「マタイの福音書」連続講解説教

柔和な人々は幸い

マタイによる福音書講解説教5章5節
岩本遠億牧師
2006年9月10日

柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。マタイによる福音書5章5節

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毎週、マタイの福音書を連続で学んでいます。イエス様のそばにやって来た弟子たちに、イエス様は祝福の言葉をおかけになりました。「ああ、何と祝福されていることだろう」と。幸いな人々の定義をすることが目的ではなく、祝福を与えるため、祝福するために、イエス様はこの祝福の言葉を語っておられるのです。今日は、その3番目の「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」という言葉についてご一緒に考え、溢れるイエス様の祝福を頂きたいと思います。

私たちは、「柔和」という言葉にどのようなイメージを持っているでしょうか。「やさしくて穏やかな様子」というのが日本語の意味ですが、普通は、「柔和な顔」とか「柔和な性格」というように使われます。日本語の「柔和」という言葉は、人の性格を表現するために使われたりします。しかし、イエス様がここで言っておられるのは、人の性格に関することではありません。「穏やかな性格の人は幸いです。その人たちは地を受け継ぐ」とおっしゃっているのではありません。むしろ、神様と自分との関係、人と自分との関係において、どのような在り方を求めるのかという意思に関わることだと考えた方が良いようです。

「柔和」と訳されている言葉は、「自己を神の貧しい僕とみなし、神の意思に完全に従順であり、それゆえにまた隣人にたして怒りや傲慢な思いを抱かない状態」と説明されています(新聖書大辞典)。祝福の言葉の第一に、「霊の貧しい者」というのがありましたが、これは神様の前に謙遜である状態を言います。この第三の「柔和な者」というのは、神様の前に謙遜であることを基本として、人との関係において謙遜であることを意味しているのです。

そのような人は「地を受け継ぐ」とあります。これは、土地を相続するという意味ではなく、神様が与えようとしておられる祝福を豊かに受けるということを意味しています。信仰の父アブラハムは、神様に「あなたの生まれ故郷、父の家を出て、わたしが示す地にいきなさい」と命じられ、カナンの地にやってきました。そして「あなたの子孫にこの地を与える」との約束を頂くのです。地を受け継ぐことは、神様の約束の実現であり、それは、その地から生じるすべての良き物を享受するということです。神様がすでに用意してくださっている祝福を自分のものとして受け取ることを意味します。

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神様に対して従順、謙遜であること、柔和、謙遜であることが、神様の溢れる祝福へと繋がっている。どういうことなのでしょうか。

謙遜ということは、自分の意思を行わないということがその基本的な態度です。自分の主人に仕える僕は、自分の意思ではなく、主人の意思を行うのです。イエス様は、「人の上に立ちたい者は、仕える者でなければならない」とおっしゃいました。しかし、人に仕える、あるいは、自分の意思を行わないということのためには、深くて強い、神様との関係、神様に対する信頼が必要なのです。神様がすべてのことを働かせて益としてくださる。目に見える状況を貫いて、神様が最善をなさる、という神様に対する信頼があるから、私たちは自分の思いを捨てることができるのです。そこに安心と解放があるのです。

このことを旧約聖書の例話から見てみたいと思います。創世記26章15節から25節です。

26:15 ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた。26:16 アビメレクはイサクに言った。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」 26:17 イサクはそこを去って、ゲラルの谷に天幕を張って住んだ。

26:18 そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったが、アブラハムの死後、ペリシテ人がそれらをふさいでしまっていた。イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けたとおりの名前を付けた。

26:19 イサクの僕たちが谷で井戸を掘り、水が豊かに湧き出る井戸を見つけると、 26:20 ゲラルの羊飼いは、「この水は我々のものだ」とイサクの羊飼いと争った。そこで、イサクはその井戸をエセク(争い)と名付けた。彼らがイサクと争ったからである。 26:21 イサクの僕たちがもう一つの井戸を掘り当てると、それについても争いが生じた。そこで、イサクはその井戸をシトナ(敵意)と名付けた。

26:22 イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。 26:23 イサクは更に、そこからベエル・シェバに上った。 26:24 その夜、主が現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす/わが僕アブラハムのゆえに。」 26:25 イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。

 イサクは、イスラエルの祖父、信仰の父アブラハムが老年になってから生んだ跡継ぎの息子です。彼は、父アブラハムの信仰と祝福を受け継ぎました。全能の神、天地を造られた神が、彼の神となってくださったのです。神様がイサクを祝福し、豊かにさせられたので、ペリシテ人たちは彼をねたみ、彼の父アブラハムが掘った井戸をことごとく埋め、彼を土地から追い出しました。

彼は井戸掘りの名人のような人で、移って行った地でいくつも豊かな水が出る井戸を掘り当てます。しかし、その度に、井戸の所有権をめぐって土地の人と争いが生じます。彼は、争わず、掘り当てた井戸を残して別の場所に移り、また井戸を掘るのです。

人は自分の権利を主張し、自分の力で手に入れたものとプライドを守るために争います。しかし、イサクは争いませんでした。

きっとイサクは、父アブラハムから、どのようにして神様がアブラハムに現われ、彼を導き、強め、豊かにしてくださったか、神様が与えてくださる祝福とは何なのかということを聞いて育ったに違いありません。最悪と思えるような状況の中にも神様は共にいて、必要なものを備え、最善をなしてくださる。これがイサクの信仰だったのです。そう言えば、父アブラハムが自分を全焼の捧げものにするために殺そうとした時も、抵抗しなかったのがイサクでした。

イサクが持っていたのは、まだイエス様によって現されてはいませんでしたが、十字架と復活の信仰だったのです。たとい、捧げものとして屠られることがあっても、もう一度蘇らせてくださる神様がいる。

神様が祝福すると約束してくださった。今持っているものを失うことがあったとしても、それに勝る祝福を注ぎ、満たしてくださる方が共にいてくださる。

神様は、彼に新しい井戸を与えられました。もう争いは生じませんでした。神様がイサクと共にいることを、誰もが認めたからです。イサクに広い場所と、平和をお与えになった神様がおられました。信頼するイサクに約束をはたされた方がおられたのです。神様は言われました。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす/わが僕アブラハムのゆえに。」そしてイサクは神様を礼拝します。イサクに祝福を満たされた方がおられたのです。

私たちは、このイサクの記事の中に、柔和な者の幸い、柔和な者に与えられる祝福を見ることができます。

聖書に次のような言葉があります。

ローマ8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

神様の御手の中、神様の時の中で、万事が益となるように共に働く。神が全てのことを働かせて益としてくださる(新改訳)。これは、今悪いことがあっても、後で良い事が起こるということではありません。今、最悪と思われるような事も、神様の最善というメカニズムの一つの歯車となるというのです。二つの隣り合う音は不協和音となり、耳障りですが、曲全体のハーモニーの中では一つの重要な部分を構成するのと似ています。それだけを見ると、無いほうが良いと思われるような出来事さえ、神様の永遠の時の中で積極的な意味を与えられていくのです。

だから、私たちは目に見える状況に絶望しないようにしましょう。争わないようにしましょう。神様は私たちに祝福を備えておられるからです。神様の祝福は、私たちが争って手に入れるものではありません。神様が祝福すると決めてくださっているから、私たちは祝福されるのです。

人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。箴言10:22

そして、この祝福の御手は、決して私たちから離れることはないのです。なぜなら、神様には変わらない計画があるからです。私たちを礼拝者とするという計画です。私たちをイエス様の姿を映すものするという計画です。それを実現するために、神様は私たちを召しだして下さった。神様は、私たちが礼拝者として神様の光を受けて輝き、イエス様の姿を映す者となっている様子をすでに見て、喜んでくださっている。だから、神様は諦めないのです。私たちの目には好ましくないという状況があるかもしれない。しかし、神様は、そこから私たちを救い出し、私たちに祝福を注ぎ、私たちを鍛え、整え、ご自身の計画を必ず実現なさるのです。イエス様にある神様の愛から私たちを引き離すものはないのです。イエス様が握ってくださっているからです。

ローマ8:31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。 8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。 8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。

8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。8:36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

私は、若い時、この箇所を、神の愛から私たちを引き離そうとするものに対して、信仰によって勝利し、自分の力で神様の愛に留まらなければならないと理解していました。しかし、そうではありません。私たちを握ってくださっている方がいる。私たちが良くても悪くても握ってくださっている方がいる。イエス様が握ってくださっているから、神の愛から引き離すことはできないのです。

私たちが自分の思いを実現しようとして戦わなくても、神様がご自身の御心をなすために戦ってくださる。私たちの思いではなく、神様の思いが実現していく。だから、私たちは自分の思いの実現という高慢をすて、イエス様に全てを委ねたいのです。ここに平和と平安が実現していくのです。

最後に、柔和にされる者に与えられる品性について、見ておきたいと思います。第一コリント13章

13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。13:8 愛は決して滅びない。

「愛」の部分に自分の名前を入れて読んでみましょう。次に「キリスト」を入れて読んでみましょう。自分の力、生まれ持った自分の性格で柔和であることができないことを私たちは実感するに違いありません。私たちは、柔和であったイエス様を必要としているのです。イエス様は、イエス様を無視していた私たちに対してさえ、礼を尽くしてくださった、自分のことばかり考えていた私たちのために、十字架にかかってくださったのです。イエス様は苛立たず、ご自分を十字架に架けるものたちのために、私たちのために祈ってくださった。イエス様は、こんな私たちを忍び、受け入れ、こんな私たちを信じ、私たちの未来に期待し、希望を持ち、そして待ってくださっている。

このイエス様が私たちの中に満ちてくださるから、私たちは柔和なものとなっていくことができます。柔和だったイエス様の御霊が私たちを柔和なものとするのです。そして、私たちが生まれる前から、天地が造られる前から計画されていた神様の溢れる祝福を惜しみなく注いでくださるのです。

「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」

祈りましょう。

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