身を捧げること、これが霊的な礼
拝だと結論付けているのです。

「12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、
あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられ
る、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの
霊的な礼拝です。12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、
むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入
れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分
を変えなさい。」ローマ12:1-2

アフリカ宣教で有名なリヴィングストンは、子供の時、教会で献金の籠が
回ってきたとき、その籠の中に入って、自分を神様に捧げたという逸話が
残っています。

これらをまとめ、現在の私たちに当てはめると、それは今は献金として捧
げられるもの、悔いた心、砕かれた魂、つまり罪を認める謙遜な心、神様
を知る心、深い同情心、賛美の歌、そして自分自身の体を神様に捧げるこ
と、これが私たちがイエス様に対して捧げるべき捧げ物だということにな
ります。

イエス様の前に謙遜になり、身を屈めることと、今自分のできる捧げ物を
することが礼拝なのだと聖書は教えています。

賢者たちに話を戻すと、彼らは、幼子のイエス様の前にひれ伏し、宝の捧
げ物をしますが、この時から、彼らは神様の御霊の直接的な導きを得るよ
うになります。つまり、礼拝は、彼らの人生、彼らの存在のあり方を根底
から変えるものとなったのです。12節に「それから、夢でヘロデのところ
へ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」
とあります。

これまでは、不思議な光によって間接的に導かれていた。イエス様のい
る方向をそれによって目指したが、自分の考えに従って、その光を見失
ってしまった。そして殺戮者ヘロデに遣わされるものとなってしまった
のがこの賢者たちでした。

しかし、イエス様に対する礼拝を行い、礼拝者となった彼らは、今度は、
神様の直接的な霊の導きを与えられ、夢に神の声を聞く者となった。そし
て、二度とサタンの声に耳を傾けない者と変えられ、ヘロデの道ではな
い、神様の導く道を歩む者とされたのです。

イエス様を礼拝するとは、ただ単に教会に来ることだけを意味するのでは
ありません。イエス様の前にひれ伏すことと捧げることを意味するので
す。しかし、このことをとおして、私たちは悪魔の声を聞かないものとさ
れるのです。これまで誰の声に従ったら良いのか分からず、悪魔の罠に陥
れられ、図らずもその手先となってしまっていた者が、イエス様に出会っ
て救われ、神様のものとされ、神様の直接の霊の導きを得るものとなる。
神様ご自身が私たちの主となってくださるのです。そして、もう二度と同
じ道を帰らない者とされる。神様が導いてくださる、神様の道、神様がお
られる道を歩む者とされるのです。

礼拝は、私たちの存在を根底から清め、神の子とする神様の恵みの業が
現される時なのです。

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