「マタイの福音書」連続講解説教

権利を捨てて

マタイによる福音書5章38節から48節
岩本遠億牧師
2006年11月19日

5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。 5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

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マタイによる福音書を学んでいます。今学んでいる山上の説教の中には、私たちにとって守ることがとても難しいと思われるものが含まれています。毎週申し上げていますが、これは、私たちが到底守れないような基準の高い律法を与えて、私たちが罪人であることを意識させることを目的としているのではありません。

勿論、私たちは、ここでイエス様が教えておられる自分の力で守ることはできません。ですから、私たちにはイエス様の十字架の血による赦しが必要です。しかし、十字架の血による救いが必要であることを知らせることが目的で、このような教えをのべておられるのではありません。むしろ、私たちが肉の思いでは達することができないような、新しい霊的律法の世界があり、その世界から命と力を私たちに注いでくださる方がおられるということを私たちに知らせることに眼目があるのです。イエス様は、私たちが自分で成すことができないことを、天来の命によって成就させるということを教えておられるのです。

今日の箇所で、まずイエス様は「復讐してはならない」と言われます。モーセの十戒にも「目には目で、歯には歯で」と命じられていますが、これは古代オリエントから地中海世界にいたる地域で取られていた同態復讐法と言われるものです。目を傷つけられたら、それ以上の復讐をしてはいけないということです。これは、復讐の限界を定めることによって、報復合戦を食い止める働きがあったのですが、当時のユダヤでは、すでにこのような同態復讐は行われておらず、金銭的な賠償による解決が行われていたということです。ですから、イエス様は個人的な損害に対して、自分が持つべき当然の権利を放棄しなさいと教えておられるのです。ここで問題となっているのは、キリスト信仰の鍵とも言える謙遜の教えです。

相手の右の頬を打つとは、右手の甲で打つことになりますが、これは侮辱を与えることを意味していました。そのような侮辱に対してでさえ、個人的な恨みを持って仕返しをしようとする心を捨てるようにと教えておられます。

ただ、ここで教えられているのは、社会的な悪や、罪に対して口をつぐむということではありません。イエス様ご自身も、大祭司に尋問されているとき、下役が律法に反してイエス様に殴りかかったことに抗議しておられますし、使徒たちも悪や罪を厳しく糾弾しています。また、私たちは愛する者が窮地に追い込まれているとき勇気をもって立ち上がり、立ち向かわなければなりません。

権利を放棄するというのは、次の例にも現れています。当時の人々は何枚かの下着を持っていましたが、上着は一枚しか持っておらず、これは、夜の寒さから身を守るために必要なものでした。ですから、上着を質にとっても、日没までには返さなければならないと定められていました。

出エジプト22:25 もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。 22:26 なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。

上着は、当然の権利として自分が保持すべきもの、イエス様は、そのようなものまで与え尽くす気構えでいなさいと教えられているのです。次の二つの例も同じ内容です。このように、ここで教えられているのは、自分が当然の権利として持っているものを放棄することをとおして、神様こそが私たちの全てだと知るということです。

次に「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」とありますが、1ミリオンとは1480mにあたります。これは当時ローマ帝国内で行われていた被支配民に対する強制徴用を指すと言われています。クレネ人シモンが動けなくなったイエス様の十字架を無理やり背負わされたのは、このような強制徴用の一例です。このような時、いやいやではなく、むしろ自発的に1ミリオンの二倍の2ミリオン一緒に行けと言われます。

侮辱されたり、実際的な損害を与えられたり、したくもないことをさせられたりすると、私たちは赦せない気持ちになります。何とかして自分で仕返しをしないと気がすまないような思いに満たされます。しかし、自分に損害や損失を与えた人がどのように裁かれるのかということと、自分がどうあるべきかということは切り離さなければならないのです。私たちは、怒りと憎しみに駆られた行動を取ることによって、自らが罪の中に縛られてしまうからです。自分自身が裁き主になってしまい、神様との関係がおかしくなってしまうのです。ですから、神様は言われます。自分で復讐するなと。

ローマ12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

損害を与えられたり侮辱されたりすると、私たちは、自分の価値を低められたような気がします。屈辱感を感じるのはそのためです。しかし、私たちは忘れないようにしたいのです。神様は、私たちを卑しいものとは見ておられないことを。屈辱を受ける私たちに向かって、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と言って下さる方がおられるのです。

詩篇136:23 低くされたわたしたちを/御心に留めた方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。(新共同訳)

136:23 主は私たちが卑しめられたとき、私たちを御心に留められた。その恵みはとこしえまで。(新改訳)

神様は、私たちを卑しめておられない。神様は、私たちを御心に留めてくださっている。あなたは高価で尊いと言って下さっている。人が与える屈辱や損害は、私たちの神の子としての価値と尊厳を低めることはできないのです。私たちの価値を決めるのは、人ではなく、私たち自身でもなく、神様だからです。神様があなたの尊厳を守られるのです。私の尊厳を守られるのです。その時、卑しめられ、屈辱を受けて、十字架にかけられる時ずっと「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈り続けておられたイエス様の尊厳と輝きが私たちの中に注がれるのです。怒りや憎しみをはるかに超えた、神様の輝きに満たされていくのです。

そして、今最悪と思えるような事態でさえ、神様の永遠という時の中に意味が与えられ、神様が全てのことを働かせて益としてくださるのだという信仰が与えられていくのです。

ローマ8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

私たちは、捨てること、自分の権利を神様に捧げることによって神様に満たされていきます。神様の輝きがわたしたちを包むようになっていくのです。神様が私たちの全てとなっていくのです。

旧約の時代にアブラハムという人が生きていました。彼は、神様の声を聞き、偶像礼拝の土地、父の家を離れて、神様がお示しになる地に出て行きました。カナンの地に着いたとき、神様は彼に、この地をアブラハムの子孫に与えると約束なさいました。しかし、彼はその直後に飢饉に見舞われ、エジプトに逃れなければなりませんでした。妻をエジプト王に取られそうになったりしますが、彼は、無事カナンの地に戻ってきます。しかし、いつまでたっても約束の子は生まれず、アブラハムも妻のサライも老人になってしまいました。

当時の社会的慣習に従い、サライは自分の女奴隷ハガルをアブラハムに与え、それによって跡取りの子を得ようとしますが、神様の御心はそこにはありませんでした。あくまでもサライから生まれるアブラハムの子を約束の子、祝福の子とするというのが神様の御心でした。

そして、さらにアブラハムもサライも歳が進み、子供が生めない体になったとき、無から有を呼び出す神様の力によって、二人に約束の子が与えられるのです。それがイサクです。イサクは、神様がアブラハムに約束なさり、その約束の結果与えられたたった一人の息子です。イサクを跡取りとして立派に育て上げることは、アブラハムに与えられた最も正当な権利であり、責任でもありました。

しかし、神様は、アブラハムに言われるのです。「イサクを生贄としてわたしに捧げよ」と。神様は、アブラハムが自分の権利として握り締め、しがみついていたものを捨てるようにと言われたのです。勿論、彼は神様に反論することはできた筈です。「この子はあなたが約束として与えられたものではありませんか。この子から多くの子孫が生まれるはずではありませんか」と。しかし、アブラハムはそのように反論しないのです。

アブラハムは知っていました。無から有を呼び出し、命を創造する方がおられることを。彼は信じました。死んだ自分の体からイサクを創造した方は、捧げられ死んだイサクを復活させることができることを。

アブラハムにとっては、人生最大の試練でした。しかし、神様は、意地悪をなさったのではありませんでした。それから二千年の後、神様も、モリヤの山でご自身の最愛の独り子イエス様を十字架につけ、人の罪のためにお捧げになったのです。そして、復活させられました。

神様は、アブラハムを神様の心を知る者、神様に近い者、神様の友となるように、招かれたのです。

アブラハムがイサクを捧げようとした時、神様の使いが彼を止め、彼はその代わりに神様が備えられた雄羊を捧げますが、アブラハムの信仰は、このことを通して更に強められ、純化されていくのです。

神様は、アブラハムに言われました。「わたしの前に歩み、全き者であれ」と。全き者とする神様の訓練は、決して楽なものではありませんでした。しかし、それは、彼を祝福の基、信仰の父へと作り変えていく導きと祝福だったのです。

イエス様ご自身も、ご自分の権利を放棄して神の子の栄光に入られたのです。

ピリピ2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

イエス様は、神の子であり、イスラエルの王でした。人を思いのままに操り、ローマを駆逐してイスラエル王として即位する権利を持っていたのです。しかし、それを放棄して、貧しい人と共に歩み、彼らに仕え、彼らの足を洗われました。そして、それだけではありません。イエス様は、神の子ではなかったでしょうか。父なる神様の全き愛を完全に受ける権利をお持ちだったのではないでしょうか。しかし、イエス様は、神の子の身分を捨てて十字架にかけられたのです。ご自分に代えて私たちを神の子にするためです。

イエス様こそ、謙遜とは何かを表された方。謙遜の中に、神様の栄光の全てが注がれたのです。イエス様は、この教えの中で、自分で自分の思いを実現しようとするのではなく、神様に自分の思いの全てを委ねなさい。謙遜でありなさい。神様があなたを満たしてくださることだけを期待しなさいと仰っているのです。私たちを決して見捨てない方が、私たちを満たしてくださるからです。私たちの肉の思いを遥かに超えて、霊的な栄光で私たちを包み、私たちを引き上げる方がおられるのです。

繰り返しになりますが、イエス様は私たちが守れない新しい律法をあたえようとしておられるのではありません。肉の思いを超えた更に豊かな、更に栄光に富んだ天の祝福と栄光で私たちを満たそうとしておられるのです。それがイエス様の願いなのです。

私たちの尊厳は、私たちが自分の権利を主張することによって輝くのではありません。むしろ、私たちが自分を主張するとき、尊厳は輝きを失うのです。何故か?私たちの尊厳は、これを造られた神様の手の中に握られているからです。神様によってのみ輝くからです。自分の権利を主張せず、神様に全てを委ねる謙遜の中に、十字架という究極の謙遜によって天の全ての恵みと栄光をもたらされたイエス様の存在が満ち溢れるのです。

イエス様は、私たちに守ることができないような新しい律法を与えられたのではありません。「わたしと同じようになれ」とおっしゃっているのです。「わたしが生きている命と同じ命に生かされよ」と招いてくださっているのです。

祈りましょう

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