「マタイの福音書」連続講解説教

消えない火を持っているか

マタイの福音書25章1節から13節
岩本遠億牧師
2008年9月14日

25:1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。25:4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

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イエス様は、ご自身の来臨の時、仲間たちに食事を備える思慮深い良い僕とはどのような者であるのかということを、さらにたとえ話をもってご説明になります。その最初が、賢い乙女と愚かな乙女の喩です。

このイエス様の喩をもとに作曲された有名な曲に、バッハのコラール「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」というのがあります。賛美歌にも収められていて、先ほどご一緒に歌いました。この曲は、結婚式の時に歌われたり、結婚式の入場の時の曲として用いられることも多いのですが、私も結婚式の司式をするとき、この曲を入場の時に使ったことがあります。

イエス様は、「終わりの日に私はお前たちを迎えに来る」と仰ったわけですが、この喩に込められたイエス様の御思いは、まさに、結婚式の喜びの宴に迎え入れるように、お前たちを迎えに来るぞ、というものであったということがわかります。花婿はイエス様ご自身、そして花嫁は教会です。私たち一人一人は、教会の一部として、また花嫁である教会の付き人としてイエス様に迎えられるのです。終わりの日というのは、そのような時なのだということをイエス様は私たちに分からせようとしておられるのです。

これから、十字架に架けられて殺されようとしているイエス様が、まさに人間が最も恐れ、そして不吉なものとする、死そのものを結婚式の喜びと結びつけておられる。これは驚くべきことであって、私たち人間の想像を超える、実存の命を握っておられる方だけがなすことができる愛の業であります。

余談ですが、私もこの肉体を脱ぎ棄てて天に帰るとき、この賛美を歌いたいものだと願います。

この物語を理解するのは、難しいことではないでしょうが、幾つか解説も必要かと思います。当時の結婚式は、1年ほどの婚約期間を経た、すでに法的には夫婦となっていた花嫁を花婿が迎えに行き、花婿の家で祝宴が開かれたということです。花嫁のところには、乙女たちが待機していて、ともしびを手にとって花婿の家まで道を照らし、共に結婚の宴につきました。ですから、ともしびのための油を人に分けることはできなかったのです。分けてしまうと、自分の火も消えてしまい、結婚の行進の道を照らすことができなくなるからです。

当時の人々は皆知っていた、このような背景を知っていると、イエス様のこの喩の意味も理解しやすくなるでしょう。

イエス様はここで賢い娘と愚かな娘と言われましたが、火を灯し続けるためには、ランプだけではなく必要な油も備えておかなければならないということを、知っているか知らないかという違いだということです。ストーブは買ったけれど、石油は買わなかったら、部屋を暖かくすることはできません。入学試験に行くのに、シャープペンシルは買ったけれども、芯を別に買わなかったら、中に入っている1本分を書いてしまったり、折れてしまったら、もう使えなくなる。そのようなことを知って備えるか、知らずに何もしないか、それが賢さと愚かさを分けるものだというのです。

イエス様は、ここで、お前たちの半分は賢いが、半分は愚かだと仰っているのではありません。賢い者であれ。私の来臨の時、共に喜びの宴につく者であれと仰っているのです。

では、賢いとは一体どういうことか。イエス様は、「目を覚ましていなさい」とおっしゃいましたが、それは一体どういうことなのでしょう。

この喩に出てくる賢い娘たちも愚かな娘たちも、花婿の来臨が遅いので、眠りこけてしまっています。ですから、眠ってしまうことが悪いのではありません。教会でも眠気をどうしようもない時があります。イエス様は、そんな人に向かって、「もっと真剣に求めなさい」などとは仰らないのです。眠ってしまう弱さ、私たちの疲れ、それを受けとめ、うなずいておられるのです。だから、私たちは、「油を用意する」ということと、熱心さということを結びつけてはなりません。

私たちの弱さでなくなってしまうようなものが「油」ではないのです。眠ってしまっている間になくなるものではない。

また、これは、他の人からもらえるようなものでもない。個人個人が持たなければならないものだということも明確に語られています。

昔から、この「油」とは何かということが議論されてきました。ある人たちは、信じて洗礼を受けるだけでは十分ではない、清められ完成された信仰が必要なのだと言いました。また、ある人は、クリスチャンとしての愛の行いであると考えました。また、ある人たちは、熱心に祈ることだ。熱心に奉仕することだと考えた人もいます。また、ある人たちは、この油こそ、聖霊を意味するものであって、聖霊に満たされたものだけが真のクリスチャンなのだと言いました。

繰り返しになりますが、眠ってしまう私たちのこの肉の弱さでなくなるようなものではない。自分の熱心さで増し加わるようなものではないということを心に留めておかなければならないでしょう。

イエス様は、いよいよ捕えられる直前に、ゲッセマネの園で必死で祈られました。その時、ペテロとヤコブ、ヨハネだけを連れて行き、言われました。「目を覚まして、私と一緒に祈れ」と。しかし、彼らは起きていることができず、眠ってしまうのです。そして、ついにイエス様が捕らえられたとき、彼らは怖くなって逃げ、イエス様を否定してしまいました。

彼らは、この油を持っていたのでしょうか。持っていなかったのでしょうか。なぜ、ペテロを初めとする弟子たちは、また立ちあがってイエス様を伝えることができるようになったのでしょうか。主が彼らを愛し、彼らを握っておられたからです。絶望した人間にさらに油を注ぐ方がいたからです。

人の目に見えるような行い、伝道や、献金や、奉仕や、そのようなこと、それは、確かに尊いことです。熱心に行うのが良いと思います。しかし、そのことがイエス様を迎える「油」なのではないのです。熱心さの炎は、一時的に燃え上がることがありますが、それは永遠に燃える炎とはなりえない。イエス様が与えて下さる油とは、永遠に燃え続ける火に注ぎ続ける油であります。

誰も永遠に燃え続ける火を燃やし続ける油を自分の行い、自分の力で手に入れることはできない。行いのない者を義とし、自分で自分を救うことができない者を救い、ご自分のそばに置いて下さるイエス様を知ることです。

そもそも、消えてしまった愚かな娘たちの火とは、一時的には燃えるけれども、永続的に燃えることのない人間の熱心さの火であったとも考えることができるのです。眠ってしまうことによってその火は、危機を迎えるのです。もし目を覚ましていたら、油が足りなくなったことにも気付いたでしょう。そして、必要な油を買いに行くこともできたはずです。彼らの火は、眠ってしまうことで消えてしまうような火だったのです。あるいは、眠ってしまうことで足りなくなってしまうような油だったのです。

イエス様は、私たちにこの永遠の油を注ぐぞ、と仰っているのです。疲れて、眠ってしまっても大丈夫な油を注ぐと仰っている。これが、イエス様の婚宴の喜びに招かれる者たちに必要なただ一つのものなのです。

イエス様は、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われましたが、この「耐え忍ぶ」という言葉は、「留まる」という意味だと言いました。イエス様に留まること。自分の熱心さに頼るのではなく、ただイエス様の恵みに頼ること、そのことによってしか、この油は注がれないのです。信頼していきたいですね。

祈りましょう。

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