「ヨハネの福音書」 連続講解説教

死と葬りが動かしたもの

ヨハネの福音書19章38節~42節
岩本遠億牧師
2011年4月3日

19:38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。
19:39 前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。
19:40 そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。
19:41 イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。
19:42 その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。

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イエス様の葬りの場面であります。今日も私たちは「使徒信条」を共に告白しました。その中に「十字架に付けられ、死にて葬られ」とあります。何故「死んだ」だけではなく、「葬られ」と加えられているのか。

私たちが礼拝の中で毎週ご一緒に学んでいる『ハイデルベルク信仰問答』の問41に次のように説明されています。

問41「なぜこの方は『葬られ』たのですか。」
答え 「それによって、この方が本当に死なれたということを証しするためです。」

三日後に甦ることになっていたから、仮死状態だったのではないかとか、普通の人の死とは違った特別な死に方だったのではないかというような考えを持つ人もいるかもしれない。しかし、「葬られた」ということによって、本当にイエス様は死なれたのだ。私たちが死ぬのと同じように死なれたのだということを確実なこととして伝えているのです。

イエス様が確かに死んだのでなければ、罪の贖いはなく、また、復活も虚しいものです。それは、多くの人たちが単に漠然と期待しているような霊魂の不滅と同じ範疇に属するものとしてイエス様の復活を信じることになるからです。

イエス様は、確かに死んだ。だから、私たちの罪は贖われたのです。また、死の底からの復活が、私たちに永遠の命を与えるのであります。

確かに死んだということを確認すること、また、確認されることは、非常に重要なことです。また、葬るという行為も、非常に重要な意味を持ちます。これらが行われない間、時間が止まってしまい、心が一歩も前に進まなくなってしまうからです。

今回の震災による津波で非常に多くの方々がお亡くなりになりました。しかし、その多くの方々の遺体がまだ見つかっていない。今も多くの方々がご家族の遺体を探していらっしゃる。皆さんの中にもご覧になった方がいらっしゃると思いますが、先日夜のニュース番組で、一階が潰れてしまった家のその一階に父親がいたという女性を取材していました。形が残っている二階をどかさなければ一階の様子を見ることができない。大型重機で二階部分を取り壊して、一階を捜索したらお父様の御遺体が見つかった。

それまで気丈にしていらっしゃったその女性が声を上げて泣かれました。本当に悲しいことです。苦しいことです。本当なら生きていてほしかった。誰もがそう思います。しかし、遺体が見つからなければ、時間が進んで行かないのです。今この女性が願っていたこと、そして必要だったのは、お父様の御遺体を見つけて、葬って差し上げることだったのです。それによって、止まっていた時間が動き出す。

また、葬るということも非常に重要です。あるところに一人の婦人がいました。彼女は夫を愛することができず、長男を溺愛しました。彼女は息子と一緒にキリスト教の集会に通っていたこともありましたが、信仰を持つことができませんでした。ところが、ある日その長男が突然死してしまいました。彼女は、長男の死を受け入れることができず、火葬した後も、ずっと自分が死ぬまでその遺骨を自分のそばに置いて、それに話しかけ続けました。しかし、その時から彼女の時間は止まり、精神を病んで行くのです。葬りということを行わなかったため、彼女の心は死の世界に留まり、心が死から解放されることがなかったのです。

聖書は、「イエス様は死んで葬られた」と明確に語っています。誰の目にも明らかに死に、そして、葬られたのだと。イエス様の死と葬りが動かしたものがありました。今日の聖書の箇所からそれを見て行きたいと思います。

ここにイエス様の葬りに関わった二人の人物が現れます。有力な議員であったアリマタヤ出身のヨセフ、そして、ユダヤ人の指導者であったニコデモです。アリマタヤのヨセフは、有力議員でありましたが、ユダヤ人たちを恐れて、自分がイエス様の弟子であることを隠していたと言います。イエス様を信じる者たちはユダヤ会堂から追放すると、ユダヤ人たちが決めていたからです。ユダヤ教は当時のローマ帝国では公認宗教の一つでしたから、ユダヤ会堂に属している間は、社会的に守られ、生存が保障されていました。会堂から追放されるとは、何時誰に襲われるか分からないという状況に陥るということであったのです。ヨセフは、それを恐れて自分がイエス様の弟子であることを隠していたというのです。

ところが、十字架の死が、ヨセフの心を大きく動かすのです。彼は思い切って総督ピラトのところに行って、イエス様の遺体の取り下ろしと葬りの許可を求めます。ピラトとも面識があったのでしょう。もし、そのままであれば、イエス様の遺体は、ローマ兵によって死刑囚の遺体として処理されてしまいます。丁重に扱われるということは考えることはできません。

彼は、ピラトに自分がイエス様の弟子であることを明かし、遺体を自ら引き受け、自分のために用意してあった新しい墓にイエス様を葬るのです。

ヨセフの心を動かしたものは何だったのか。恐れを超えさせたものは何だったのか。宗教改革者カルバンは、次のように告白しています。

「もし彼らが主イエスの死の香りに浸されていなかったなら、このようなことは決してしなかったであろう。それから見ても、この福音書の12章24節でイエス・キリスト自身言っていることが、どんなに真実であるか、明らかである。

麦の種は、死ななければただ一粒のままであるが、死んだ後は豊かに実を結ぶことになる、と。わたしたちはここに、かれの死がかれの生よりも、さらに生気を与えるものだったことの、明らかな証拠を見る。」

イエス様の死が、ヨセフに力といのちを与えたのです。恐怖を乗り越える力、自分はイエス様に愛されたと告白する力を十字架の死が与えたのです。

ここにもう一人の人が登場します。ユダヤ人の指導者ニコデモです。かれは、ヨハネの福音書3章に出てくる人ですが、既に老人になっていました。ヨセフも自分の墓を用意していたのですから、彼も老人であったでしょう。二人は、ユダヤ人社会の中では裕福な指導者層に属する者たちでしたが、人目につかないところでイエス様に出会い、また二人でイエス様から教えられたことを分かち合っていたに違いありません。ヨセフがイエス様の遺体の取り下ろしについて相談したのがニコデモであったからです。

ヨハネの福音書3章は、ニコデモが夜イエス様を訪ねた時のことを記しています。ニコデモはイエス様に「私たちは、あなたが神から来られた教師であることを知っています」と告白しますが、それは、「ユダヤ人たちの中には、あなたを神から来られた教師として支持している人がたくさんいます。私はその代表としてそれを伝えに来ました」という意味でした。

それに対してイエス様は答えられます。「人は新しく(あるいは上から)生まれなければ神の国に入ることはできない。」新しい霊的な誕生をしなければ、神の国に入ることはできないということです。

ニコデモは答えます。「人は老人になってもう一度母の胎に戻ることができるでしょうか。」

これは、ニコデモがイエス様の言葉を理解しなかったから頓珍漢な答えをしたのではありません。「私は、若い時から新しい霊的な誕生を求めて生きてきました。しかし、どんなに努力しても、精進しても、それは与えられなかった。私はもう老人になってしまいました。もう一度母の胎に戻って人生をやり直し、もう一度チャレンジすることはできません」という、落胆の声、失望、絶望の言葉だったのです。

イエス様は、答えられます。「聖霊の風は自由に吹きます。聖霊の風は自由にあなたのところまで吹いて来て、あなたを新しくする。あなたも聖霊によって新しく生まれることができるのです。人の子(わたし)は、十字架に挙げられなければなりません。私は十字架に死にます。しかし、十字架に死んだわたしを見上げる者は永遠の命を与えられるのです。わたしの十字架によって聖霊の風が自由に吹くようになる。あなたは、新しく生まれ変わり、永遠の命を与えられるようになる」と。

ニコデモは、ずっとこのイエス様の言葉を胸の中で反芻し、そしてイエス様が自ら十字架への道を進んで行かれるのを見てきました。彼は、どのような思いで十字架に向かわれるイエス様を見ていたのでしょうか。

自分で自分を変えられなかったニコデモを新たなものとするために、イエス様は自ら十字架に死ぬと仰った。そして、イエス様はそれを実行に移され、贖いを完成して下さったのです。

彼は、イエス様の葬りのためにアロエと没薬を混ぜた香料30キロほどとイエス様の体を巻く亜麻布をたくさん用意していました。彼は、自分がイエス様の葬りをすると決めていたのだと思います。アリマタヤのヨセフとも、このことを何度も話していたに違いありません。

二人はイエス様の十字架の下まで行きました。十字架の下から死んだイエス様を見上げたのです。「見上げる者は、生きる。十字架を見上げる者は、永遠の命を持つ」と言われたイエス様の言葉が、二人の上に実現したのです。

ニコデモは、ヨセフと共にイエス様の体を十字架から取り下ろし、血だらけになったお体に触れ、きれいにし、没薬とアロエの香油を塗りながら、イエス様のお体に亜麻布を巻いて行くのです。どんな思いだったでしょうか。

私のために十字架に上げられる。私のために死ぬと言ってくださった方が、今、確かに死んだ。確かに、自分の手でイエス様を葬ったのです。

イエス様のお体を墓に入れて、そこに石を転がして蓋をした時、ニコデモは自分もイエス様と一緒に死んだのだと確信しなかったでしょうか。この方が私のために死んだ。滅ぶべき私に代わってこの方が死んだからです。私に死んだのは私なのだ。しかし、私は死なず生かされている。

パウロは告白しました。
「2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」ガラテヤ人への手紙2:19-20

イエス様の死、イエス様の葬りが、彼らを永遠の命に繋いだのです。ニコデモもヨセフもペンテコステの日に、一緒に祈っていた人々の中にいた筈です。イエス様の約束のとおりに、聖霊の風が彼らのところにも吹いて来て、彼らを新しい存在として生まれさせたのです。

自分で自分を変えられない私たち。こんな私たちを神の子とするため、新しく神の子として生まれさせるため、イエス様は確かに死なれたのです。死んで贖いを完成して下さいました。そして、確かに葬られたのです。

罪によって止まっていた私たちの時間。しかし、イエス様が死んで葬られたから、止まっていた私たちの時間は動きだしました。永遠の時間が動き始めたのです。永遠という時間の中に生きる者として、私たちは造りかえられたのです。神の子とされたのです。

祈りましょう。

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