「マタイの福音書」連続講解説教

永遠の大祭司キリスト

ヘブライ人への手紙5章7節~10節、マタイによる福音書26,27章
岩本遠億牧師
2007年4月1日

今日は、イエス様が十字架にかかるためにエルサレムに入場なさったシュロの日曜日、木曜日が最後の晩餐、金曜日が十字架にかけられた受難日、そして来週の日曜日が復活祭となります。

皆さん、皆さんは何故、教会に来ておられるのでしょうか。きっと自分の中にかけた部分があると感じているからではないでしょうか。自分の力で満たすことのできない心の中の空虚や、存在の中の欠けを満たすものを求めて教会にやって来られたのではないかと思います。その欠けや空虚を聖書は罪と言います。本来なら完全なものとして神様と共に生きるために創造された人が、神様から離れた生き方をして、神様だけにしか満たすことができなかった存在の中に隙間ができてしまったのです。そしてその隙間に、不安や恐れ、汚れや人に対する怒り、苛立ちなどが入ってきてしまいます。このようは状態を罪と言います。神様と完全に一つでない存在のありかたを罪と言うのです。私たちは、この罪から救われるためにイエス様を求めてきたのではないでしょうか。私たちは、罪という存在のあり方を祝福という存在のあり方に造りかえることができるお方に出会うために礼拝の場にやってきました。

聖書は言います。私たちが「罪」から「義」に造りかえられるのに必要なのは、私たちの行いではないと。私たちの頑張りではないと。ありのままの私たちを受け入れ、それをそのまま「義」に造りかえることができるのがイエス様の十字架だというのです。私たちの存在のあり方そのものを祝福に変えることができるイエス様がいるのです。私たちは、今日、罪を打ち砕いて、私たちを祝福の中に入れるために、イエス様が何をしてくださったかを知りたいと思います。イエス様は、私たちを助け、その一つ一つを理解することができるように導いてくださるでしょう。私たちはイエス様に出会うことができるでしょう。

神様は、罪によって滅んでいく人間を救う恵みの計画を実行するにあたり、アブラハムというイスラエルの祖先を選び、彼から生まれるイスラエル民族に律法をお与えになりました。そこに定められたことの中心は、罪の清め、神様との関係の回復の手順、そして礼拝の規定でした。律法は語ります。「血を流すことなく罪の赦しはない」と。罪は命によってのみ贖われるということです。彼らは罪を犯すたびに、動物を捧げました。幕屋では毎日動物がささげられました。また大祭司は、年に一度、大贖罪日という贖いの日に動物の血をもって聖所の奥の間(至聖所)に入り、そこに置かれている契約の箱に血を注ぎかけて、その年のイスラエル民族全体の罪の贖いをしました。このようにして、神様は、罪は赦されなければならない、罪は清められなければならない、それなしには、存在の回復、神様との関係の回復はないのだということを、繰り返し、徹底的に教えられたのです。

イエス様は、このイスラエルに与えられていた律法を、完成し、全人類を救うために、この地にやってこられた神の御子です。人が罪を犯すたびに、また毎日、毎年、捧げなければならない献げ物は、不完全なものであり、人の罪の心を完全に清めることはできません。また、罪そのものの力を打ち砕くこともできないのです。イエス様は、永遠の大祭司として、この罪の本質を打ち砕くため、全人類の永遠の贖いをするためにやってこられたのです。

イエス様は、多くの人に神の国の福音を教え、多くの人を癒し、神の国をこの地に実現していかれました。自分の意志を行うのではなく、ただ父なる神様の御意志を現すために、ご自分を虚しくなさいました。イエス様は、人が受けるあらゆる苦しみと試練、誘惑を受けながらも、罪を犯さず、ただ父なる神様に従い、その御心を行うために、自らを虚しくし、完全な者と証されたのです。

ヘブライ人への手紙5:7 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 5:8 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 5:9 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、 5:10 神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。

イエス様は、当時の宗教的特権階級の腐敗を厳しく糾弾し、彼らが金科玉条のように大切にしていた律法主義、安息日主義、神殿礼拝主義を否定なさったため、彼らに憎まれ、付不法な裁判にかけられ、外国人の手に渡され、殺されました。イエス様は、外から見たら、ユダヤ教内部の対立によって殺されたように見えますが、もっと本質的な意味がありました。

完全な方が捧げられるとは、この地上に完全な礼拝が捧げられるということです。他の何ものもなしえなかった完全な礼拝が捧げられる時、父なる神様の御心が満たされ、その恵みが大雨のように地に降り注ぐからです。また、罪と悪魔によって汚された被造物によっては決して捧げられることのなかった、完全な献げ物が捧げられることによってそれによって、悪魔が打ち砕かれ、人間の罪の根本問題に解決をあたえる罪の赦しが与えられるからです。イエス様の十字架には、完全な礼拝と罪の贖いという2つの大きな意味があったのです。

完全な大祭司自らが、ご自身を神様に捧げ、十字架に血を流すことによって、不完全なものによっては行うことができなかった真の礼拝が行われ、動物の血によっては解決することができなかった全人類の罪の問題を、完全に解決されたのです。完全な神の御子の十字架の血によって、罪そのものの力、悪魔の力が打ち砕かれました。

このイエス様の十字架の血が私たちを神様の前に完全にするのです。不完全な者がどんなに頑張っても完全になることはできません。ただ完全であられたイエス様の血が私たちを完全なものとして神様の前に立たせるのです。私たちは、このイエス様の十字架の血をほめたたえましょう。その時、圧倒的なイエス様の命、私たちを完全な者とするイエス様の血が注がれるのです。

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聖書を開きましょう。今日はマタイによる福音書を読みながら、十字架を受け入れていくイエス様の姿を偲びつつ、如何にイエス様が完全な大祭司としてのご自分の存在を現されたかをご一緒に見て行きたいと思います。

26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 26:37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。 26:38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 26:39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

イエス様は、十字架を避けようと思えば避けることはできました。何も罪を犯していなかったので、裁判を行ったピラトに対して、「これは、律法の解釈上の問題であって、私が訴えられたのはねたみによるものだ」と言えば、十字架を回避することができました。しかし、裁判の席で、どんな訴えの言葉にも反論なさらず、ただ、完全な大祭司としての自分を十字架に捧げよ、という父なる神様の御意志に従われました。

イエス様は、ご自身を完全な献げ物として捧げるために、十字架を受け入れる決心をなさいますが、そこには壮絶な内的な戦いがありました。十字架を受け入れるイエス様の苦しみと悲しみ、それは、単に肉体的な痛みに対するものではありませんでした。

イエス様の苦しみ、それは、最愛の神様との断絶であり、神様から見捨てられ、十字架の死後、全人類の罪を身に受けて地獄に落ちていくことだったのです。イエス様が神の御子としての存在を捨てる、悪魔は勝ったと思ったかもしれない。しかし、罪のない完全なイエス様が罪人に代わって神の子としての実存を捨てたことによって、罪そのものの力が無効とされ、罪の力、悪魔の力が打ち砕かれたのです。

イエス様は、いつも父なる神様とひとつでした。ひとつであることを望まれました。しかし、引き裂かれることによってしかなしえなかった私たちの救い、悪魔に対する勝利、このことのために、父なる神様の御心に従われました。イエス様は引き裂かれ、神の御子としての実存を失いました。しかし、そこから流れ出た絶大な命、完全な神の子の血潮が私たちに注がれ、私たちは赦され、生かされ、神の子とされたのです。自分の不完全な行いでは自分を救うことができなかった私たちを、神様の目に完全なものとしたのです。

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27:33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、 27:34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。

「苦いものを混ぜたぶどう酒」とは、感覚を麻痺させる麻酔効果のある没薬を混ぜたぶどう酒だと言われます。イエス様は、それをお受けになりませんでした。最後まで、明確な意識をもって、父なる神様がご自分にお与えになった十字架の苦しみをお受けになりました。私たち全人類の全ての罪をその身で受け止めるためです。そして、私たちの痛みと苦しみの全てを知り尽くすためです。

イエス様は、神様の恵みと喜びに満ちた方でした。しかし、全人類の罪の痛みと苦しみにも満たされたのです。イエス様は、全てを満たす。神であった方が人となり、全てを満たしてくださったから、私たちは救われたのです。痛みと悲しみ、苦しみの全てを知ってくださったから、それを嘗め尽くして下さったから、私たちは癒されるのです。全ての罪が赦されたのです。

十字架の苦しみの中で、御子としての尊厳を貫き、完全なものとなって下さったイエス様、この方こそ、栄光を受けるべき方、私たちの王です。

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27:39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、 27:40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 27:41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。 27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」

イエス様は、嵐をも鎮める力をお持ちの方でした。もしイエス様がその御力をもって奇跡を起こし、十字架から降りてこられたら、彼らはイエス様を信じたでしょうか。イエス様を恐れたかもしれません。その前にひれ伏したかもしれません。しかし、決して信じることはなかったでしょう。イエス様を信じるとは、十字架に釘付けられ、弱く動けなくなった神の御子を自分の救い主として心に迎えることだからです。

なぜイエス様は弱くなられたのか、なぜ動けなくなったのか、なぜ完全なお方がこれほどまでに卑しめられ、低められたのか。あんなに力強かったイエス様が、今、釘打たれ、磔にされて動けなくなっている。罪のないイエス様が、こんなに弱くなられた。そこに絶大な贖いの命が流されたのです。私たちの罪を赦すため、私たちを救うため、私たちを生かし、私たちの存在を回復するためでした。イエス様は、自分のために何も残さず、内に持っておられた永遠の命の全て、全ての罪を赦し、悪魔を打ち砕く力の全てを私たちの上に注ぎ出されたのです。この弱い愛の姿の中に、絶大な神の救いの力が現されたのです。

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27:45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

十字架のイエス様の苦しみ、それは、神様との断絶の苦しみでした。文字通り、神様に見捨てられる苦しみだったのです。イエス様は、この後、地獄に落ちて行かれますが、イエス様が地獄に落ちていかなければなし得ない救いの業がありました。

それは、地獄に縛られている者、神様と断絶した苦しみ中にいる者を地獄から救い出すということです。イエス様は、地獄の底にまで神様の救いの光を届ける方。全てをご自分の臨在で満たす方。まさに、完全な大祭司、王の王、主の主です。

私たちの中にも、神様に見捨てられたと感じるような苦しみを通っている方がおられるでしょう。罪が神様と自分の間を隔てている。自分の声は神様に届かない。

神様から切り離され、地獄にまで落ちたイエス様が、そんな私たちのところに来て下さったのです。神様に見捨てられたと思う私たちと同じところ、いや、さらにその下までやってこられたのです。地獄の底まで下られたイエス様が私と共にいてくださる。

来週は復活祭。私たちのために地獄にまで行かれたイエス様が私たちを苦しみの中に放っておいて、ご自分だけ復活されることがあるでしょうか。イエス様が神様に見捨てられたのは、私たちを決して見捨てないため、どんな人をもご自分と共におらせるためです。

祈りましょう。

天のお父様。今日、受難週を迎える日曜日、このようにして主イエス様の十字架を覚え、共に集い、礼拝を捧げることができたことを心から感謝いたします。

イエス様、あなたの十字架の血を誉め讃えます。あなたは、私たちと同じような苦しみや試練、誘惑にも遭いながら、罪を犯さず、完全な大祭司として、父なる神様の御心を表してくださいました。十字架にご自身をお捧げになった完全なあなたの尊い血潮、全人類の罪、私たち一人一人の罪の根源を打ち砕いて下さったあなたの血潮によって、私たちを赦し、贖い、救って下さったことを心から感謝いたします。

主よ、どうぞ、あなたの尊い十字架の血潮を今日も私たち一人一人に注いで下さい。あなたの血でなければなしえない、真の礼拝、完全な礼拝の中に私たちを招き入れ、あなたの溢れる光の中、私たちもあなたを礼拝することができるよう、導いて下さい。そして、あなたの救いの業を一人一人に行い、私たちの内に外に働こうとする悪魔の力を打ち砕き、あなたの満ち満てる命の中に新しくして下さいますよう、心からお願いいたします。

そして、主よ、弱っているお一人お一人にあなたの血を注ぎ、あなたの永遠の命を注いでください。あなたの命に満たされて立ち上がることができますよう、あなたの希望を頂いて生きることができるよう、どうぞ、お一人お一人をあなたご自身が満たしてくださいますよう、心からお願いいたします。

感謝して、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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